第4話

「おかえり、ゆらぎ。今日も楽しかった?」


 家に帰るなり、変わらぬ穏やかな笑みを浮かべるツルギが出迎えてくれる。彼と暮らしてたった一週間だというのに、いつの間にか彼の顔を見ると安堵している私がいた。


「ただいま。……そうだね、いつも通りかな」


 自分の部屋に入り鞄をかけ、部屋着に着替える。机の上におきっぱなしのクローバーのキーホルダーが、夕焼けをきらりと反射していた。黄色と緑のキーホルダーだ。


 黄色は、本当は自分用だ。今、私が鞄につけている浅葱色のものは、本当はゆらぎに買ったものだった。学校でもすこしでも「ゆらぎ」でいたくて、ゆらぎの好きな色を身につけたのだ。


 黙って黄色のキーホルダーを引き出しにしまいながら、数秒だけ目を瞑る。西日がじりじりと肌を焼いていた。


「ゆらぎ?」


 ノックの音と共に、ツルギの声がした。はっと我に返り、慌ててドアを開けに行く。どのくらい、ぼうっとしていたのだろう。


「ごめん、ちょっと考えごとしてて」


 食事の時間にでもなってしまったのかと思ったが、壁に表示された時刻を見る限りまだ三十分はありそうだ。


「後にしようか。邪魔はしたくない」


「いいの、何かあった?」


 一人でいるよりもツルギといたほうがずっといい。彼は廊下の奥へ視線を送った。


「実は、ゆらぎの前の部屋の荷物を整理していたんだけど、これでいいか確認してほしかったんだ。前と似たような位置にしまったつもりだけど、どうしても棚が足りなくて」


 先週母から送られてきたあの段ボールを、開けてくれたらしい。そういえば、空き部屋をアトリエにすると言っていた。


「ありがとう、見に行くよ」


 ゆらぎは、自分の家のいちばん広い部屋をアトリエとして使っていたから、あの空き部屋では確かに手狭だろう。


 ツルギに案内されるがまま、しばらく立ち入っていなかった空き部屋に足を踏み入れる。思わず、はっと息を呑んでしまった。


 ……ゆらぎのアトリエだ。


 場所も間取りもまるで違うけれど、入った瞬間そう思った。壁には完成した絵が何枚もかけられていて、部屋の奥には真新しいキャンバスが設置されている。古びた木の丸い椅子も、絵の具の匂いも、ガラス瓶に無造作に入れられた数えきれないほどの筆も、すべて彼女のものだった。


 ――あさぎ! 遊びに来てくれたの? ちょうど今、あさぎに聞きたかったところなの。ねえ、この色、どっちがいいと思う?


 色とりどりの絵の具が乗ったパレットを差し出しながら笑う彼女が、目の前にいるかのようだった。


 部屋の奥に足を進め、真っ白なキャンバスの前に置かれた椅子にそっと触れる。彼女はずっと、ここに座って絵を描いていたのだ。静かになぞれば、まだ彼女の熱がここに残っているような気がして、たまらない気持ちになった。


「どうかな? スケッチブック類はあっちの棚に入れて……収納場所が足りないから昔の作品はあの箱にしまったんだ。絵の具の在庫の置き場はここにしてみたんだけど――」


 ツルギが、てきぱきと説明してくれる。彼は、どうすればゆらぎが絵に打ち込めるか、よくわかっているのだ。悔しいが、ゆらぎの才能をもっとも身近で支えていたのは、彼なのだと思い知らされる。


「――ありがとう、完璧だよ、ツルギ」


 説明を終えた彼に微笑みかければ、彼もまた鏡写しのように口もとを緩めた。


「食事の支度ができたらまた呼びに来るよ」


 ツルギはそれだけ告げて、静かに部屋をあとにした。


 穏やかな静寂が、押し寄せてくる。秒針の音が規則正しく響いていた。珍しく、掛け時計を使っているようだ。ゆらぎらしい趣味だった。


 そっと、ゆらぎが座っていた椅子に腰掛けてみる。硬くて、あまり座り心地がいいとはいえないが、ゆらぎはこの視線の高さであの美しい絵を生み出していたのだ。そう思うと、いくらでも座っていられるような気がした。


 椅子に座ったまま、そっと目を閉じてみる。絵の具の匂い、秒針の音、電子音のない静寂。


 そこに、ゆらぎの声だけがなかった。


「あさぎ」


 ゆらぎの声音を真似て、そっと名前を呼んでみる。ゆらぎが私を呼ぶときの、跳ねるような調子で。


 けれど、同じ声をしているはずなのに、自分で発した声はやっぱりゆらぎの声とはわずかに違った。


「ふ、ふ」


 あまりに虚しくて、気づけば勝手に笑みがこぼれていた。そのままひとしきり声をあげて笑って、長い息を吐く。笑うように震える溜息だった。


 ……いいな、ツルギは。


 彼には、私のこんな声も、ゆらぎの声のように聞こえているのだろう。だからこそ、私のそばにいてくれるのだ。偽物でも、ゆらぎと同じ声を聞ける彼がたまらなく、羨ましくてならなかった。

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