第3話
休日が終わり、新しい一週間がやってくる。
ツルギに見送られながらバスに乗り、五分ほど揺られ、高校の正門をくぐる。いつも通りの一日が始まった。
午前の授業をこなし、昼休みの始まりの鐘が鳴る。普段であれば軽くノートの整理をするところだったが、なんだか気が進まずぼんやりとしてしまった。
隣に座っていたはずの景は、いつのまにか何人かのクラスメイトの中心で談笑していた。成績優秀で運動神経も抜群の彼はクラスの人気者なのだ。腐れ縁の私にこそ憎たらしい口をきくが、基本的には男女問わず誰にでも優しく、その人あたりのよさも人気の秘訣のようだった。
教室の中ではちらほらとお弁当や購買で買ったパンを広げているクラスメイトたちの姿がある。あまり空腹は感じないが、午後もあることだし何かお腹に入れておくべきだろう。
購買に向かうべく席を立つと、ふと、声をかけられる。
「あさぎ」
さりげなく横を通り過ぎようとした私を目ざとく見つけて、景は不敵な笑みを浮かべていた。
「今、学祭の話をしてたんだ。相澤がステージの使用権を当てたらしい」
景の隣で、柔らかな黒髪の女子学生が照れたように笑った。彼女は確か、学祭の実行委員の相澤さんだ。
「くじ運だけは、昔からいいの」
「さすが桜子」
「これは桜子ヒロインで何かやるしかないね」
清楚でおとなしい相澤さんも、景と同様にクラスの中心的人物だ。ステージ使用権を当てたことで盛り上がっているクラスメイトたちを見て、思わず頬が緩む。
「すごい、相澤さん。学祭楽しみだね」
我ながら他愛もない返答だと思ったが、相澤さんはやっぱり照れたように微笑んだ。皆に好かれるのも頷ける。感じのいいひとだった。
「童話モチーフ? それとも一から脚本作る?」
「完全オリジナルか、悪くないね」
学校行事は、好きだ。お祭りのようだし、みんなである種の非現実に取り組むなんてわくわくする。楽しそうなクラスメイトたちの顔を見ているのも気分がいい。私は率先して何かをするわけではないけれど、去年の学祭でも黙々と模擬店の装飾づくりに励んだものだ。
けれど、今年は去年ほどの高揚感がない。花形であるステージ使用権を勝ち得たというのに、よかったと思うだけで楽しみに思う気持ちがあまり湧いてこない。
再び盛り上がりを見せるクラスメイトたちを横目に、教室を出る。学食に向かう学生も多いのか、廊下はやけに賑わっていた。
このぶんでは、購買も混んでいそうだ。並んでまで食事をしたいとは思わない。もともと朝食を抜く生活をしていたのだ。このところはツルギが朝晩ときちんとした食事を出してくれるから、お腹が空かないのも無理はなかった。
「橘さん」
澄んだ女性の声がして、振り返る。例の養護教諭が立っていた。学生たちの雑踏の中で、しわのない白衣が浮かび上がるように目立っている。
「お昼、食べないんですか? 人気のフルーツサンドがまだありましたよ」
何気ない話を装って、探りをいれているのがばればれだ。この人は、片割れを失った悲劇の学生が可哀想で可哀想で仕方がないらしい。
「購買がもう少し空いたら、何か買って食べます」
空腹を覚えない、なんて正直に伝えたら面倒なことになるに決まっている。この人と長く話せば話すほど、みじめになるのはわかりきっていた。
「学祭が近づいてきましたね。橘さんのクラスは、何をするんですか?」
浮き足立つ学生たちを見つめながら、先生は微笑む。会話を終わらせるつもりはないらしい。
「ステージの使用権を勝ち取ったとか言っていましたから、劇でもするんでしょう。楽しみです」
意欲が低下している、などと判断されて保健室に呼び出されるのはごめんだ。先手を打って、にこりと微笑んでみせた。今年は例年ほど楽しみに思えないだけで、まったくの嘘は言っていない。
ふと、先生の視線が私の左手にとまる。そのままはっとしたように目を見開いたかと思うと、急に手首を掴まれた。
「っ……橘さん、この傷は……?」
袖口から線状の傷がのぞいている。まったく痛みもしないので忘れかけていたが、そういえば昨日うっかり怪我してしまったところだ。ごく浅い傷だし、数日で痂皮もとれるだろう。
「まさか――」
先生の顔が険しくなる。その表情を見て、ようやく私も気がついた。
……面倒なことになったな、どう言い訳しよう。
「可哀想な学生」を過剰に心配しているこのひとのことだ。きっと、躊躇い傷だとでも思ったのだろう。弁明するにも、状況が最悪だ。双子の片割れを失ったばかりの十七歳、復帰して一週間、なんとなくクラスに馴染んでいない。
疑う要素満載だ。国家試験の問題集で出てきたら、私だって先生と同じ発想に至るだろう。
「違いますよ。これは昨日、思い出の品の果物ナイフを見つけて、うっかり切っちゃっただけです」
「思い出の品? それって、お姉さんの……?」
「ええ、まあ……」
取り止めもない、廊下のざわめきが頭に流れ込んでくる。目の前の相手との対話から、逃げ出したくて仕方がなかった。
先生は私の手を掴んだまま、焦ったように何かを言っていたが、よく聞き取れなかった。言葉だとわかるのに、理解はできない。何か言われれば言われるほど、音としてしか認識できなくなる。
廊下の窓から、夏の気配がする風が舞い込んできた。夏は、ゆらぎの好きな季節だ。
……私、どうしてこんなところにいるんだろう。
導かれるように、ツルギの待つ自分の部屋の風景が蘇る。あの空間では私はゆらぎで、ゆらぎは生きていて、好きなものを食べ、ツルギとおしゃべりを楽しむ。幸せな時間だ。
……早く、帰りたいな。
「漆戸先生、そろそろ橘借りてもいいですか? 昼食の約束があるので」
頭上から、聞き慣れた声が降ってくる。先生に掴まれていたはずの私の手を、気づけば景が握っていた。
「星川くん――でも」
「あんまり、心配しすぎないでやってもらってもいいですか。逆効果ですよ、それ」
どこか冷ややかな調子で彼はそう言うと、私の手を引いて歩きだした。完全に現実逃避していた意識が、だんだんと鮮明になる。
景は私を校庭にある倉庫の横に連れ出すと、古びたベンチに座らせた。
ここは、私と景が時折使うお気に入りのベンチだ。人影がなく、木陰があって、ほどよい静けさに包まれている。天気が良い夏の日には、ここで問題集を解いたり、昼食を摂ったりするのだ。
「漆戸の過剰な心配性、相変わらずだな。あれ、学生を心配している私って優しいー、って酔ってるだけだろ、絶対」
私の左隣に腰を下ろして、景は笑うように言った。
あえて辛辣な物言いなのは、私に寄り添ってのことなのだろう。景の言葉は、ちゃんと頭に入ってきた。
「そうなのかな……ちょっと、困っちゃうね」
曖昧に微笑んで、まつ毛を伏せる。再び景の手が伸びてきて、左手首の線状の傷をなぞった。
「これのせいで、絡まれていたのか? どうせ、何かヘマしたんだろう」
言葉とは裏腹に、労わるような手つきだった。すこしだけ、くすぐったい。できたばかりの痂皮をなぞられているせいだろう。
「果物ナイフの鞘を抜こうとしたら、固くて、思いきり力を込めたら手を滑らせちゃったの」
「馬鹿。……果物くらい、あのアンドロイドが切ってくれないのか?」
「切ってくれるよ、頼めばね」
ツルギのことだ。きっと、均等にきれいに、頼めば飾り切りだってやってくれるだろう。私やゆらぎにはない特技だった。
膝の上でそっと、傷を撫でる。その拍子に、スカートのポケットの中でちゃり、と音がした。
……そういえば、まだ渡せてなかったな。
ポケットから、紺色と浅葱色のキーホルダーを取り出す。昨日、美術館で買ったものだ。紺色のものは景へのお土産として買ったが、教室では渡す機会がなくて困っていたところだった。
「景、これ、お土産」
「お土産? どこか行ったのか?」
クローバーの形をしたキーホルダーを受け取りながら、景が目を丸くする。この状況で私が外出するとは思っていなかったのかもしれない。
「昨日、美術館に行ったんだ。チケットがあったからね。アマガタヒイロって知ってる?」
「ああ、あの奇抜な……」
景はキーホルダーをまじまじと観察し、やがて微笑んだ。
「ありがとう。そっちは、あさぎのか?」
「そう、思わず買っちゃった。おそろいだね」
だが買ってみたはいいが、どこにつけよう。ゆらゆらと揺れるキーホルダーを陽の光に翳してみる。
「こういうのってどこにつけるか迷うよね。結局家に置きっぱなしになったりするし」
「つける。大事にする」
景は思ったよりもお土産を喜んでいるようだった。柔らかに緩んだ彼の横顔が、木漏れ日に照らされて、木の葉の影がゆらゆら揺れていた。
彼の嬉しそうな笑みを見ていると時折、砂糖菓子でも食べた後のような、不思議な感覚がじわりと広がっていく。脈打つ心臓の底をくすぐられるような、妙な心地だった。
でも決して、嫌ではない。眠りに落ちるあの一瞬の快さによく似ている。
「……アマガタヒイロが好きだなんて、知らなかったな」
くすぐったさを誤魔化すように、膝の上で肘をつく。
「芸術方面にも造詣が深くて恐れ入ったか?」
揶揄うような景の言葉を、ふっと鼻で笑う。
「そうだね、是非とも美術館でひとつひとつの作品解説を賜りたいね」
いつもの私たちの空気感だ。ぼんやりと重苦しい学校生活の中で、この空気だけは鮮明だった。
「そもそもあさぎが美術館に行くなんて珍しいな。ひとりで行ったのか?」
「ううん。ツルギと行ったよ。ついでにツルギの服も買ったの」
美術館では気まずい出会いもあったが、概ね穏やかな一日だった。あんな日曜日なら、時間を持て余して黒い感情に呑まれることを恐れずに済みそうだ。
「へえ……AI嫌いのくせに、そんなふうに笑うんだな」
先程までの上機嫌な様子とは打って変わって、どこか拗ねたような声だった。
笑っていた自覚なんてなかった。思わず、指先を頬にすべらせる。
「ゆらぎは、なんで女性型のアンドロイドを選ばなかったんだろうな……」
なんだか、不貞腐れているみたいだ。彼は私から視線を背けたまま、大袈裟な溜息をついた。
「絵のモデルにしたかったからだよ。女性は私がいるからいいけど、身近に歳の近い男性がいないからって理由で、ツルギにしたみたい」
景と同じ地区に住んでいればその問題も解決できたのだろうが、そもそもゆらぎは景をモデルにするのを避けていたような気がする。「長時間見つめるなんて、あさぎに悪いからね」と、どこか悪戯っぽく笑っていた。
……懐かしいな。
あんな笑い方、私にはできない。人の心をくすぐるような、愛らしい笑みだった。私と同じ顔をしているとはとても思えないくらいに。
「……それより景、お昼は食べたの。私にかまってばかりいないで、ご飯食べてきなよ」
このままでは望まない暗く寂しい感情に呑まれてしまう気がして、慌てて話題を切り替えた。
「あさぎもまだだろ。行くぞ」
景が立ち上がって、軽く伸びをする。
「あんまりお腹空いてないよ」
景には、正直に言ってもいいだろう。彼だけは、今は重苦しいこの学校生活の中でもやっぱり特別だった。
「いいから。早く」
彼の声に導かれるようにして、仕方なく立ち上がる。
瞬間、ざあ、とぬるい風が吹き抜けて、隣で黒髪のポニーテールが揺れたような気がした。
――お昼は、たまごサンドにしようかな。あさぎはフルーツサンドにして、半分こしようよ。
一瞬だけ、ひだまりのような笑みを浮かべる彼女が見えたような気がして、泣きたくなった。いつもこうして私の手を引いてくれるのは、ゆらぎだったのに。
振り返った景にそれを悟られないよう無理やり笑みを浮かべ、彼の隣へ急ぐ。ぬるい風は、いつまでも私にまとわりついていた。
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