第2話

 家に帰ると、玉ねぎを炒める甘い匂いがした。夕焼けが差す部屋の中で、灰色の髪の青年が器用にフライパンを振っている。


「ゆらぎ、おかえり」


 屈託のない笑みを向けられて、それに応えるようにわずかに頬を緩める。


 家に帰ってきて、同居人が料理を作ってくれているなんて、初めての経験だ。そもそも手料理を食べる機会自体、実家でも数えるほどしかなかった。


「学校、楽しかった? 新しい場所で、疲れていないといいんだけど」


 ツルギは火を止めると、わざわざ私の前までやってきた。そこまでしてくれなくていいのに、と気恥ずかしい思いがにじむ。


「平気だよ。……オムライス、楽しみだな」


「いつもの時間には出来上がるよ。ああ、そうだ、日中にゆらぎのお母さんがやってきて、何か荷物を置いて行ったよ」


「お母さんが?」


 メッセージのひとつも残さないところが、なんとも母らしい。別に嫌われているわけでもなんでもないのだが、極端に筆不精なのだ。


「うん、ゆらぎの部屋に置いておいたよ」


 ツルギは再びキッチンに戻り、調理を再開したようだった。


 母からの荷物とは、なんだろう。自分の部屋に戻り、早速届いた荷物とやらを確認してみることにした。


 部屋に入った瞬間に、荷物がなんのかは検討がついてしまった。平べったい、長方形の分厚い板のようなものが布に包まれている。


 鞄を置き、そっとその布をめくってみた。思った通り、ゆらぎの絵だ。


 絨毯の床に膝をついて、傷つけないよう最新の注意を払って布を取り払う。現れたのは、美しい花畑の絵だった。


「きれい……」


 思わず、ほう、と息が漏れる。現実の場所を描いたものなのか、それともゆらぎの空想の世界なのかわからないが、引き込まれるように美しい絵だった

 ゆらぎは色使いが上手だ。私が名前も知らないような色をたくさんつかって、鮮やかな世界を描いている。けれど決して目に痛いような配色ではなく、まさに絵本にあったら好まれるであろう柔らかで優しい雰囲気があった。


 キャンバスと思われる荷物は、他にも数枚置かれていた、それとは別に、大きな段ボールの箱もふたつ置いてある。ガムテープを剥がしてみると、中から大量のスケッチブックが現れた。


 そしてそのスケッチブックの上に、見慣れた母の字で走り書きが置いてあった。


『また、追加で送ります。ゆらぎも、あなたに持っていてもらいたいと思うから。家族の肖像画だけ、わたしたちで引き取ります』


 ……そうだ、いちどだけ家族の絵を描いたんだっけ。


 描き手のゆらぎ自身は、私の構図を対にするような形で描いていたはずだ。ゆらぎはそこに幼い頃に亡くなった父の姿も描いて、母を泣かせたのだっけ。ゆらぎの空想の姿なのに、やさしく微笑む父の絵を見ていると、まるで本当にすぐそばで私たちを見守ってくれているような気になった。


 あの絵から、またひとり、いなくなってしまったのだ。


 自分の喪失感に手いっぱいになっていたが、ゆらぎを失った母の悲しみはどれほどだっただろう。ゆらぎがいなくなってからツルギに出会うまでの記憶はすべてが曖昧で、うまく思い出せなかった。


 つきり、と胸が痛みそうになったところで、部屋のドアがノックされた。静かに、ドアが開いていく。


「ゆらぎ、ご飯ができたよ」


 時計を確認すれば十八時半だった。ゆらぎとツルギの「いつもの時間」とは、この時間のことを指しているらしい。


「ありがとう」


「ああ、絵を届けてもらったんだね。あとで整理を手伝うよ」


 ツルギは宝物を見るような目で、キャンバスとダンボールを見下ろした。咄嗟に、母の走り書きを後ろ手で握り潰す。


「そうなの。他のものは、追加で送られてくるって」


「アトリエは、あの空き部屋でいいかな」


 この部屋に越してきて以来使っていない、小さな部屋がある。ツルギはもう家の中の構造を把握したらしい。


「そうだね……」


 私は、ゆらぎと違ってまるで絵を描けない。この現実逃避を続けるためには、ツルギの前で絵を描くわけにはいかなかった。筆の運びひとつで、簡単に見破られてしまうだろう。


 ツルギに導かれるようにして、リビングへ戻る。食卓の上には、卵に包まれた綺麗なオムライスとサラダ、野菜のスープが並べられていた。ご丁寧に、麦茶まで置いてある。家で取る水分といえばもっぱらウォーターサーバーの水だけだった私からすれば、革命的だ。


「おいしそうだね」


「よかった。冷めないうちにどうぞ」


 朝食のときと同じように、ツルギは私の向かい側に座った。軽く肘をついて、にこにことこちらを見つめている。


「いただきます」


 トマトケチャップがふんだんに使われいるであろうオムライスをひと口目に食べるのは抵抗があったが、いちばん手のかかっている料理を後回しにするのは気が引けて、スプーンを綺麗な卵の表面に沈めた。


 卵の下からケチャップライスが姿を表すと、ほんのすこし手が震えた。景に指摘された通り、私がトマト味のものを毛嫌いしているというのは本当だ。幼いころにトマトを食べて吐いてから、ろくに口にしていなかった。


 意を決して、一口分のオムライスを口に運ぶ。バターで焼かれたらしい卵は絶品だったが、やはりケチャップの味は口に合わなかった。おそらくこれも最高に美味しい味なのだろうけれど、ろくに咀嚼せずに飲み込む。


「どう? 口にあったかな?」


 ツルギは、にこにことして問いかけてくる。好きなものを食べたゆらぎの笑顔が見たくてたまらないとでもいうふうに。


「うん、すごくおいしい」


 本当は震えるほど苦手な味だったが、構わずにスプーンを動かした。


 ゆらぎが好きな食事が用意されること以上に、彼女が生きているように思える事象があるだろうか。ゆらぎと呼びかけられた私がそれを食べていれば、本当にゆらぎが食事をしているような気になった。


 ツルギはわずかにも視線を逸らすことなく私を見ていた。いや、ゆらぎを見ていた。朝言っていた通り、彼はゆらぎが食事をする風景を見るのが好きなのだろう。もっとも、感情を持たないAIの言う「好き」もよくわからないが、やっぱり悪い気はしなかった。


「ごちそうさま。ありがとう、おいしかったよ」


 にこりとツルギに笑いかければ、彼は満足そうに頷いた。


「よかった。お皿を片付けたら、絵の整理を手伝うね」


「うん、ありがとう。……私は先にお風呂に入ってこようかな」


 本当は、いつも就寝ぎりぎりに入るのだが、耐えられそうになかった。席を立ち、平然を装って椅子をもとの位置に直す。


「わかった、五分後にお湯が沸くよ」


「ありがとう」


 ゆらぎのような軽やかな足取りでリビングを後にし、ドアを閉める。そのまま、すぐにお手洗いへ向かった。


「っ……う」


 うずくまるようにして、便器にたった今食べたものを吐き出す。やはり、トマトの味は受け付けなかったらしい。ツルギの手前無理をして食べていたが、限界だった。


 胃腸炎のときくらいしか吐いたことがないが、どうにも不快な感覚だ。勝手に視界が滲んで、息を切らしながら涙を拭った。


「ふ、はは……」


 乾いた笑みが勝手にこぼれる。そのそばから、ぽろぽろと感情を伴わない生理的な涙が吐瀉物の中に落ちていった。


 馬鹿げてる。私は心を持たないAIと、何をしているのだろう。子どものおままごともいいところだ。


 そう、頭の片隅で冷静に判断できる自分はいるのに、無理をしたことを悔やむ気持ちは湧いてこなかった。


 だってこれは、必要なことなのだ。私がゆらぎらしく振る舞うための、しなければならない我慢だ。一食戻したくらいで、人は死なない。あとで多めに水分を取ればいい。たったこれだけの代償で、この甘い現実逃避を続けることができるのなら、お安いものだった。

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