第二章 ゆらぎごっこ

第1話

 ゆらぎが、真っ白なキャンバスの前に座って、何やらパレットの上でぐるぐると絵の具を混ぜあわせている、真剣そのものの彼女を微笑ましく思いながら、作業の邪魔にならないよう遠くから眺めていた。


 だが、彼女はすぐにこちらの気配に気づいたらしく、ぱっと明るい笑みを見せた。


「あさぎ!」


「……ごめん、邪魔するつもりはなかったんだ」


 はにかむような笑みを浮かべて、ゆらぎのそばへ歩み寄る。履きなれないスリッパがぱたぱたとなった。この間ゆらぎと一緒にルームウェアの専門店へ立ち寄ったときに買った、パステルカラーのスリッパだ。


「いいの、ちょうどいい色ができたところだから、あさぎにも見てもらいたいよ」


「わたしに色の良し悪しがわかるかなあ」


 パレットを覗き込めば、緑や青、黄色のそばに青緑に近いような絶妙な色が載っているのが見えた。好きな色だ、と直感的に思う。


「この色で、空を塗りたくて」


「きれいだ」


「ふふん、何を隠そう、これこそが浅葱色だよ」


 ゆらぎは、自慢げに鼻を鳴らすと、筆に絵の具をいっぱいにつけ、キャンバスに大きな横線を描いた。これがやがて空になるのだから、ゆらぎはすごい。


「へえ、これが。葱って書くくらいだし、もっと微妙な色なのかと思っていたよ。それに、浅葱裏の浅葱だし」


「景くんのことはそろそろ許してあげたら?」


 ゆらぎがくすくすと笑う。思えば景は、ゆらぎにはずっと優しかった。私に対する態度とは大違いだ。


「ゆらぎにするみたいに親切にしてくれたら、とっくに許しているところだよ。まあ……景もゆらぎには嫌われたくないんだろうね」


 思わず独り言のように呟けば、ゆらぎは長いまつ毛を瞬かせて笑った。


「なあに? あさぎが鈍感だって話?」


 くすくす笑いながら、ゆらぎはせっせと筆を動かしていた。浅葱色が、キャンバスの上半分いっぱいに広がっていく。


「これは、どんな絵になるの?」


「それを聞くのは野暮だよ、あさぎ。できてからのお楽しみね、いちばんに見せてあげるから」


「いちばん? 彼よりも?」


 部屋の隅で、ゆらぎの描いた絵画の整理をするツルギを横目で見やる。ゆらぎは、どこか悪戯っぽく笑った。


「彼は別よ。モデルにもなってくれている、共同製作者ともいうべき相手だから」


「ふうん」


 ツルギがやってきてから、ゆらぎのいちばんが私でなくなることが増えた。一緒に暮らしているのは私ではなくツルギなのだからある程度は仕方がないと思っていても、所詮はAIのくせに、という思いが拭えない。彼にはきっと、ゆらぎの想像力の素晴らしさも、弾むような心が生み出す美しい感情も、何も理解できていないのだろうから。


「人気者のゆらぎの時間を独り占めするなんて、贅沢なアンドロイドだね」


 深く考えもせずに告げたつもりだったが、軽やかに筆を動かしていたゆらぎの手が止まった。そうして、見たこともないような真剣なまなざしに捉えられる。


「……アンドロイドじゃないわ、ツルギよ」


「え? ……あ、ごめん」


 情けない声を出しながら、咄嗟に謝ることしかできなかった。


 ゆらぎが怒りらしきものを見せたのは、これが最初で最後だった。


「いいの。――そうだ、ヒントをあげるわ。この絵はね、先月に行ったある場所の絵なの」


 何ごともなかったように上機嫌で説明を始めるゆらぎに言葉に相槌を打ちながらも、意識の半分は部屋の隅で静かに仕事をこなすアンドロイドに向けられていた。


 ……ずいぶん、ゆらぎに気に入られているのね。


 紛れもなくあれは、ゆらぎの「特別」だ。たったひとりの片割れを横取りされたような気がして、どうにも面白くなかった。


 ……やっぱり嫌いだ、AIなんて。


 ◇


「ゆらぎ、ゆらぎ、起きて。学校に遅刻してしまうよ」


 いつもの機械的なアラームの代わりに、柔らかな声に起こされる。ゆっくりと目を開けると、陽光に透ける灰色の髪が目の前で揺れていた。きれいだ。


「ん……」


 寝ぼけたままなんとなくその髪に手を伸ばすと、青年らしい大きな手がすぐに重なった。


「どうしたの、ゆらぎ。今日はお寝坊さんだね」


 くすりと吐息まじりの笑みが降ってきて、手の甲をなだめるようにさすられる。そこまできて、ようやく状況を理解して飛び起きた。


「っ……ツルギ!」


「おはよう、ゆらぎ。よく眠れた?」


 にこにこと人畜無害な笑みを浮かべて、彼は嬉しそうに私の手を取っていた。もっとも、そう見えるだけで心の動きなどどこにもないのだろうけれど。


「……起こしにきてくれたの」


「もちろん。ついでに支度も手伝いに。新しい制服はどこにアイロンをかけるべきか迷ったけど、上の服とスカーフにかけておいたよ」


「そ、そう……ありがとう」


 ツルギには『母の意向でしばらくあさぎと同じ高校に通うことになった。これは絵本作家の夢を認めてもらうためにやむを得ず受け入れなければならない条件だ』と説明し、新しい住居として私の家を紹介した。「絵本作家になるのに、医師の勉強もするの? 大変だね」とは言われたが、基本的には受け入れてくれたようだ。


 ……ゆらぎの高校はブレザーだったもんね。そこは説明してなかったな。


 私の通う高校の制服はセーラー服だから、構造の違いに戸惑っただろう。そこまで気が回っていなかった。


「はい、どうぞ」


 ツルギはクローゼットの中にかけていた制服を取り出し、手渡してくれた。至れり尽くせりだ。


「ありがとう……じゃあ、着替えるから出て行ってくれる?」


「なんで? 手伝わなくていいの?」


「えっ?」


 いくらアンドロイドでも、異性の姿をしたツルギの前で着替えるのは若干の抵抗がある。ゆらぎは、そのあたりは完全に割り切っていたのだろうか。


 ……変なの、ツルギをアンドロイドって呼んだら怒ったくせに。


 浅葱色の空を思い出しかけて、一瞬手が止まる。夢の名残りを、無理やり頭の隅に追いやった。


「だ、大丈夫。もう高校生だし、このくらい自分でできるから」


「わかった。リビングで待っているね」


 従順に微笑んで、ツルギは私の部屋を後にした。ひとりになって思わず、ふう、と大きな息をつく。


 衝動的にツルギを連れ帰ったはいいものの、アンドロイドとの生活は苦労も多そうだ。




 一通りの身支度を終えリビングへ出て行くと、シチューのいい香りがした。

 どうやら、ツルギが朝食を用意してくれたらしい。メニューは昨日彼が作ってくれたにんじん抜きのシチューと、トーストだ。


「あ……ありがとう」


「紅茶もあるよ」


 ふわり、と柑橘系の香りのする紅茶が、目の前に置かれる。


 本当は、私はにんじんは好きだし、紅茶かコーヒーかで聞かれたらコーヒー派だ。


 でも、これでよかった。何もかも、ゆらぎの好きなものだ。ゆらぎのために用意された朝食が並んでいることが、何より嬉しかった。


「いただきます」


 私が食事を始めると、彼も私の向かい側に座り、にこにことこちらを眺めてきた。どれだけ人に近い形をしていても、さすがに食事は摂らないらしい。それが不自然に思えるほど、彼の振る舞いは限りなく人に近かった。


「あれ……その服、洗濯したんだ」


「そうだよ、夜の間に」


 昨日、私と出会うまで、どうやら彼はゆらぎの事故現場にずっと滞在していたらしい。そのせいで、服はところどころ薄汚れていた。


 いちどゆらぎの葬儀の後に姿を現したはずだが、あのとき私が何かを言ったせいで、ツルギはずっと事故現場にいたのだろう。果てのない喪失感に襲われていたせいか、あの日の記憶が曖昧だ。


 ……服も、用意してあげなきゃいけないのかな。


 私が命じるまもなく自分で洗濯してくれるなら、しばらくは大丈夫だろうが、どうしたって生地は摩耗するだろう。それに、洗濯中に何を着ているか知らないが、全裸で出歩かれても困る。


 ツルギは、飽きもせず私の食事風景をにこにこと見守っていた。


「そんなに、面白いかな?」


「うん、楽しいよ。ゆらぎがご飯を食べているところ見るの。ぼくと違って、ちゃんと人間で、生きてるんだなって思えて」


 本当に、心があるかのようなことを言うアンドロイドだ。だが、ゆらぎに対する好意的な言葉を聞いているのは、心地よい。


 ツルギがいつもより早めに起こしてくれたおかげで、朝食はゆっくりと摂ることができた。残り一口になった紅茶を啜りながら、星占いを眺める。今日の順位は一位だった。


「やったね、ゆらぎ。いいことがあるといいね」


 ツルギは自分のことのように喜んでみせた。こういうとき、ゆらぎなら負けじとはしゃいで見せるのだろう。


「う、うん。やったあ……!」


 どうしても、溌剌としたゆらぎの演技は慣れない。ツルギと暮らして行くのなら、身につけるべきだ。彼に、不信感を抱かせてしまえば、きっとこの現実逃避は終わってしまうのだから。


「バス停まで送るよ」


「あ……そうだね、まだ、慣れないし」


 本当は目を瞑ってでもいける道だったが、素直に送ってもらうことにした。といっても、歩いて三十秒ほどの距離なのだが。


「あと十八秒で、バスが来るよ」


 バス停に着くなり、ツルギはごく自然に教えてくれた。なるほど、これは便利かもしれない。AIには好意的になれないが、いちどこの便利さを知ってしまえば手放せないのも納得だった。


 ツルギの言う通り、バスは十八秒後にやってきて、扉を開けた。乗り込んでから、そっとツルギを振り返る。


「行ってらっしゃい」


「うん……行ってきます」


 慣れない挨拶の直後に、バスのドアが閉まる。誰かに見送られる経験なんて、初めてに等しい。実家にいるときも、忙しい母は私を見送ることなどなかったから。


 不思議な心地だった。今日一日を頑張れそうな、ぽかぽかとした温かいものが胸の奥に宿っている。


「あいつ、誰?」


 背後から大きな影が降ってきて、びくりと肩を跳ねさせた。驚いて振り返れば、景がいつの間にか私の後ろを陣取っている。


「景……珍しいね、この時間に乗っているなんて」


 彼は大抵私より二、三本早い便で高校に到着している。部活には所属していないが、朝の始業前の時間にバスケットボールなどをする男子生徒たちに混じって体を動かしているそうだ。


「たまには寝坊くらいする。……それより、あれ誰?」


 心なしかいつもより圧が強い気がして、わずかに距離を取った。そのぶんだけ、すぐに詰められてしまったけれど。


「あれって、ツルギのこと?」


「ツルギ? ……ずいぶん親しげに挨拶してたけど、なんでだ?」


「うん。昨日から、一緒に住んでるんだよ」


 景の表情が、一瞬でこわばる。気のせいかもしれないが、周りで談笑していた学生たちも、まるでこちらに聞き耳を立てるように息を潜めた気がした。


「一緒に……住んで……?」


 激しい動揺を見せる景を見て、すぐに誤解があることを悟った。慌てて、説明を付け加える。


「違う、違うよ、同棲とかじゃないよ。ツルギは、ゆらぎのアンドロイドなの。私が、譲り受けることになって……」


 説明しながら、胸がつきりと痛むのがわかった。また、ゆらぎがいないことを思い知るような言葉を口にしてしまった。


 景は長い息をつきながら、くしゃりと自分の前髪を握りつぶした。


「なんだ……紛らわしい言い方するなよ」


 ひとり暮らしの学生が多い影響で、恋人や友人と半同棲状態になっている者もいるとは聞くが、未成年は未成年だ。褒められたことではないだろう。妙な噂が広がる前に、ここで否定できてよかったかもしれない。


「さすがに誰かと同棲を始めることになったら、景にはいちばんに教えてあげるよ」


 唯一の友人に内緒にしておくほど、私は冷たくない。


 バスがわずかに揺れて、正門の前に到着した。電子音とともにドアが開いていく。


 その瞬間、景の手が私の頭を鷲掴みするようなかたちでぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。


「……ほんと、むかつくやつだな、お前は」


 私を追い抜くようにバスを降りる直前、ぼそり、とまるで独り言のような調子で彼は言った。一応は櫛を通したばかりの髪を乱しておいてその言い様はないだろう。


 手櫛で髪を直しながら、私もバスを降りる。景は、いつもより少しだけ不機嫌そうな顔で私を一瞥すると、私を待つこともなく数歩先を歩いていってしまった。

 

 ◇


 どことなく不機嫌そうな景の隣で午前の授業を終え、昼食を買うべく購買へ向かう。この時間帯は混雑しているだろうが、人混みに紛れていると余計なことを考えずに済んで楽だった。


 長い廊下を歩きながら、ぼんやりと空を眺める。初夏を間近に控えた空は清々しい青空で、あの日ゆらぎが描いてくれた浅葱色の空とは少し違うようだ。あれは、どこで見た空だったのだろう。


「橘さん」


 ふいに名前を呼び止められ、ゆっくりと足を止める。振り返れば、白衣を纏った養護教諭が私のそばに立っていた。私たちよりひとまわり上くらいのまだ年若い女性教師は、一部の男子学生に人気だった。


「お姉さんのこと、聞きましたよ。……どうか無理はしないでくださいね。つらいときは、いつでもお話ししてください。どんな些細なことでも、保健室に来てもらって構いませんから」


「あ……」


 まただ。つきり、と胸が刺されるように痛い。


 先生は、多感な時期に姉を亡くした私を心配して、わざわざ声をかけてくれているのだ。整った眉尻を下げて、まるで自分のことのように憂いをいっぱいにした表情からしても、心から私を案じてくれているのだろう。


「はい、ありがとうございます、先生。何かあったら、伺いますね」


 愛想笑いのような強張った笑みを浮かべて、一歩後ずさる。だが、先生はそう簡単に私を解放してはくれなかった。


「あなたはひとりでなんでも抱えようとしているように見えるから、心配です。どうでしょう、週にいちど、保健室にお茶を飲みに来るというのは」


「そんな、先生もお忙しいですし」


 うすら笑いを浮かべて、視線を逸らす。面倒だ。先生は私を思い遣ってくれているのだとわかるけれど、話せば話すほど、胸が痛くなる。


「……いつでも、待っていますからね」


 先生はぽんぽんと私の肩を叩いて、ようやく目の前から立ち去ってくれた。この短い会話で、どっと疲れたような気がする。


 ……いやだな、いなくなりたいな。


 学校を特別好きと思ったことはないけれど、必要な勉強ができるし、景ともくだらない話ができるから、嫌いではなかったのに。この二日間、今まで感じたことのないような閉塞感を覚えてならない。


 ふわりと吹き込んできた風に誘われるようにして、開いた窓に肘をついて深呼吸をした。


 刈ったばかりの芝生の匂いがする。きっと夏に向けて校庭を整備しているのだろう。けれど、顔を上げてその整えられた庭を見たいとは思えなかった。


 何かお腹に入れようと思って購買を目指していたのに、もう何も食べたくなかった。こんな重苦しい気持ちのまま、午後の授業も受けなくてはいけないなんて、考えただけでうんざりする。


 その瞬間、スカートのポケットで端末が震えた。のろのろと端末を取り出して、通知を確認する。そこには、見慣れないアイコンと「ツルギ」という文字が表示されていた。


 タップして、内容を確認する。そういえば、昨日の夜「端末も新しくしたの」と言って連絡先を教えておいたのだっけ。


『ゆらぎ、今日の夜はゆらぎの好きなオムライスにするよ。お昼ご飯で被らないように、気をつけてね』


 思わず、ふ、と口もとが緩んだ。ずいぶん気が利くAIだ。一日の中での献立が被らないようにまで、気遣ってくれるなんて。


 ……まあ、確かに、ゆらぎはいちど好きになるとそればかり食べるもんね。


 一時期、昼食を毎日たまごサンドにしていたときがあったはずだ。栄養管理も請け負っているはずのツルギとしては、苦労もあっただろう。


 ゆらぎらしく柔らかな口調で『わかったよ、ありがとう』と返信して、端末をしまう。


 端末を操作するために顔を上げたおかげで、刈られたばかりの青々とした芝生が目に入った。ゆらぎならあれを、何色と呼ぶんだろう。


「昼食、摂らないのか?」


 どこかぶっきらぼうな声が頭上から降ってきて、顔を上げる。さかさまの視界の中で、景と目があった。


「うん……夜ご飯は、オムライスみたいだし」


 視線を窓の外に戻して、窓枠に肘をつく。景が、無遠慮に隣を陣取った。


「オムライス? あさぎは別に好きじゃないだろ。トマト味は吐くほど嫌いなんじゃなかったっけ?」


「ゆらぎは好きだからね」


 ゆらぎはよく、私のぶんのトマトも食べてくれていた。実家では私に気遣ってオムライスは出てこなかったけれど、ツルギとふたり暮らしをするようになって、ゆらぎはオムライスのおいしさに驚いていたんだっけ。


「ゆらぎ、って……」


 戸惑うように口籠もる景ににこりと笑いかけ、窓辺を後にする。背中に彼の視線をひしひしと感じたが、振り返ることはしなかった。


 せっかく、いい気分なのだ。足のつかない深い海で、小さな浮き輪を見つけたような心地なのに、それすら奪われてはたまらない。


『午後も頑張ってね、ゆらぎ』


 ツルギから送られてきたメッセージを確認して、端末をしまう。心にのしかかる重たいものを見えなくしたおかげか、いつのまにかまた、自然と息ができるようになっていた。

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