第三章 愛しい現実逃避
第1話
「あさぎ、見て! ここが私のブースなの」
ゆらぎが高等部に進学した年の夏、ゆらぎの高校では早速各学生の作品の展覧会が開かれていた。私は、母とともに招待を受け、展示会場まで足を運んでいたのだ。
彫刻や、不思議な形をしたモニュメントの並びを抜けて、ゆらぎの作品が展示されているというブースに足を踏み入れた。その瞬間、思わず息を呑む。
「すごい……」
ゆらぎの作品は何度も見ていたが、何枚も集まると圧巻だ。春夏秋冬のそれぞれの花が描かれた絵が、順に並べられている。
ゆらぎが絵本作家を志すことを渋っていた母も、素直に彼女の絵を褒めていた。心からの賛辞だったと思う。
母とゆらぎの幸せに満ちた会話を聞きながら、ゆらぎの絵をひとつひとつ眺めた。
なんて、穏やかな時間だろう。大切なひとたちが楽しそうに話をしていて、自慢の片割れの絵を、心ゆくまで眺められるなんて。
ひとつひとつの絵を見ていくと、ふと、どの絵にも必ず灰色の髪の青年の姿が描かれていることに気がついた。絵にするといっそう透明感が際立つようで、目を離すと消えてしまいそうだ。
「ああ、その人ね、ツルギだよ。わかった?」
ゆらぎは私の隣に駆けてきて、きらきらと目を輝かせて笑った。
「うん。灰色の髪のひとなんて、なかなかいないし」
「我ながらよく描けたと思っているんだ。この冬の寂しそうな表情とか、お気に入り」
ゆらぎが指差した先には、雪の中で空を見上げて微かに笑みを浮かべるツルギの姿があった。モデルがAIだと知らなければ、この青年が抱く哀愁のわけに想いを馳せることができただろう。
「この人の正体は、明かさないほうがいいかもね」
「どうして?」
「だって、この表情はつくりものでしょう? AIに心なんて、ないんだから。せっかくのゆらぎの絵の深みが、半減しちゃうよ」
言ってから、すこしだけ後悔した。以前ツルギをアンドロイドだと言ったときに、彼女は静かな怒りを見せたのだから。
それを思い出してひやりとしたが、ゆらぎは怒らなかった。
代わりに、意味ありげな笑みを口もとに浮かべたのだ。同じ顔をしているはずなのに、彼女は時々想像もできないほど大人びた、どこか謎めいた笑い方をする。
ゆらぎはそれ以上何も言うことはなかった。沈黙がなんだか気まずくて、冬の絵の隅に展示されたガラスケースの前に移動する。
中には、針金でできた星のようなものが収められていた。よく見れば、内部まで緻密に針金が張り巡らされていて、かなり手間のかかった作品だとわかる。
「これも、綺麗だね。こういうものも作るんだ」
ゆらぎは、ガラスのケースにそっと触れながら、まつ毛を伏せた。
「――これはね、私が作り上げた作品の中で、もっとも大切なもののレプリカなの」
意味ありげな笑みを浮かべたまま、彼女はゆっくりと目を閉じた。まるで、神聖なものに触れるかのような仕草に、目を奪われてしまう。
「このレプリカは、展示会が終わったら壊す予定なの。だから、あさぎに見せるのもこれが最初で最後。本当は展示会に出す予定なんてなかったんだけど、あさぎには見せておきたくて」
「壊しちゃうの? こんなにきれいなのに。置き場所に困っているなら私の部屋に置いてもいいよ」
「それは悪くない提案だけど……でもだめ。やっぱり壊すよ。これは、私の手の及ばない範囲においてはいけないと思うから」
まるで劇薬か爆弾でも扱うような口調だった。大袈裟だと思ったが、それだけゆらぎが思い入れのある作品ならば、私が口出しすることでもない。
「そっか、じゃあ最後によく見ておくよ。……本当にきれい」
「ありがとう。……あさぎのそれも、同じくらいきれいよ」
「え?」
意味を図りかねて、思わずゆらぎを振り返る。彼女はぞっとするほど綺麗な笑みを浮かべ、くるりと踵を返した。
「ねえ、春の絵をちゃんとみた? ここに女の子もいるの、気づいたかな」
この話題はここでおしまいらしい。どこか割り切れない気持ちを抱えたまま、ゆらぎの隣へ駆けていった。
◇
……あの星は、なんだったんだろう。
タブレットで問題集を眺めながら、今朝見たばかりの夢を、ぼんやりと思い出す。
結局、あれ以来あの星のような作品を見ることはなかったし、私も夢に見るまで忘れかけていた。きっと、ゆらぎは言葉通りあれを処分してしまったのだろう。ゆらぎがいなくなった今、正体はわからずじまいだ。
「あさぎ、次、実習室だぞ。移動しよう」
景は、すでに次の授業で使う白衣とタブレットを手に持っていた。準備万端だ。
「ああ、うん……あと一問だけ」
白黒の画面に再び意識を集中させ、右肺野の結節影を丸で囲む。タップすると、すぐに答えが表示された。同じ場所に、赤い丸が浮き出てきた。正解だ。
「また読影問題やっているのか。飽きないな、あさぎも。診断AIに頼ればいいだろ。今や99%の精度なんだから」
「うん……でも、99%だから」
私がなんとなくクラスメイトから遠巻きにされているのも、空き時間を見つけては放射線画像の読影問題に取り組んでいるのが原因なのかもしれない。もちろん、医師免許を取るためには勉強が必須な科目であるし、皆、試験前には真剣に取り組んでいるが、AIが99%の精度で正解を叩き出す今、勉強時間は他の分野により割くべきだという考えが主流だった。皆、せいぜい問題集を一周しておしまいだろう。試験はそれで十分に通るし、診療技能としても差し支えないとされていた。
そんな分野に空き時間のすべてを費やすように向き合っていれば、どんな目で見られるかもわかっている。わかっているけれど、これは私の信念と心の平穏のために続けていることだった。
ここ一週間休んでいたせいで、問題集を解くペースが落ちていたのだ。それを取り戻すように、そして余計なことを考えないために、黙々と解いていた。
「まあ、でも、頼りになるな。大規模停電でも起こったら、みんなあさぎに聞きにくるぞ」
「予備電源があるからなかなかそんなことはないだろうけれど……そうだね、力になれる機会もあるかもね」
問題集のアプリを閉じて、私もタブレットを片手に立ち上がる。鞄から白衣を取り出せば、いつもはしわくちゃのそれに、綺麗にアイロンがけがされていた。
「新しく買ったのか? この時期に?」
私のしわくちゃの白衣に見慣れているせいなのか、景は不思議そうに呟いた。まったく失礼なやつだ。
「アイロンがけをしただけだよ。ツルギがやってくれたんだと思う」
「へえ、便利だな」
「景の家にはたくさんいるんじゃないの」
彼の家は、大病院を経営する医師一族のはずだ。多忙な両親に代わって、彼を世話するアンドロイドは当然いるだろうと思っていた。
「両親は使ってるけど、俺はあんまり。大体自分でなんでもできるしな」
それが見栄でもなんでもないところが憎らしい。実際彼は料理も家事も、なんでもそつなくこなせるのだ。ひとり暮らしを始めてからいちども自炊したことがない私とは大違いだった。
「嫌味なくらい優等生だね、景は」
くすりと笑いながら白衣とタブレットを片手に席を立つ。そろそろ移動しなければ次の授業に間に合わないだろう。
その瞬間、不意に景の手が私の肩に触れ、まじまじと顔を覗き込まれた。彼の使う洗剤が香るような距離に、たじろいでしまう。
「なに、景」
「……顔色が悪くないか?」
どきりとした。これだから医者の卵は厄介だ。
「そうかな?」
「自覚がないなら視診の能力の低さを恥ずべきだな。……ちゃんと食べているんだろうな」
今朝の食事も、昨日の残りのケチャップライスだった。ツルギはどうやら、夕食を多めに作って残ったものを軽くアレンジして朝食に出すスタイルのようだ。材料費を節約する意味でも理にかなっているし、十分に贅沢な食事だと思う。結果的に今日は朝食も吐き戻すことになったが、一日くらい、なんてことない。
「食べているよ。それはもう栄養の考えられた贅沢なものをね。ツルギが作ってくれているから、心配しなくていいよ」
肩に添えられた景の手を、そっと離す。同時に、二限目の始業のチャイムが鳴り響いた。
「ほら、走ろ、景」
タブレットを抱えて、半身で彼を振り返る。景は訝しげなまなざしのまま、黙って私についてきた。
◇
「ゆらぎ」
その夜、焼き魚の骨を突いていると、ツルギはにこにこしながら切り出してきた。用意された箸置きに箸を置いて、続きを促すようにわずかに微笑む。
「今週末は、美術館に行く予定だけど、都合は変わりない?」
美術館。なんともゆらぎが週末に足を運びそうな場所だ。
当然、私の把握していない予定だった。誤魔化すように、とっさに笑みを浮かべる。
「そう、だったね。うん、変わりないよ」
ぎこちなく頷いて、脳内で予定を確認する。今週末は講習も何もなかったはずだ。ゆらぎの代わりに行けるだろう。
「じゃあ、チケットはそのままでいいね。日曜日の何時にしようか?」
「十時、出発くらいかな」
「そんなに早いと、起きられるか心配だね」
くすくすとまるで揶揄うような調子でツルギは笑った。驚いた。こんな会話までできるなんて。
……ゆらぎにしては早かったかな。
ゆらぎは、休日はアラームをかけずに目覚めるまで眠るタイプなのだ。十時に出かけるなんて彼女にしては健全すぎるかもしれない。
「寝坊したら、そのときはそのときだから」
誤魔化すように笑って、再び箸を持つ。
今日は焼き魚とほうれんそうのおひたし、お刺身、お味噌汁、白米といった純和風のメニューだった。どちらかといえばゆらぎが好まない趣向だが「好きなものばかり食べていると栄養のバランスが偏るからね」とツルギは釘を刺すように言っていた。
二日連続でトマトを使った料理でなかったのは、助かった。異様に目敏い景の目を逃れるためにも、栄養はしっかりとっておきたい。
「美術館の他に、寄りたい場所はある?」
「そうだね……」
聞かれて、ふとツルギの服に目が止まった。私が見ていない時間に洗濯をしているらしいが、ずっと同じ白い長袖のシャツを着ている。
「商業地区に寄りたいかな。ツルギの服を見よう」
「ぼくの? ゆらぎのじゃなくて?」
「それひとつじゃ、不便だろうし」
白米を口に運んで、咀嚼する。ツルギは、どこか驚いたように目を丸くしていたが、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、ゆらぎが選んでね」
心の動きを模倣するプログラムがあるのだろうか。いくらオーダーメードの見た目とはいえ、彼の表情はあまりにも人間的すぎる。これも、ゆらぎと暮らしていたからこその特徴なのだろうか。
戸惑いを誤魔化すように、黙々と焼き魚を食べ進める。ツルギは、やっぱり相変わらずにこにこしながら私の食事風景を眺めていた。
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