第2話
青年のくたびれた真っ白な長袖のシャツが、風にゆらゆらと揺れている。灰色に近い色素の薄い髪の隙間から、光をいっさい宿していない、髪より少し濃い灰色の瞳がのぞいていた。
「あの人、朝見たときもああしてたけど……」
「怖いわ、通報するべきかしら」
母と同世代くらいの婦人たちが、その青年を見てぶつぶつと噂をしていた。
確かに、あれでは明らかな不審者だ。アンドロイドが世に普及し始めたのはこの十年くらいのことだから、馴染みのない世代には彼は完全に人間に見えるだろう。特に彼はゆらぎのセンスで、限りなく人間に近い容姿をもっているのだから、私だって事情を知らなければ彼がアンドロイドだなんて疑いもしなかったはずだ。
……それにしても、こんなところにいたなんて。
母は、何をしているのだろう。小さくため息をついて、ポケットの中の端末に手を伸ばした。家庭用のアンドロイドが勝手に出歩いているなんて、通報されても文句は言えないというのに。
端末をタップして母の連絡先を呼び出そうとしたところで、ふいに腕を掴まれた。
「ゆらぎ」
「っ……」
驚いて、端末を落としてしまう。強化ガラスでできているからこれくらいで割れることはないだろうが、私の手を掴んだその人は慌てて地面にしゃがみこんで、端末を拾い上げてくれた。
「ゆらぎ、危ないよ。割れちゃったらどうするの?」
彼は、ふにゃりと笑って私に端末を差し出した。無言でそれを受け取って、一歩後ずさる。
「ツルギ……だっけ? どうしてこんなところに。お母さんに回収されたんじゃなかったの」
「回収? なんの話?」
ツルギは穏やかな笑みを湛えたまま、わずかに首を傾げた。アンドロイドは、持ち主に似るのだろうか。ゆらぎもよくしていた仕草だ。
「それより、お家に帰ろう、ゆらぎ。今日はゆらぎの好きなシチューを作る約束だったね」
なんの不自然さもない笑みで、彼はもういちど私の手を取った。人の手とそう変わらない温かな感触が不気味で、咄嗟に手を引っ込めてしまう。
「っ……」
「ゆらぎ……?」
ツルギは、心底悲しそうに私を見ていた。心なんて、ないくせに。
「ツルギ、見間違えているのかも知れないけれど、私は――」
そこまで言いかけてふと、周りからの視線を集めていることに気がついた。側から見れば、ちょっとした修羅場のように見えるのかも知れない。
ゆらぎの事故現場で、騒ぎを起こすのはごめんだ。ここで解決してしまいたかったが、仕方なく彼の手を取って歩き出す。目指すは近くの公園だ。
学校終わりの小学生たちが元気に走り回っている。幸い、ベンチがひとつ空いていたのでそこに腰掛けることにした。
私が座ると、ツルギも当然のように私の隣に座った。おそらく、そうするようにゆらぎに設定されているのだろう。ゆらぎは、彼を対等な同居人として扱っていたらしい。
「ツルギ、ちゃんと照合して。私はゆらぎじゃない、ゆらぎの妹のあさぎなの」
「ゆらぎ、さっきから何を言っているの? きみは正真正銘ゆらぎだよ?」
埒が開かない。さりげなくスカートのポケットから端末を取り出し、「アンドロイド 持ち主の照合」で検索してみる。すぐに数万件の検索結果が表示された。
『家庭用アンドロイドは、遺伝子情報をもとに使用者の照合を行います。設定や、入力された情報は登録された使用者以外が閲覧・変更できないようロックされており――』
そこまで読んで思わず大きな溜息をついた。
……遺伝子情報ね。
「それならまあ……そうなるのかな」
遺伝子情報のみで持ち主を照合しているのなら、一卵性双生児である私とゆらぎは、データ上は同一人物ということになる。ツルギの故障を疑ったが、これは責められない。
開発者は、一卵性双生児がアンドロイドを使用する場合のことを想定していなかったらしい。あるいは何か対策があるのかもしれないが、少なくともゆらぎはツルギにその対策を設定していなかったようだ。私に見られて困る情報もないとでも考えていたのだろう。
「ゆらぎ? どうしたの? そろそろ帰ろう? 帰ったら、花の模写をするんだよね? 今日は向日葵にするんだね」
ツルギに言われて、気がついた。ツルギの登場に動揺したせいで、ゆらぎに備えるための花をそのまま持ってきてしまった。
思わず、花束を抱えたまま大きな溜息をつく。
「あのね、ツルギ……ゆらぎはもういないの。私は絵を描かないし、この花はゆらぎにお供えするために買ってきたの。あなたの主人は、もういないんだよ」
言っている私が、ずきずきと心を抉られるようだった。
どうせこの青年は人工物で、傷つかないのだ。私は、たかだかAIのために何をさせられているのだろう。
「ごめん、さっきからゆらぎが何を言っているのかわからないよ。……帰ろう? ゆらぎ」
「やめて!」
宥めるように伸びてきたツルギの手を、花束で振り払った。せっかく買った向日葵が、はらはらと花びらを散らしていく。
これでは、もうゆらぎに供えることはできない。地面に落ちた花びらが、風に虚しく揺れた。
「いい加減にして! ゆらぎは……ゆらぎはもういないの、私にこんなことを言わせないで……! どこかへ行って……!」
こんなに声を荒らげたことは生まれて初めてだ。遊んでいた子どもたちが、驚いたようにこちらを見ている。けれど、もう構ってはいられなかった。
「こんな、こんなことで……ゆらぎがいなくなったことを思い知らせないでよ!」
ゆらぎはまだいるって、姿が見えないだけで、生きているって思いたいのに。
そう、ちょっと他の街に長い旅行に行っているだけで、しばらくしたら帰ってくる。だから、この一週間会っていないだけ。待っていれば、帰ってくるはず。
このアンドロイドはどうして、そんな些細な現実逃避すらも否定するような残酷なことを、わざわざ言わせようとするのだろう。
心が、ひどく乱れていた。この一週間、悲しすぎて流れもしなかった涙が、堰を切ったようにあふれ出してくる。ぜんぶぜんぶ、このアンドロイドのせいだ。
「変なことを言うね、ゆらぎはここにいるのに」
ツルギは穏やかにそう告げたかと思うと、無遠慮に私に身を寄せた。抵抗する間もなく、次の瞬間には、抱きしめられていた。
「大丈夫だよ、ゆらぎ。ゆらぎが心配することは何もないよ。きっと、疲れちゃったんだよね。早くお家に帰って、ご飯を食べよう。今日のシチューは特別に、にんじん抜きにしてあげるから」
その柔らかな声を聞いた瞬間、私の中で何かがぷつりと切れたような気がした。
このAIは、本気でゆらぎの生存を信じているのだ。いなくなっただなんて、微塵も思っていない。
……そうか。
きっと正しくはない考えが、心の奥で大きく膨れ上がっていく。
私が、ゆらぎのふりをして彼と一緒にいれば。
そうすれば、私はずっと、まるでゆらぎが生きているかのような話を聞き続けることができるのかもしれない。ゆらぎが死んだという前提のない彼と一緒にいれば、私はゆらぎが生きている世界線での会話を続けることができるのかもしれない。
……憐れみとも憂いとも無縁の場所を、手に入れられる?
ゆらぎがいなくなったことを突きつけてくる苦しい現実から、彼と一緒にいるときは逃げられるのだ。
気づけば、私を抱きしめるツルギの体に、私も手を回していた。そのまま、ぎゅう、と力を込める。
「――そうだよね、ごめんね、ツルギ。変なことを言って」
涙を流しながら、無理やり唇を歪める。どうやっても、ゆらぎのような鮮やかな笑みにはならないけれど、彼女を演じていたかった。
「大丈夫だよ、ゆらぎ。ゆっくり休んで、おいしいものを食べたら、きっと心も落ち着くよ」
心などないくせに、よく言うものだ。そう、心の片隅で確かに彼を蔑みながらも、縋り付く手を離せずにいた。
「そうだよね。ありがとう、ツルギ」
ゆらぎのふりをして、ゆらぎが生きているかのような話を引き出す。いけないことのように思うのに、すでにやめられそうにもなかった。
ツルギ。彼は、私の思い描いた現実逃避そのものだ。私の心が満たされるまで、この茶番に付き合ってもらうとしよう。
「それじゃあ、帰ろうか、ゆらぎ」
「うん」
ツルギに手を引かれて、歩き出す。ベンチに落ちたふたりぶんの影は、がたがたと醜く歪んでいた。
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