第一章 迷子のアンドロイド
第1話
ゆらぎがいなくても、いつものように朝はやってくる。それは、この一週間で嫌というほど思い知ったことだ。
目覚ましのアラームとともにカーテンが開き、テレビがつく。チャンネルは、いつもと同じ朝のニュース番組だ。番組終わりの非科学的な星占いを確認してから外出するのが、私の日課だった。
歯を磨いて、顔を洗い、制服に着替える。高等部に進んでひとり暮らしを始めてからは、朝食を取る習慣は抜け落ちてしまった。代わりにウォーターサーバーの冷たい水を一杯飲むことにしている。
ゆらぎと私の星座は、今日は三位だった。悪くない。何気なく手もとの携帯型端末を開いてから、はたと手を止めた。
そうだ、もうゆらぎはいないのだ。星占いを見て「やったね、一位だ!」とか「クロワッサンがラッキーアイテムだって!! 見てた? お昼はクロワッサンにしなきゃ!」とか、朝から呑気なメッセージを送ってくる彼女はもういないのだ。
端末をスカートのポケットにしまい、タブレットとお菓子が入っているだけの鞄を肩にかける。
「消して」
室内のあらゆる家電製品に埋め込まれたAIは、直ちに私の声に反応し、命令を実行した。しんと静まり返った部屋を、振り返ることもなく後にする。
マンションを出て、高校行きのバスに乗り込む。同じ制服の男女が皆きちんと席に座っていた。完全自動運転のバスは、今日も時刻通りに高校へ向けて出発する。
あたりを走っている自動車の九割五分が、このバスのようにAIが搭載された完全自動運転の車だ。速度もハンドルも完全に調整された、安全な乗り物だった。完全自動運転車が普及してから、交通事故は国全体で年間数十件ほどにまで減少した。その事故のほとんども、時代の波に逆らって「自分の手で運転したい」とごねる自動車マニアによるものだ。
……ゆらぎを轢き殺したやつも、確かそうだった。
ぎゅう、と指先を握りしめる。バスは五分も経たないうちに、高校の正門についた。「学園都市地区高等部医学科棟」と刻まれた古めかしい銅の看板が朝日に光っている。店の看板も掲示板も電子がほとんどの時代だが、あえてこういう昔のものを記念碑的に残していることも多かった。学校や病院なんかではよく見かけるものだ。
正門をくぐると、柔らかな女性の声が降ってくる。
「橘あさぎ、本日の登校を確認しました」
登下校の記録は、すべてこの正門のAIが司っている。おかげで数分どころか数秒の遅刻すら許されない。
……ゆらぎはよく、ひっかかってたんだっけ。
ゆらぎが通う高校はここではなかったが、よく数秒の遅刻をしては正門に入れてもらえず、担任教師に叱られていたはずだ。叱られている最中も、彼女は実況中継のように私にメッセージを送ってきた。それらを確認していた私まで、朝礼中によそ見をするなと叱られたのだっけ。
……あれは、いい迷惑だったな。
思い出して、ふ、と笑ってから、どうしようもない虚しさに襲われる。この一週間、この感覚を何度味わってきただろう。
「あさぎ」
ふいに頭上から声が降ってきて、はっと顔を上げる。目の前には、背の高い男子生徒の姿があった。
「そうか……今日から復帰か」
「そうだよ。おはよう、景」
あえていつも通りを装って、教室の中に入った。クラスメイトであり、腐れ縁の幼馴染でもある彼も、私の後を追うように入室してくる。
教室に入った途端、一瞬だけクラスメイトたちの意識が私に集中するのがわかった。「今時珍しい自動車事故で双子の妹を失った可哀想な子」というレッテルを貼られているのがひしひしと伝わってくる。
「その、無理するなよ」
「うん」
我ながらそっけない返事を返し、席を取る。目立ちたくないので、いつも後ろのほうをとることにしていた。景も何気なく私の隣に座ったようだ。
景は、私とゆらぎの幼馴染だ。当然、ゆらぎの葬儀にも来てくれた。魂が抜けたように呆然とする私に何か話しかけてくれていたような気がするけれど、よく覚えていない。
「ああ、そうだ、あさぎが休んでいたあいだのノート、送ってやるよ」
景は、鞄からタブレットを取り出して、早速何やら操作を始めた。彼にしては、異様なほどに親切だ。普段の彼は、私を馬鹿にすることを生きがいとしているのかと思うほど軽口しか叩かないのに。あれはまだ小学生のころだったが、両親の仕事の都合で地方から越してきた初対面の私に「まさに『あさぎ』裏だな」とにやにやしながら告げた彼の顔は今もよく覚えている。
……それくらい、今の私は腫れ物扱いということか。
景でこれなら、周りのクラスメイトたちはどれほどだろう。
「今送った、見れるか?」
私も鞄からタブレットを取り出し、確認してみる。ノート用のアプリケーションから、一件の通知が来ていた。景からだ。
タップすると、嫌味なほど綺麗な字で整理されたノートが表示された。達筆と言ってもいい。景は、私たち医学科の中でも特に優秀な学生なのだ。その理由を、思い知らされた気がした。
「……綺麗すぎて読みづらい」
「お前の壊滅的な字に比べれば誰でも達筆になるだろうな」
思わずと言った調子で嫌味を言ってから、彼ははっとしたように口をつぐんだ。笑う気分ではなかったのに、勝手にふっと頬が緩む。
「そのほうがいい。腫れ物扱いは疲れたよ」
「あさぎ……」
景が何か言いたそうにこちらを見ているのがわかったが、気づかないふりをしてタブレットに指をスライドさせた。景のノートのおかげで、授業の遅れは心配しなくてよさそうだ。
「……そうだな、そうだよな」
景は独り言のように呟いて、自身もまた授業の準備に取りかかったようだ。
「じゃあ遠慮なく言わせてもらうが、一限目から小テストがある。範囲を知りたいか?」
「景……そういう大切な情報をなぜ昨日のうちに教えてくれないのかな」
隣に座る彼を思わず睨みつけると、彼は意地悪く笑ってみせた。
「なぜって、ライバルを蹴落とす絶好の機会だ」
「景ほど最低な男には会ったことない」
「それはどうも、なんでもいちばんが快い」
これなら、もうすこしおとなしくさせておけばよかった。苦々しい思いを噛み締めると同時に、始業のベルが鳴る。入室してきた担任教師が、教室の前方いっぱいに電子黒板を投影させていた。
……でも、おかげですこし気が楽になったかな。
景には絶対に言えないが、救われたのは確かだった。
振りだけでも、いつもどおりがいい。そうでなければ、ゆらぎのいないつらさに深く深く沈み込んで、息ができなくなりそうだった。
◇
私とゆらぎは一卵性の双子として生まれ、十二歳になるまで片時も離れずに育ってきた。
成績はふたりとも同じくらいだったが、性格はまるで違った。陰鬱で、景くらいしか友だちのいない私とは違って、ゆらぎは人気者だった。ぱっと花が咲くような明るい笑顔も、柔らかな言葉選びも、想像力の豊かさも、周りの人を惹きつけてやまなかった。そしてゆらぎも人懐っこい性格をしていて、次から次へと友だちを作っては家に招いて私を紹介してくれた。
「私の妹、あさぎっていうの。かわいいでしょ!」
同じ顔をしているのに、ゆらぎは私をよく褒めた。仕草や笑顔が可愛いのはゆらぎのほうなのに、私はうまくそれを伝えられなかった。
ゆらぎの友だちも、ゆらぎの手前はじめは私と仲良くしてくれたが、だんだんと私とは距離をとっていった。仕方がないことだろう。見た目は同じでも、私はゆらぎのように人を楽しませられるような話も、気遣いもうまくできないのだから。
「そんなことないよ。ふたりとも私みたいな性格していたら、うるさくて敵わないよ」
私が卑屈なことを言うたびに、ゆらぎはそう言って励ましてくれた。
「あさぎがブレインで、私は人とのつながりをつくる。そうすれば、ふたりでうまく生きていけそうでしょ」
当然のようにずっと一緒にいる未来を描いてくれるゆらぎが、私は誰よりも好きだった。
十二歳を迎えると、私たちはこの国のすべての子どもたちに実施される職業適正検査を受けた。今から半世紀ほど前に起こった「AI革命」の時期から続けられている慣わしだ。名前こそ違っても、世界各国で似たようなことをやっている。
職業適正検査とは、その名の通りAIの判定をもとに適性のある職業を抽出することだ。検査を受けた十二歳の少年少女たちは、検査結果で選び抜かれたそれぞれの職業に就くべく適した学校に入学する。職業選択の自由があるので判定に必ず従う必要はないが、適性のない職業を目指したところで、卒業後に受け入れてくれる組織や企業はほとんどない。弁護士と言われれば弁護士、SEと言われればSE、教師と言われれば教師だ。稀だが、ここでスポーツ選手としての才能を見出されることもある。営業職、事務職、企画職などは、企業を選べるぶん人気が高かった。
唯一の例外は芸術系の職であり、こちらの分野には職業適性関係なく進むことができた。もっとも、AIのイラストや文章が普及してしまった今、芸術家として生き残れるのは普及以前の十分の一程度だと言われており、よほどの覚悟と才能がなければ選ぶ子どもは少なかった。
私は、職業適正で医師しか出なかった。座学はそれなりにできたから、免許を取るところまでは難なくやれるだろうと自分でも思った。
ゆらぎは、職業適正でずいぶん多くのものが出た。政治家、弁護士、教師、営業職、企画職、事務職……私と同じ医師も適性があった。
母はその結果を大層喜んだ。AIの判定がどんな判断にも影響を及ぼすこの社会で、本当の意味での職業選択の自由を勝ち得る人間はそう多くない。それだけ、ゆらぎが特別な人間だということだった。
何にでもなれるゆらぎは、けれど結局そのすべてを捨てて、適性検査の必要ない芸術系の分野に進むことを選んだ。「絵本作家になりたいの」と彼女は笑った。昔から絵を描くことが好きで、話を作るのもうまかったが、この決断は母をずいぶんと失望させたものだ。
「あさぎも、私が絵本作家になるの反対?」
母に叱られてしょんぼりとしたゆらぎは、子ども部屋で私に問うてきた。いつでも快活な彼女が珍しく見せた、弱気な姿だった。
「全然。目指せばいいよ。うまくいかなくても、生きていくためのお金なら、私が稼ぐし」
医療分野での画像診断、病理診断、検査結果から想定される鑑別疾患の列挙に至るまで、やはりAIが普及していたが、人の命に関わる最後の判断を下す役割は、人間の意思が行う。それだけは「AI革命」以前と変わらなかった。責任が重いぶん、給料は悪くないことが多い。自分はもちろん、ゆらぎひとりくらい養っていけるはずだ。
「ありがとう、私、あさぎがいるから、私らしくいられるんだよ」
平凡な私が、特別なゆらぎの支えになれているだなんて。言葉にはしなかったが、心が躍るほどに嬉しかった。
この街は商業地区、学園都市地区、中央地区と細かく分かれているが、ゆらぎの通う学校は「文化・芸術振興地区」という街の隅にある地区にあった。実家から通うには時間的負担が大きい。そのため、十二歳にして、彼女のひとり暮らしが始まった。
幼いうちからの一人暮らしも、職業適正検査で入学する学校が左右される以上、そこまで珍しい話ではない。一人暮らしをサポートする専門の役割を持った教員もいるし、多くの家庭は一人暮らしの子どものために世話用の人型AI――アンドロイドを購入した。
母も、その例に倣ってゆらぎにアンドロイドを買い与えた。絵のモデルも兼ねたいとゆらぎがねだったこともあり、量産型ではなく、オーダーメイドで見た目を作成した。かなりの高級品になったはずだ。母は、失望したわりにゆらぎには甘かった。
それからまもなくして、アンドロイドらしく顔立ちは整っているけれど、どこか人間味のある柔らかな表情をした、いかにも人畜無害そうな青年型アンドロイドが到着した。
「名前をつけようと思うの。ゆらぎとあさぎの友だちってことで、音を似せてツルギっていうのはどう?」
「使うのはゆらぎなんだし、好きにしなよ」
そもそもAI自体、わけあってあまり好きではなかった。もちろん便利なものは活用しているし、私の生活にも不可欠なものだけれど、慣れ合いたいとは思えない。ましてや友だちなんてごめんだった。
「そんなことないよ、いつかあさぎのことも助けてくれるかもしれないよ? ね? ツルギ?」
私の意見を聞くまでもなく、名前は決定したらしい。青年型アンドロイドは、人によく似た穏やかな笑顔を浮かべて頷いた。
「はい、そうですね、ゆらぎ」
「堅苦しいから、敬語は使わないでいいよ」
「わかったよ、ゆらぎ」
従順であること以外は、こうして側から見ていれば人間と何も変わらないように見える。不気味な存在だと思った。
もちろん、アンドロイドが大いに活用されている場面があることも知っている。ゆらぎのような、まだ精神的ケアの必要な子どもの世話役としてもそうだし、病院や介護現場でも人々の心や生活を支えていることもある。将来的に職場でたくさん見かけるだろうし、私も年老いたらお世話になることもあるのだろう。
……まあ、でもそれまでは最低限のもので十分かな。
まるで「AI革命」以前の老人のような考えだと、周囲には笑われたものだ。けれどゆらぎと景は笑わなかった。「それもあさぎらしいんじゃない」の一言で、済ませてくれた。
……こんなところで、ゆらぎと景の共通点を見つけてしまうなんて。
大きな溜息をつくと、帰り支度をしていた景がにやりと唇を歪めた。
「なんだ? そんなに悔しかったのか。まあ、小テストくらいまた来週にでもあるだろ」
一限目の小テストは、当然のごとく景がいちばんだった。もっとも、しっかり準備をしていても彼に勝てたことは数えるほどしかないのだけれども。
「範囲を知っていたら景なんて目じゃないよ」
「相変わらずの減らず口だ」
そう言いながらも、景はどこか安心したように息をついて、頬を緩めた。
「……久しぶりにクレープでも食べて帰ろう。また公園に屋台が来ているはずだから」
小テストのたびにクレープを賭けて、負けたほうが勝ったほうに奢るのが常だった。私のお小遣いが減っていくばかりの虚しい賭けだ。
「勝負が終わってから言い出すのはずるいよ」
「仕方がないから今日は俺が奢ってやる。復帰祝いも兼ねてな」
「私がいなくて相当寂しかったんだね。景は友だちが少ないから」
からかうように景を横目で見やれば、彼は呆れたようにため息をついた。
「いくらなんでもあさぎほどじゃない。今日、一言でも俺以外と話したか?」
言われてみれば話していない気がする。教室内で席が固定されていないこともあって、実習でもなければ友人以外のクラスメイトと言葉を交わす機会などないに等しかった。景以外に友だちらしい友だちもいない私は、尚更だ。
終業のベルが鳴る。部活動に勤しむ学生もいるが、それも全体の半分くらいだろう。多くの学生は放課後を余暇や勉強時間に充てていた。私と景もそうだ。
「行こう、あさぎ」
景が、鞄を肩にかけて私を振り返る。彼が立ち上がったことで、男女関係なく何人かが彼に目を奪われていた。彼が自覚していないだけで、彼と放課後を共に過ごしたいクラスメイトはいくらでもいるのだろう。
「せっかくだけど、今日はやめておくよ」
「なんで? 俺が奢ってやることなんて、向こう十年はないかもしれないのに?」
「どうかな、来週のテストの後には、奢ってもらえるだろうし」
くすりと笑って景を見上げてから、私も鞄を手に持つ。
「……ゆらぎにお供えする花を、買いに行きたいの。だから、今日は行けない」
葬儀の際に備えた花は、そろそろ枯れてくるころだった。今日高校に行けても行けなくても、花屋には寄ろうと決めていたのだ。
「……それなら、俺も」
「景のセンスは壊滅的だからいいよ。ゆらぎの目を汚したくないし」
普段なら当然言い返してくるところだったが、彼は口をつぐんでしまった。心配そうに、私を見つめている。
「じゃあね、景」
彼の視線を無理やり振り払うようにして、彼の隣をすり抜ける。
「あさぎ。明日も、来るよな?」
背後からの問いかけに、半身で振り返って笑ってみせる。
「もちろん。どうして?」
「いや……それなら、いいんだ。また明日」
彼なりに心配してくれているのだろう。だがやはり、その憂いが今は重苦しかった。
クラスメイトたちの気遣うような視線が向けられ、さっと伏せられる。朝と同じだ。皆、心の優しい人たちで、私の身に起こった不幸を悲しんでくれているのだとわかっている。
けれど、その憐れみが何よりつらかった。
ゆらぎはもういないのだ、と、いちいち教え込まれているようで。
俯くようにして高校を出て、バスには乗らずにこの地区でいちばん大きなデパートに出向く。学園都市地区はその名の通りあらゆる分野の高等部と大学部が集結する地区で、商業施設はそう多くないが、学生が余暇を楽しむためのレジャー施設や本屋などは充実していた。一件だけだが、商業地区に立ち並ぶものと遜色がないほど大きなデパートもある。
そのデパートの一階に、花屋があるのだ。探せば街の他の場所にもあるのかもしれないが、この花屋はゆらぎの事故現場にも近い。黙々とデパートまで歩き、一階の隅に立ち並ぶ小さな花屋の前で足を止めた。
供花として用意されたものを、買う気にはなれなかった。ゆらぎは、もっと鮮やかで、華やかな花を好んでいたのだ。「御用途は?」「イメージをお伝えいただければ、お好みに合わせてアレンジいたします」と軽やかに告げる接客用AIの声を無視して、向日葵を手に取った。五本ほどまとめて、ブーケにしてもらう。
「夏が楽しみになるような、すてきなブーケですね」
花屋の女性店員は、光沢のある濃いピンクのりぼんで向日葵を束ねてくれた。死者に手向けるとは夢にも思っていないのだろう。贈り物か、見舞いの花か、いずれにせよ前向きな意味で渡すと信じている。
曖昧な笑みを返して電子決済を済ませ、そそくさと花屋を後にした。ここには、幸せな人が多すぎる。
デパートを出たその足で、そのまま事故現場へと向かった。
ここから歩いて五分もしない、人通りの多い道で、ゆらぎは轢かれたのだ。
『わたし、そこのデパートでお花を見てから帰ろうかな。模写用に使いたくて』
『ついていこうか?』
『いいよ、あさぎはお勉強もあるでしょう? それにほら、ツルギもいるし』
あの日、私とゆらぎはここからほど近い喫茶店で落ち合って、小一時間ほど他愛もない話をしたのだ。週にいちどはどちらかがどちらかの住む地区に赴いて、話をするのが決まりだった。いつもは家で会うのだが、評判のケーキを食べてみたいとゆらぎが言って、場所を喫茶店に移したのだっけ。
私たちは喫茶店の前で別れた。ゆらぎは花を買うためにデパートへ、私は帰路に着くためにバス停へ向かったのだ。
聞き慣れない車のブレーキ音と、何かが派手に壊れる音、つんざくような人々の悲鳴が聞こえてきたのは、ゆらぎと別れてから一分も経たないときのことだった。
胸騒ぎがして、乗るはずだったバスを見送って踵を返した。ガソリンと、何かが燃えるような匂いが強くなるにつれ、心臓が暴れ出していた。
『救急車は?』
『もう呼んでる!』
『でも、どうしてこんな……』
『これ、半世紀以上前の車だろ……完全自動運転じゃない』
『かわいそう、あれじゃあ、もう……』
人混みをかき分けて、最前列に出る。
そこには、ぐしゃぐしゃにつぶれた車らしきものの残骸と、色鮮やかな絵の具の中で倒れる、ひとりの少女の姿があった。
ざあ、と風が吹き抜けて、はっと我に帰る。
風に乗って、色鮮やかな花びらが舞い上がっていた。
気づけば、事故現場まで辿り着いていたらしい。ゆらぎの周りに飛び散っていた絵の具や血痕はきれいに拭き取られ、代わりに山のような花束が供えられていた。缶ジュースや、チョコレートのお菓子なんかも置かれている。
そしてその花束の前には、ぼんやりと佇む美しい青年の姿があった。
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