第3話
父さんが家にいるようになった。あの晩、海香おばさん夫婦を送り出してからすぐさまメール&激烈な電話の応酬によりテレワークを勝ち取った父さん。それでも仕事は空けられないし空けたくないというのもあるのか、父さんは毎朝起きてから信じられないほどの速度でコーヒーメーカートーストスクランブルエッグソーセージを摂取し、美月の離乳食やミルクを作り、美月と一緒にさっと自分の部屋にこもる。最初はドアに耳をぴったりつけて様子をさぐろうとしたけど、そんなことは必要ないとすぐにわかった。父さんは機関銃みたいな高速タイピングをし、時折奇声をあげた。そのすべてがはっきりとドアの外側まで漏れ聞こえていた。「ああ〜パキケファロですはいパキケパキケ」とか「ゴミクソが!」とか「寂滅してえな〜御寂滅をよお〜」とか「うお〜〜〜〜助けてくれ〜〜〜〜叶姉妹猊下〜〜〜〜」とかいったことを会社の人にいっているとは到底思えなくて、実際電話がかかってきた瞬間に父さんの声のトーンは小さくなって、まともそうな言葉を発していたから、ギリギリでなんとかなっているのだと思うことにした。案外あの日の父さんも一二〇キロ、もしかしたらそれ以上出ていたのかもしれない。ぼくはそのうち美月が「寂滅ぅ!」とかいいださないかちょっぴり不安だったけれど、そうなったらそうなったでしょうがないと思った。美月にかかわるすべてのことが万事そう、そもそもはじまりからして「そうなっちゃった」なんだから、ジタバタしたってなんにもならない。出生届だって結局なんとかなって、役所も美月が他の人とおなじように存在することを受け入れている。役所でさえそうなんだから、ぼくたちが受け入れられないわけがない、どんと構えるしかない、と、そう父さんが口にすることはなかったけれど、父さんは(奇声を上げながらも)しっかり足を床につけ、ひたすらギアを上げ続けていた。
そのうちぼくは父さんの仕事部屋の中に入って、美月の横で本を読んで過ごすようになった。ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャが旅を終えたどり着いた自宅で死ぬ。父さんは数日で離乳食もミルクも作らなくなった。「死ぬのは違法である」という章題が目に飛び込んでくる。父さんは美月の分のトーストスクランブルエッグソーセージを作るようになる。ナブ・アヘ・エリバ博士が文字を刻まれた大量の瓦に押しつぶされて死ぬ。仕事の合間を縫って、父さんは毎週のように美月の服を買い足す。ドロシーがカンザスに帰ってくる。夜、仕事が一息つくと、父さんは美月といっしょに散歩にでかける。西村寿行とその編集者たちが地獄でやりたい放題をしはじめる。美月は父さんの奇声に合いの手をいれる。ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャが死んでいなかった。
ちょっと美月の成長が早すぎないか??? ということに気づかないふりをし続けられなくなった父さんは、一番近場に住んでいた安喜おじさんに電話をする。美月が生まれてきててんやわんやしていたとき火葬場のおじさんに母さんの遺骨がどうなったか聞いていた、あの安喜おじさんだ。おじさんは運良く仕事をしていなかったから、父さんは最初おじさんに日中美月の面倒を見てもらおうかと思っていた。だが日ごとに美月はぐんぐん成長し、一ヶ月もしないうちにほとんど小学二年生くらいの身体になってしまったので、安喜おじさんは完全なる無職のままだった。父さんが電話をいれた週の日曜日、安喜おじさんは洗われすぎ着られすぎたぐでぐでのシャツと新しすぎる紺のジーンズを履いてうちにやってきた。リビングに入るなり安喜おじさんの目に飛び込んでくるのは椅子に座って脚をブラブラさせている美月で、
「美月がでかすぎるってデッッッッッカッッッ! これは本当のことなのか?」
「それが本当すぎるんだな、これが」
「んだなんだな」
「美月ちゃんは速いね〜」
「おじさんはおそすぎるっておとうさんいってたよ」
「厳しいね〜」
ということになった。おじさんは秒で激びっくりしたと思ったら秒でなごんでいるので見ててたのしかった。中学校でおじさんみたいな友だちにめぐりあえていたら、ぼくはもうちょっと違った風になれたかもしれない、と思う。小谷くんはどうしているんだろう。津村先生が大慌てでバケツに汲んだ水を森の中の炭火にぶっかける。指導なんかで止まれるわけがなくて、小谷くんへ吹きかける先生の言葉は、あの火が燃え移ったみたいにエネルギーを増していき、はたで聞いているだけでもちょっとキツくなっていく。終わってから小谷くんのもとへやんちゃグループの男子たちが近寄っていく。小谷くんはドン引きと尊敬の入り混じったような目で見られながら肩を叩かれたりまあまあ食えやとカレーのよそわれた紙皿を差し出されたりする。別に小谷くんはそのグループと仲良しでもなんでもなかった。もりもりおかわりを食べる中、
「おまえやばいわー、マジでさー」
と冗談交じりにいわれる小谷くん。冗談なんだよなというのが伝わってほしそうにいわれる小谷くん。ぼくはちょっと離れたところから小谷くんがどんな返事をするのか聞き耳を立てていたんだけど、その第一声が
「やばかったー」
だったので凄すぎると思う。小谷くん本当にやばいよ。何がやばいと思っているんだ?炭火を投げ込んだこと?ツムラのキレっぷり?どれでもなく、まるで何をいっても最初の反応は「やばかったー」だったんじゃないかという気がしてくる。「小谷くん事件」を除けば宿泊学習はつつがなく終わり、小谷くんはふたたびやんちゃグループと疎遠になる。ぼくはそれからずっとあの火のことを覚えていた。六年生になって小谷くんとはクラスが離れた。学校にこなくなったと噂で聞いた。
「しかしこんだけ成長が早いと……幼稚園は」
「まだだよ、全然」
「おじさんにはあたしがようちにみえるの?」
「そんなことないよ美月さん。これはね、幼稚かどうかとはちょっと違う話なんだよ」
ぼくは小谷くんと小学二年生になってはじめて出会った。帰りは途中まで通学路が一緒だったことがわかって、ふたりで帰るようになった。あまり話した記憶はない。
「出生届だと晴美が死んだ一週間前に生まれたことになってるんですよね、美月ちゃんは」
「そう、だから法的にはまだ生後二ヶ月」
「大変だなあ、このペースだと幼稚園に入れるようになる頃には見た目大学生位になっちゃってるかもなあ」
「みつきはそれでいいよ〜はやくおとなになりたいぞ〜」
「楽しみだねえ」
それから五年生までクラスがずっと一緒だった。ほんとうは結構話していたのかもしれない。でもやっぱり内容は覚えていない。
「まあ、美月ちゃんがしっかりしてるのは貴士さんにとっても安心ですね。お医者さんには最近行きました?」
「まだ行ってないけど、そろそろ乳児検診の時期だなあ。あの先生だったらなんとかついてこれるだろうけど、美月を初めて診る先生がどういう反応するかを考えるとなあ。ヤバいの引いたら論文にするとか騒ぎ出すかもしれん」
「ああー」
「といってもこれは俺の気持ちの話だよ。ちゃんと連れていくさ。海香さんが気合見せたんだから、俺だってやるしかない」
「まあ最後は覚悟っすよねえ、あ、コーヒーもらっていいですか」
「勝手に飲んでくれていいよ」
「あざざす」
「あじゃじゃす」
「美月ちゃんもコーヒー飲むの」
「おとうさんがダメっていうから、おとうさんがダメっていえるときはのんでないよ」
「おいおい」
宿泊学習が終わってから、小谷くんと一緒に帰らない日が増えた気がする。すっかりなくなったわけじゃなかったとは思うけど。
「……そういえばうちの母さんのことなんですけどね」
「ああ、あれからどうなったんです」
「いやあキツイキツイ。手つけてたのは父さんの貯蓄だけかと思ってたんですけど、じいさん優しすぎるから家を担保に借入してまで母さんに金渡してたみたいで。海香なんかもうすごいですよ、ぼくにまで激怒ラインが飛んできてて。完全に飛び火ですよね」
「いや、お母様のことは別にしてもやっぱり安喜さんは激怒される理由があるのでは?」
「厳しいなあ……今では実家にはそんなに迷惑かけてないんですよ、最近は家賃も払えてるし」
「あ、そうなの」
「転売稼業が結構うまくいきはじめましてね。へへへ」
美月はちらちらとぼくの方を見てくるけど、何もいわなかった。小谷くんも、ぼくが今感じているような気持ちになったことがあるのかもしれない。
「ねむい。ねる」
っつって美月は寝室に行った。父さんと安喜おじさんはそれからもしばらく美月の今後のことや、敦子ばあちゃんや和英じいちゃんのことについて話をしていた。おじさんがどんどんコーヒーをおかわりしていく中、ほとんど口をつけなかった父さんの目の光がだんだん鋭く奥まっていくのがわかった。おじさんは衣料品の転売にも手を出しているらしく、どんどんサイズが合わなくなってしまう美月のために服を探すのを手伝うといった。こんな格好の安喜おじさんが選んだ服を見て美月が嫌がらないだろうかとちょっと思ったけれど、まあそれはそれだ。着るかどうか選ぶのは美月だ。ドアの向こうに美月の寝息があって、またおじさんが新しく継ぎ足したコーヒーの湯気がゆらぐ。レースカーテンのむこう、ベランダにはまだぴかぴかした銀の灰皿があって、安喜おじさんが帰ったあとすぐに父さんはレースの向こうへ出ていった。火葬場の喫煙所ではじめて父さんがタバコを吸うところを見てから、ゆっくりと本数が増えていっているのをぼくは知っていた。
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