第4話
木下古栗の「病んだマーライオン」を読むと、ぼくは毎回息が苦しくなって、吐きそうになるほど笑ってしまう。文字がゲロゲロ吐き出され続けるのだけど、ちょっと前に書かれていたことが、あるところでは少し形を変えて、またあるところでは形はそのままにしかし前後の文脈を変えて現れる。吐いたゲロがケツからまた身体の中に戻っていって喉まで上がっていって新しいゲロとして循環する、みたいな。とても引いたところから見てみるとちょっとミニマリズムっぽい。反復といっちゃってもいいのかもしれない。だけど、例えば音楽のスティーヴ・ライヒやフィリップ・グラス、あるいは彫刻のドナルド・ジャッドがやる反復は、素材に反復という関係が与えられたときにそこから反復ではない何かが出てくるということに注目している感じがする。そこから反復のしかたを変調させたらどうなるか、ってバリエーションが出てくるんだと思う。だけど「病んだマーライオン」のミニマリズムを見ていると、そもそも素材としてだって、言葉が反復することなんてない気がしてくる。そもそも反復なんてない、できないんだってことを反復で見せているんじゃないだろうか。例えばこんな箇所。
腹筋台の両脇にはエアロバイクとランニングマシーン、ぶら下がり健康器、大きなバランスボールが並び、それらの間にはエアロバイクとランニングマシーン、ぶら下がり健康器、大きなバランスボールが並び、それらの間にはエアロバイクとランニングマシーン、ぶら下がり健康器、大きなバランスボールが並び、それらの間にはエアロバイクとランニングマシーン、ぶら下がり健康器、大きなバランスボールなどが雑然と散らかっているように見えるはずもなかった。
まったく同じ節が三回出てくるけれど、「それらの間には」の存在によってエアロバイクとランニングマシーン、ぶら下がり健康器、大きなバランスボールは急速に増加し、この部屋は幅がものすごい勢いで拡張してしまう。最後に「見えるはずもなかった」があるからそんなことはないのだけど、この小説はそんな場合じゃなくなっていると思う。吐きそうになるほど笑ってしまう文章の説明が吐きそうになるほど笑ってしまう文章になることはまずないから、ぼくはただただ吐きそうになるほど笑いつつ、ふと、この増え方は漸化式で表せるな、と思い始める。正確なところはわからないけれど、まあモデルだからいいだろう。とりあえず、最初の時点では部屋には腹筋台、エアロバイク、ランニングマシーン、ぶら下がり健康器、大きなバランスボール、合計5つの物体があるとしよう。そうするとそこには物体と物体の間、間隔が4つあることになる。ここにそれぞれエアロバイクとランニングマシーン、ぶら下がり健康器、大きなバランスボール、計4つの物体をいれることになる。一回目の「それらの間には」で、物体の数は、5+(5-1)×4=21となる。その次は21+(21-1)×4=101だ。この関係を漸化式で表すと、a{1}=5, a{n}=a{n-1}+4(a{n-1}-1)=5a{n-1}-4になる。あとは特性方程式α=5α-4を使って、b{n}=a{n-1}とおいてb{n}=5b{n}だから等比数列で、一般項はb{n}=(a{1}-1)×5^(n-1)=4×5^(n-1)だからa{n}=4×5^(n-1)+1だ。すっきりした。受験が迫ってるって気分はそんなになくて、ぼくはけっこう漸化式と一般項が好きだ。漸化式は、一歩ずつどこかに歩いていく、その歩き方が示されているという感覚だ。逆に、一般項は、何歩目に自分がどこにいるかを俯瞰して教えてくれる法則のような感じ。例えば五一歩目に自分がどこにいるか、漸化式だけしか見えてなければ、最初の一歩目a{1}からはじめて、a{51}になるまで一歩一歩進まなければ分からない。一方で、一般項から見れば、n=51を代入すれば一瞬でその答えが分かってしまう。一歩一歩進んでいくことと、俯瞰的な法則の間を繋ぐやりかたがあるってことを、あの問題は教えてくれている気がする。父さんが休憩〜〜〜っていって部屋から出てきたのを見計らい、ぼくは少しの間パソコンを拝借して、ウィキペディアで「漸化式」の項目を調べて読んだ。流石になにがなにやらだったけれど、どうやらほとんどの漸化式は解けてしまいそうで、でもところどころに綺麗に解けなかったり、すごく解くのが難しいものがある、みたいな雰囲気があった。でもこの全部がすごいことだと思う。どんな歩み方にも、対応する法則があるかどうかを考えている人たちがいる!
「すんごい笑ってると思ったら急にパソコンに食いついて離れないし、ほんと、楽しそうね」
そばで美月が『ポジティブシンキングの末裔』をお手玉みたいにしながら、むすっとして座っていた。
「退屈かい」
「あたしが楽しそうに見える?」
「……公園でもいこうか」
「冗談でしょ、できもしないこといわないで」
「できないかなあ」
「おとうさんは失神するか頭がおかしくなっちゃうでしょうね。あまりの心配で」
父さんの足音が近づいてきた。ぼくは「漸化式」のタブを閉じて椅子から降りた。ドアをきっちり閉めると、父さんは椅子に深く座り直し、スティーヴ・ライヒの『オクテット』をリピートオンにし、ふたたび猛然とキーボードを叩き始める。少しして仕事部屋から美月が出てくる。
「さっき『公園でもいこうか』っていったでしょ。『でも』はねー、モテない」
なんでゼロ歳児にこんなことをいわれなきゃいけないんだ、と思うより先に感心がきてしまって、ぼくはなんだか本の続きを読む気がしなくなってしまった。
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