第2話

 しばらくして父さんが廊下を挟んで向かい側の喫煙所に現れた。それまで父さんがタバコを吸っているところを見たことがなかった。ぼくは大きく白い煙を吐く父さんのそばに並んだ。だいぶ落ち着きを取り戻していた。父さんの黒い目は壁を透過するようにずっと遠くを見ていて、タバコを挟んだ指と口は誰か別の人のように規則正しく動いていた。何もいわないまま一本吸いきった後、ポケットからもう一本のタバコを取り出した。

「名前はどうするの、父さん」

と、ぼくはきっと父さんの目線と平行になるように、自分の目線もまっすぐ遠くに投げながらいう。見えないけれどきっと父さんの目線はまっすぐ伸びたままで、返事が聞こえる。

「名前か……そっか、考えてなかったな」

「母さんはなんていってたの」

「聞いた覚えは……ないよなあ」

 ものすごいスピードで走っていた車が急に止まってゼロになる、けど中のものは急にゼロになれない、だから何もかもみな前に投げ出される、フロントガラスが噴水みたいにきらきら、衝撃で頭の中がひしゃげ、破片に皮膚や肉が切られる、さっきからずっとこんなスピードで走っていたのに、そのスピードで生きている感じはしていなかった、そのスピードに追い付けるのは頭の中がひしゃげたときだけ、慣性と速度という意味はそういうことだってぼくは自分で気づいた。だからって誰に伝えるでもなかったけど。ぼくは中学生くらいからひとりで考えるのが好きになって、本は人間じゃないからぼくによく付き合ってくれる。最近の父さんも母さんも例外なく慣性と速度のなかで生きていて、ただそのスピードはものすごくて、母さんに至っては本当にフロントガラスから飛び出してしまった。父さんはそのとき、母さんがフロントガラスの煌めきに包まれながら飛び出した地点から数十キロ離れたオフィスビルの中で、ほとんど退屈と見分けがつかなくなった充実に投げ込まれて、ひたすらに残業をしつづけていた。慣性と速度。ぼくは父さんと目を合わさないまま、だんだん退屈に似たような気持ちになっていく。父さんは今ちょうど見えないフロントガラスから飛び出したあたりで、ぼくはスローモーションになったそれを横から見ないまま見ている。ぼくは数十キロ離れた気持ちで、頭の中だけがひしゃげた父さんを見ないまま見ている。できることはなにもなくて、ただこうして隣にいるということができるだけということが大事なのはぼくには分かっている。それが退屈というんじゃないけれど、ふっと緩んだり派手に決壊したりするわけでもなければ、タバコを繰るのを止めるわけでもない、弱い均衡を保っている父さんの隣にいるということは、どこでだって、なにをしていたってできてしまう気がした。そんな風に考えていると、父さんが自分では気づかないままに「一人にしてくれ」としきりにいっているのが聞こえてくる気もした。ぼくは早く家に帰って、また『創世記』のはじめのところを読み返したい気持ちになりはじめていた。

 父さんの携帯が鳴る。海香おばさんが病院からかけてきていた。話を聞かされたお医者さんは「完全にダウト、全く信じられない」という顔をしていたけれど「今こうしてここに晴美の赤ちゃんがいるのは完全にトゥルースであり実際そうなってるんだから仕方ないやろがい」というおばさんの気迫に押されて、母さんが死ぬ少し前に病院でちゃんと生まれたということにしてくれるらしい。赤ちゃんは健康そのもの、本当の生まれ方を除けば特に変わったところもないようだった。「名前、どうするの」というおばさんの声が携帯越しに聞こえる。一瞬父さんは固まったけれど、ほとんど間をおかず自分の硬直を解くようにしながら、

「美月」

 と呟いた。そしてぼくの方を振り返りながら、

「美月にしよう、美しい月、で、美月」

と今度ははっきりした声でいった。ぼくは父さんが発したmの子音について少しの間考え、それが美月の「ねむうううううううううい!」の二音目だということに気づいた。Mitsuki、みつき、美月。

「父さん、美月は寝てる?」

ってぼくはいう。父さんは海香おばさんへぼくの聞きたいことを伝えてくれる。

「うん、ぐっすり。いまはダンナが抱っこしてる」

 そっか、と思う。眠いといった後に眠るのは、おかしなことじゃない。

「美月っていい名前だと思うよ」

「いいよなあ。全然考えてなかったにしちゃあハマってる」

「へええ」

「何でもじっくり考えりゃいいってわけでもないしな」

「……うん」

「帰るか」

「うん」

 家にあった黒いアウディはもう使えないから、父さんはタイムズカーを借りてきていた。黄色いステッカーの貼られた銀色のウィットは余計に小さく見えた。後部座席には母さんの遺影が横たえられていて、角度のせいかきれいに日差しを避けていた。色の白い母さん。夜ごとにどんどん加速し、あの晩は時速一二〇キロに到達していた母さん。ぼくは助手席に乗り込んで、何も入っていない大きな骨壺を抱えた。それなのにちゃんと重くて、急にまた涙が出てきた。父さんは何もいわないままエンジンをかけて、ギアをバックに入れて、優しくアクセルを踏む、どこにもひっかかりを感じさせずに車はなめらかに駐車スペースから後ろ向きにせり出していく、慣性と速度、絶対に飛び出したりしない、ぼくを包み込むささやかな車のように父さんになる、ぼくは今まで自分が分かっていると思っていたことが全部見当違いなんじゃないかという気がしてくるけどそんなのほとんど大したことじゃないんだっていう涙になってぼくの目尻から出ていく。父さんの顔を見る。父さんの黒々とした目は太陽の光を反射してところどころ白くきらめいていて、とても透き通った頭の中から窓の外へ目線を投げかける、ぼくはただ隣にいてくれるようになった父さんの横で、ひたすら涙になって出ていく。空は優しい色をしていて、落ちてくるわけがなかった。

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