オーバーレイ・オーバーラン
伊藤優作
第1話
骨になったばかりの母さんはまだ熱かった。あったかいというのとは違っていて、小学校のとき宿泊学習でカレーライスをつくったけれど、あのとき飯ごうや鍋の下で燃えていた炭火が近づくとこんな感じだった。でもあのときは母さんからほんのり漂ってくる臭いみたいなのはしなかった。似ているけれど、やっぱり炭と骨は全然違うな、と思う。
母さんを囲んでみんなが泣いていた。和英じいちゃん、敦子ばあちゃんが泣いていた。母さんのお姉さんの海香おばさんも、弟の安喜おじさんも泣いていた。海香おばさんの旦那さんも、父さんの母さんの満知子ばあちゃんも泣いていた。みんな泣いていた。ぼくと父さんだけが泣いていなかった。涙が出なくて、まわりはみんな泣いているからぼくも泣いたほうがいいような気がしてきちゃうんだけどやっぱり泣けなくて、そんなこと母さんが死んだことと何の関係があるんだという気もして無理に泣こうとなんてしないぞ、と思ってみる、だけどそうしたところで何かがすっきりするわけでもなくて、ぼくは風が吹き抜けることのない、閉ざされた空洞になっていく。ぼくは悲しいんだろうか、と心の中で声に出してみる。空洞をつくりだすぼくの膜はうすくやわくて、声は響くことのないまま膜の中に吸い込まれていった。父さんの顔を見る。最近仕事が忙しいのか、ずっと疲れ気味だった顔色にはそんなに変化があるように思えなかったけれど、ぎゅっと握りしめた両手のように、父さんの表情は硬く絞られていた。足は靴を超えて、オオワシみたいに床をつかんだまま離さないでいる。ここでひとり動じずに立ち続けること、この部屋の空気を、油断したら天井ごと空が落ちてきそうなこの脆い空気を支えることが、とりあえず、今ここでの自分の役割だとでもいうように、父さんはひとり泣かないまま立っていた。父さんらしいな、と思う。
骨を拾う箸は誰の手に渡っても震えつづけていた。父さんの父さんの葬式のときはこれほどじゃなかった。父さんの支えに知らず知らず心をあずけて、みんなは泣きじゃくったり、「。」をつけられないまま言葉をしぼりだしたり、そんな言葉にもならないうめき声を発したりした。ぼくも箸を握る。ぼくは母さんのお腹の中にいたはずの赤ちゃんの骨がないか探したけれど、それらしい骨は見つからなかった。海香おばさんが火葬場のおじさんに赤ちゃんの骨のことを聞いた。おじさんは神妙な顔をして、まだ半分ほど母さんが載っている台に近づきしばらく目だけを左右に動かしたあと、「ああ、これですね」といって、ティーカップの割れたような骨の一部を箸で指した。「そうですか、ありがとうございます、ほんとに、こんな……こんなね……」と海香おばさんの喉はだんだん締め付けられていき、やっとのことで右手に握りしめた箸をその骨に伸ばす、その様子を見ていてぼくはこのおじさんは嘘をついたな、と思う。けれど、それ以外にどうしようもなかったってことはぼくにだって分かる。母さんにも母さんの中にいた赤ちゃんにも、もう本当とか嘘とかそういうことは関係ないから、おじさんは嘘をついていいと思った(のかもしれない)。もし「わかりません」といったときに海香おばさんの喉がどれくらい締め付けられたか、それはもうわからないし、おじさんはわかるかわからないか、それ以外のように考えられそうな人には見えなかった。ここでおじさんが「骨の折れる仕事ですが、いっちょ探してみましょう」といって仕分け作業を開始したり、「一旦戻して確認いたします」といって台を火葬炉に戻そうとしたり、「不肖私、テイスティングをさせていただきます」といって骨片一掴み、口に含ませ転がして、味と香りを立たせはじめたらどうだっただろう。多分すごいことになったと思う。史上最大級の大激怒、宿泊学習で小谷くんが飯ごうの下からあかあかと燃える炭をトングで抜き出して、近くの森にひょいと投げ込んだときに担任の津村先生がみせた激怒に勝るとも劣らない大激怒が部屋中に巻き起こったと思う。そうすればたぶんこの部屋を満たしている悲しみは一瞬にしろ吹き飛んだだろうけど、悲しみをそんなふうにしっちゃかめっちゃかにすることは(たぶん)みんな望んでいなかった。耐えられないほど悲しいのに、その悲しいのをみんなが必要としていた。ぼくは必要としているんだろうか? 父さんは耐えつづけている。
すっかり母さんが骨壺のなかに収まって、蓋をしようとしたときだった。揺れた。なにが揺れたのかわからない、強い、ぐらんぐらんして「うわ」とか「きゃっ」とかのなか「地震っ」って誰かが叫んだ。違った。床も、骨がすっかりなくなった台も、部屋も揺れてはいなかった。骨壺だけが激しく揺れていた。見ている人にめまいを起こさせるような揺れで、ぼくと父さん以外はみんな立っていられなくなっていた。ぼくは今にも倒れそうな骨壺を支えようとして近づいていった。ぼくが手を伸ばした瞬間、骨壺はその手に応えるようにゆっくりとぼくのほうへ倒れてくる。何かが骨壺の口から飛び出す。ぱきゃーん! という壺の割れる音が聞こえたかと思うと、ぼくの腕の中にはすっぱだかの赤ちゃんがいた。焼け付いた骨の臭いと熱がまだ漂う部屋の中で、ぼくのなかに広がっていくこの熱はいったいなんだろう。いまこそ「一旦戻して確認いたします」っていうべきところなのか? と思ったけれど声が出なかった。かわりに赤ちゃんが
「ねむうううううううううい!」
といって泣きはじめるのを聞いた。
みんな動けなくなった。世界の停止ボタンから逃れて、ぼくの腕は自然に赤ちゃんのゆりかごになる。この赤ちゃんがはっきりと「ねむうううううううううい!」というのを聞いた。nの子音! この子は最初に母音ではなく子音を発することを選んだ! しばらく腕の中に見入りながらふと、ずいぶん長いこと赤ちゃんを独り占めにしてしまった気がして、ぼくは骨壺の破片が散らばった足元に注意しながら、父さんの方へ歩いていく。見上げると父さんの顔は真っ青になっていた。ぼくは
「パパだよ」
っていって父さんの腕へほとんど強引に赤ちゃんを渡していった。父さんの動きが悪い。「ほら」っていったら父さんの顔に少し血の色が戻って、父さんは「ああ」と小さくいって、赤ちゃんを受け止めた。世界の再生ボタンがふたたび押されて、みんなはよろよろと立ち上がりはじめた。赤ちゃんの声を今はじめて聞いたみたいに呆然としていたのは一瞬ぐらいで、「どうしよ、わたしタオルは持ってるけど……」「救急車は? 貴士、赤ちゃんは」「ああ……今んとこ問題はなさそう」「万が一のことあるから……あんた喪主でしょ、一旦あたしが預かって旦那と病院連れていく」「そうだな……海香さんすまん、頼むわ。竜彦さんもすいません、お願いします」「すいません、母の遺骨は……」ってようやく火葬場のおじさんも動き出すんだけど親族一同のパキパキした勢いが乗り移ったか「すみません……ちょっと見当たりません。骨壺の破片ばかりで」ってあまりに真っ直ぐな答えっぷりでぼくの思ったとおりのおじさんすぎた。にわかに騒がしくなるなかぼくは骨壺のあたりをうろうろしていた。やっぱり母さんの骨らしきものはなかった。お棺の載っていた台に目を移すと、みんなで拾った骨はおろか、こまかな粉末さえ綺麗さっぱりなくなっていた。ちょうどそのことに気づいたタイミングで、
「この子は……晴美の生まれ変わりだようぅ」
って敦子ばあちゃんが耐えられなくなって泣き出した。いつもだったら超シビアな雰囲気になったと思う。敦子ばあちゃんはすごい勢いでスピリチュアルになっちゃって、パワーストーンやら護符やら祭壇やらに手を出すところまではまあもう歳だし好きにさせようという空気だったのが最近では貯金を和英じいちゃんの口座も巻き込みド派手に謎の教団に突っ込んでいたのが明るみに出てじいちゃんはともかく母さん姉弟たちとくに海香おばさんからの激烈な詰めが発生していたみたいだった。けど今日こうして敦子ばあちゃんが生まれ変わりのことを口にしたときには、もちろんちょっぴり神妙な空気にはなったけれども、険悪な感じ、ばあちゃんが、そしてじいちゃんも一人きりにされていく感じはあまりしなかった。冷静に考えたら実際なにが起こってるのか誰もわかっていないことはみんなわかっていたからというのもあっただろう。ぼくは「生まれ変わりだようぅ」っていう敦子ばあちゃんの語尾が震えたのを聞いて、涙が出てきてしまった。敦子ばあちゃん以外はもう誰も泣いている場合じゃなかったのに。母さんの骨は綺麗さっぱりなくなってしまったし、生まれ変わったのだとしたら、もう母さんは赤ちゃんに変わってしまっている。赤ちゃんそのものは母さんそのものじゃない。だからどちらにしても、もう母さんはどこにもいないということが、ぼくにははっきりわかってしまった。でもそれだけじゃなく、目の前に、母さんがいなくなってしまったということと同じくらいの力強さで、それこそ敦子ばあちゃんだけでなく、ぼくにさえ(ほんのちょっぴり)生まれ変わりのことを信じさせるほどの力強さで泣いている赤ちゃんがいることもまた確かなことだった。ふたつのことに挟まれてわけがわからない涙なのかな、と思う。和英じいちゃんが敦子ばあちゃんを抱き寄せていた。頼もしい、という感じではなかったけれど、ばあちゃんを支える気持は分かった。焼ける炭の臭いも骨の臭いも、収骨室も宿泊学習の森もどんどん遠くなっていく。父さんはもう赤ちゃんを支えなくちゃいけない、今は海香おばさんに抱かれていても、そしていまから竜彦さんが運転する車に載せられて母さんがいた病院へ向かっていくのだとしても、その道と空を父さんは支えなくちゃいけない。だから収骨室の空の下にはぼくひとりだけがいて、誰にも支えられなくなった空は天井ごとぼくひとりのところに落ちてくる。父さんはぼくに背を向けて火葬場のおじさんと今後のことについて話をしている。またしても「ねみい、ねむううい!」ってはっきりnの子音を高らかに鳴らす赤ちゃんは、海香おばさんと竜彦さんに連れられて納骨場を後にする。ぼくはその後をついて行って、さっきまでみんながいた控室のソファに座って、ひとりで空に押しつぶされる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます