第7話 ファウストの悲劇⑥

 夜は静寂をまとい、世界を黒い絹の帳で包み込んでおります。そして、その暗闇の中で、二つの影が絡み合っておりました。

 ファウストとグレートヒェン。

 私は、その光景を遠巻きに見下ろしておりました。

 彼の腕に抱かれる彼女の姿は、以前とはまるで違っております。

 かつては痩せ細り、みすぼらしい少女だったグレートヒェン。

 しかし今、彼女の頬は紅潮し、目は艶めいている。愛に酔いしれ、陶酔に満ちた乙女の顔です。

 ファウストの指が、彼女の頬を優しくなぞる。彼の瞳には、学者としての理知はありません。あるのは、ただ純粋な欲望と、彼女に対する異様な執着だけ。

 彼は、知の探求者であることをやめてしまった。代わりに、彼は恋を知り、愛に溺れる凡俗へと堕ちました。

 ――いや、それを『愛』と呼んでいいのでしょうか?

 私は、その様子をじっと見つめながら、ふと考えました。

 グレートヒェンは、恋という魔法にかかり、無垢な魂を捧げようとしております。一方のファウストは、彼女を手に入れたことで、ようやく『生の充足感』を知ったつもりになっております。

 だが――

 彼の心の奥底に巣くうものは、果たして愛なのでしょうか? それとも、ただの執着なのでしょうか?

 グレートヒェンの指が、ファウストの胸にそっと触れます。

 彼はその手を取ると、唇を寄せました。

 グレートヒェンの顔が、微かに強張りました。ですが、彼女は拒みません。むしろ、戸惑いながらも、彼の求めに応じようとしているようです。

 なんと愛らしいことでしょう。彼女は、まだこの関係の行く末を知らないのです。

 彼女の兄が、今まさに血に塗れて横たわっていることを知らない。

 彼女の純粋さが、これからどんな結末を迎えるのかも知らない。

 だが、私は知っております。

 私は、それを知る者。

 だからこそ、この光景がたまらなく愉快でした。

 二人は、深く深く、暗闇の中に沈んでいく。

 まるで、夜の底なしの奈落へと堕ちていくように。

 私は静かに笑いました。

 ――さあ、地獄はすぐそこだぞ……。


 さて、そろそろ幕引きの時間です。

 石造りの裁判所は冷え冷えとしておりました。そこに集った人々の目は冷たく、怒りと軽蔑に満ちております。

 その視線の中心に座るのは、愛らしく純粋だった少女――グレートヒェン。

 いや、もう『かつて』と言うべきか。今の彼女は別人のようでした。

 目の焦点は合わず、まるで魂の抜け殻のようにぼんやりと虚空を見つめております。この場で唯一、彼女を庇おうとしているのは、泣き崩れる母親だけです。

「どうか、この子を許してやってください……! この子はまだ子供で何も知らないのです!」

 母親の震える声が冷たい裁判所に響き渡ります。だが、誰も彼女の言葉に耳を貸そうとはしておりません。

 裁判官が冷酷な声で言い放ちました。

「嬰児殺しの罪、並びに婚前交渉の罪により、グレートヒェン、お前を断罪する!」

 ――嬰児殺し。

 グレートヒェンは、産んだばかりの我が子を自らの手で……

 その小さな手で、赤子の息の根を止めたです。

 兄を死なせ、母を泣かせ、愛した男に見捨てられた彼女は、ついに心を壊してしまいました。そして、壊れた心が選んだ行動がこれでした。

 哀れでしょう? だがそれが……それこそが人間というものです。

「申し開きはないか?」

 裁判官が尋ねました。

 だが、グレートヒェンは何も言いません。彼女は自らの運命を受け入れたかのように、ただ黙っております。

 それどころか、ほんのわずかに唇を震わせ、笑ったようにさえ見えました。

 ――どうも、完全に壊れてしまっているようですね。

 まるで救済を諦め、地獄を望むかのように。

 私は、その様子を見て、思わず微笑んでしまいました。この結末こそが、私が求めていたものだからです。

 純粋だった少女が、最も醜い罪を犯し、破滅へと至る。そして、今や彼女の魂は堕落の一途を辿っている。

 なんと美しい終焉でしょう!

 私は、裁きの場を高みから眺めながら、静かに囁きました。

「さあ、グレートヒェン――最後まで堕ちておいで。お前の魂は、もう私のものだ」


 光の差し込まない、冷たく陰湿な牢屋の中に、グレートヒェンが囚われております。

 かつてあの優しい笑顔を見せていた少女は、今や見るも無惨な姿に変わり果てておりました。

 その目は、何も見ておりません。魂が抜け落ち、ただの殻のようになっております。彼女の顔にかつての輝きはもうありません。

 そこにはただ、絶望と無念が沈殿した空虚な瞳が広がるばかりです。

 かつて、愛と希望の象徴だったその瞳が、今や何の感情も示さない。

 私はその場に足を踏み入れることなく、遠くからその情景を見守っておりました。

 やがて、ファウスト博士が牢に駆け込んできました。

 彼はその姿を見て一瞬動きが止まりました。

 二人の視線が交わりました。そして、彼の顔が歪むのを私はしっかりと目撃しました。

「グレートヒェン…!」

 彼の声には、かすかな震えが混じっております。それは、まるで命令のように彼女を呼びかける声です。

 だが、グレートヒェンはその声には反応しません。彼女の目は、ただ虚ろに前を見つめたままです。

 あの、愛された少女の面影はどこにもありませんでした。

「なんてことを……」

 ファウストはその一言を漏らし、顔を覆いました。

 そうだ、まさにあの時からです。彼がどれだけこの運命に関わり、彼女を導いてきたのか。だが、今や彼の心には良心が残っております。

 良心の呵責。

 そして、私はその様子を見て、微笑みを浮かべました。

 私はもう何も言いはしません。その反応を楽しむために、ただひたすらに彼を観察するだけです。

 ファウストの目の中に浮かんだ悔恨。それが彼を、どうしようもなく引き裂いていく。

 そして――彼は耐えられなくなり、結局、その場をよろよろと離れていきました。

「ファウスト博士……」

 その後ろ姿を、私はじっと見つめて、静かに呟きました。

 ああ、彼は……結局、最初からこの破滅に飲み込まれる運命だったのでしょう。

 一度、心を交わしたはずの少女がどれほど悲惨に変わり果てても、彼はその責任を 背負おうとはしません。彼はただ、逃げるようにその場を去りました。

 その瞬間、私の存在が改めてグレートヒェンの目の前に現れました。私はそのまま静かに歩み寄り、彼女に微笑みました。

「ファウストは去った。だが、お前の魂は今、私のものだ」

 その言葉に、グレートヒェンは少しだけ反応を見せました。だが、それはもはや返事とも呼べるものではありませんでした。

「お前の運命、そしてファウストの運命、どちらも私の手のひらの中にある」

 その瞬間、私はただ静かに、足音を立てずに彼の後を追いました。彼がどう動こうとも、すでに私が支配している。そして、再び、あの破滅の瞬間が近づいている。

「さあ、楽しみだ」

 私の声は、暗闇の中で静かに響きました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る