第6話 ファウストの悲劇⑤
これだから人間というものは実に面白い。
私は闇の中からその光景を見つめておりました。
かつて私が天使であった頃、神は私にこう仰りました。『人の心には無限の愛がある』と。だが私には、とてもそうは思えなかったのです。
人の愛とは、限りなく脆く、そして恐ろしく歪んでいる。
――今まさに、それが証明されようとしている。
グレートヒェンの兄、ヴァレンティンは妹の腕を強く掴み、人目につかない路地裏へと引きずり込み、鬼のような形相を浮かべたまま彼女に迫りました。
「グレートヒェン、お前……最近、様子がおかしいな」
彼の目には警戒の色が滲んでおりました。妹の変化にいち早く気づいたのは、男としての本能か、それともただの兄妹愛か。
グレートヒェンはわずかに顔を伏せ、俯きました。
「そんなことないよ、お兄ちゃん……」
「誤魔化すな」
ヴァレンティンの声には苛立ちが混じっておりました。
ああ、実に良い展開だ。
「家に帰ってきても上の空だし、最近は妙に鏡を見ることも増えたな? ……誰だ?」
グレートヒェンはびくりと肩を震わせました。
「誰がお前の心を盗んだ?」
それでも、彼女は何も答えようとはしませんでした。そんな彼女の沈黙が、全てを物語っております。
「言え!」
ヴァレンティンが声を荒らげました。
少女は兄の怒りに怯え、涙を滲ませながらようやくぽつりぽつりと語り出しました。
「……彼は、とても賢くて……優しくて……」
「誰だ?」
「……ファウストさん」
いいね。実にいい。
兄の顔色がみるみる変わりました。
「ファウスト……? どこの誰だ、それは」
「博士……学者の人……」
「学者……?」
ヴァレンティンは眉を寄せ、疑念を深めました。そして、すぐに何かに気づいたように低く呟きました。
「……まさか、年上の男か?」
グレートヒェンは言葉を失い、俯きました。
ヴァレンティンの表情が凍りつきました。
「何歳だ、その男」
「……わからない。でも……」
グレートヒェンは、小さな声で続けました。
「私のことを、とても大切にしてくれるの」
それを聞いた瞬間、ヴァレンティンの血管が浮き出るのが私には見えました。
彼は拳を握り、歯ぎしりをしながら低く呟きました。
「……ふざけるな」
その声には、憤怒と嫌悪が入り混じっております。
そして次の瞬間――
「ふざけるな!」
彼の怒号が夜の空気を引き裂きました。
グレートヒェンは涙を浮かべながら首を振りました。
「違うの! ファウストさんは、そんな人じゃない!」
「何が違う!? いい歳をした男が、お前みたいな純真な娘に手を出すことのどこが違うって言うんだ!」
「だって……彼は私を愛してるもの!」
これは傑作だ。私は思わず口元を押さえました。
『愛してる』か。……お前はまだ何も知らぬというのに。
ヴァレンティンの怒りは頂点に達しておりました。
「どんな奴か、確かめてやる。」
彼は低く言い放ち、続けました。
「そのファウストとかいう男に会って、直接話をつける!」
グレートヒェンは息を呑みました。
私は、闇の中でほくそ笑みました。
さあ、劇は佳境に入ろうとしている。
兄の怒りが、正義感が、純粋な愛が、すべてこの物語を燃え上がらせる燃料となるのです。
神よ、これでも人の心は『無限の愛』なのでしょうか?
――ならば、見せてみろ。
私はただ、笑いました。
さて、劇の幕は上がった。
私は、闇の片隅からその光景を見守っておりました。
――決闘の場に現れたファウストを見た瞬間、ヴァレンティンの顔色が変わりました。
驚愕と戸惑いの入り混じった表情。それもそのはずでしょう。
彼が事前に調べた『ファウスト博士』は、しがない老学者であったはず。だが今、彼の目の前に立つのは――
若く、精悍な青年の姿をした『ファウスト博士』だったのですから。
ヴァレンティンの握る剣の先が、かすかに震えました。
「……貴様、本当にファウストなのか?」
声には明らかな疑念が滲んでおります。
ファウストは、わずかに苦笑しながら頷きました。
「私がファウストだよ」
しかし、彼の目は一瞬たりともヴァレンティンを見ておりません。
いや、正確に言えば、彼は見ようとしていなかったのです。彼の視線は、決闘の場に立つ自分自身の姿を意識しておりました。そう、彼は未だに自分の若き姿に酔いしれているのです。
実に滑稽なことですねぇ。彼は知の極みに達した学者でありながら、その魂は未だに愚かであり続けているのです。そんな彼を、私は愛しております。
そして、ヴァレンティンはこの場にいるもう一人の存在に気づきました。
私です。
彼は私を見た瞬間、直感したのでしょう。
「……貴様、何者だ?」
「さあ? ただの通りすがりの見物人に、そんなに気を取られていていいのですか?」
私は、にこやかに微笑みました。
ヴァレンティンの眉がピクリと動きます。
彼の戦士としての直感が、私の正体を告げているのでしょう。私は人間ではないと。
「……悪魔め」
「おやおや、私をそんな風に呼ぶのですか? それは心外ですね」
「違うとは言わせないぞ」
「さて、どうでしょうね?」
私は肩をすくめて笑いました。
ファウストは、そんなやり取りに興味がないらしく、やや苛立った様子で言いました。
「決闘を申し込んだのは君だろう? 早く始めようじゃないか」
彼は、鞘から剣を引き抜きました。
そして、剣戟が始まりました。
最初の一撃。
ヴァレンティンの剣が閃き、ファウストの肩をかすめました。
「おっと……!」
ファウストはぎこちなく身を引きました。
やれやれ、どうやら戦闘の才は、若さと共に得られるものではないようですね。
ヴァレンティンは、容赦なく攻め込みます。
「貴様のような男に、妹を穢されるわけにはいかん!」
怒りと憎悪に燃えた剣が、ファウストに襲いかかります。
ファウストは防戦一方です。
ヴァレンティンは、決闘の最中にもファウストの顔色を窺っておりました。彼はまだ、この男の正体を測りかねているようです。
「……やはり、貴様は何者だ?」
彼は剣を振るいながら問いました。
「どんな魔法を使った? その若さ、貴様のものではないだろう」
「……君の知る必要はない」
ファウストは短く返しました。
ヴァレンティンの表情が一層険しくなります。
「妹を弄ぶだけでなく、己の魂まで売り渡したか!」
ファウストの顔色が変わりました。
ヴァレンティンは、さらに畳みかけます。
「妹が貴様の何たるかを知ったら、どう思うだろうな?」
その言葉に、ファウストの剣が鈍りました。次の瞬間、ヴァレンティンの剣が閃く。
――勝負が決まるかと思われた、刹那。
「さすがにここで終わるのは興ざめというものですよ」
私が軽く指を鳴らしました。
するとファウストの足元が影に包まれ、彼の身体が不自然な速度で後方に引かれました。
いわゆる、悪魔の介入というやつです。極力こういう事はしたくなかったのですが、いよいよとなれば仕方がありません。
「何……!?」
ヴァレンティンの目が見開かれます。その隙を、ファウストは逃しませんでした。
「うおおおおおおお!」
剣を振るい、全身全霊の一撃をヴァレンティンへと叩き込みました。
――その刃が、ヴァレンティンの腹部を貫きました。
彼の剣が手から滑り落ちます。
ヴァレンティンは呆然と、自らの腹から流れ出る鮮血を見つめておりました。
「……そんな、馬鹿な……」
彼はよろめきながら膝をつきました。
ファウストは荒い息をつきながら、剣を引き抜きました。
ヴァレンティンは、力なく崩れ落ちました。私は、目を細めてその光景を見つめました。
「お見事」
ファウストは、勝利の余韻に浸る間もなく、手の震えを止めようとしておりました。
ヴァレンティンは、血を吐きながら私を睨みつけておりました。
「……悪魔め……」
私は笑いました。
「やれやれ、またそう言われてしまった」
彼は、最後の力を振り絞り、呟きました。
「妹を……お前たちから……離れさせる……」
そして――
彼の身体は、冷たい夜の闇に沈んでいきました。
私は微笑みました。
「さあ、これで舞台は整った。お楽しみはこれからですよ」
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