第8話 ファウストの悲劇⑦

 グレートヒェンの魂は、まもなく静かにこの世界から消えました。しかし、それは救いなどではありませんでした。

彼女は天国にも迎え入れられず、かといって地獄に堕ちることも許されなかったのです。

まるで裁定を待つかのように、彼女の魂は宙を漂い続けました。私はその光景を、どこまでも冷ややかに見つめておりました。何もかもが終わった後の虚無ほど、興味深いものはありません。

彼女の魂は、重力のない空間を漂い、時にふわりと舞い上がり、時に沈む。まるで、風に流される木の葉のように、何の意志もなく漂っている。

どれほどの時間が流れたのか、彼女には分からなかった事でしょう。いや、むしろ時間という概念すら意味を成さなくなったのかもしれません。

「私は、どこへ行くの……?」

そんな問いさえ、すでに声になりません。

彷徨い続ける魂。

行く当てもない魂。

かつてあれほど清らかであった少女が、今はただの無機質な存在になり果てておりました。

――これこそが、私の最も好む光景だ。

彼女が幸せになる結末も、地獄の業火に焼かれる結末も、どれもつまらない。

だが、何の報いもないまま、虚無の中で漂い続ける。それこそが、本当の罰というものです。

彼女は自分の行いを悔いているのかもしれません。

あるいは、ただ何も考えられなくなったのかもしれません。

だが、彼女に課せられた罰は、悔いることですらない。『存在し続けること』そのものが、彼女の罰なのです。

やがて彼女は、どこかへ流されていきました。

果てのない空を、どこまでも、どこまでも。

私はその姿を、最後まで見届けることはしませんでした。

あとはただ、風のままに流れていけばいい。

私の薄い笑みが、静かに夜の闇に溶けていきました。


それからどれほどの時が流れた事でしょう。それは神すら数えようとしない時間だったのかもしれません。

宙を漂い続ける魂は、もはや自分の名前すら覚えていなかったに違いありません。

いや、彼女は本当に『グレートヒェン』だったのか? それすらも定かではない事でしょう。

名前、記憶、過去、愛、痛み――

それらはすべて霧のように溶け、無に帰しているのですから。

彼女はただの『存在』でした。どこへ向かうわけでもなく、何かを願うわけでもなく、ただ、漂っておりました。

そんな彼女の前に、私は満を侍してようやく姿を現しました。

彼女は盲目でした。瞳は開かれていても、何も映してはおりませんでした。

「さあ、お前が捨てた世界を見せてあげよう」

私はそう言って、彼女に下界を指し示しました。

それは彼女がかつて生きた場所。

彼女が全てを捧げ、全てを失った場所。

盲目のままの彼女が、その景色をどうやって見たのか、それは定かではありません。

だが、彼女は確かに見たのです。孤独な玉座に座るファウストの姿を。

光のない大広間、誰もいない王座の間。その中心に、かつて彼女が愛した男がいました。

といっても、かつての彼は、そこにはいませんでした。何故なら、彼はすでに、人の形をした虚無でしたから。

何かを得るために全てを捨て、全てを得たはずなのに、何一つ手にしていない男。

その姿を見た瞬間、彼女は全てを思い出したのです。

愛したこと。

裏切られたこと。

狂ったこと。

殺したこと。

死んだこと。

……それでも、彼のことを憎めなかったこと。

「ああ……」

声にならない声が、彼女の喉から漏れました。

魂が震えた。

その震えを、私は見逃しませんでした。

人の形を失ってもなお、彼女の心は死にきってはおりませんでした。

これだから、人間は面白い。

「さあ、ここからが本当の物語の始まりだ」

私は彼女に向かって、微笑みました。

悪魔の微笑みで、彼女の運命に新たな火を灯すために。


「時間よ止まれ。そなたは美しい」

ファウストがその言葉を口にした瞬間、私はすべてを手に入れました。

私は勝ったのです。この一言が、どれほどの意味を持つか、彼は理解していないでしょう。

彼が人生をかけて探し求めた『至高の瞬間』。それを手に入れたのなら、もう彼に未来は必要ない。

彼の魂は、約束通り私のものとなる。

私は満足げに口元を歪め、高らかに笑いました。

「はははははは!」

御覧なさい! これが人間の愚かさというものです!

その瞬間、グレートヒェンの悲鳴が虚空に響き渡りました。

「嫌っ……!」

まるで裂けるような、痛ましい声。震えながら、彼女はファウストを見つめておりました。

「……嘘よ、そんなの……!」

彼女は知っているのです。悪魔に魂を奪われた者が、どんな運命を辿るのか。

地獄に堕ちるとはどういうことなのか。

死の先に待っているのは、終わりなき闇と苦痛。

それを知っているからこそ、彼女は涙を流しました。

それでも、彼を助けたいと願う。

それでも、彼を愛していると信じる。

私は目を細め、満足げに彼女の姿を見つめました。

「哀れな娘よ」

私は優雅に近づき、静かに囁きました。

「あなたの愛するファウストを助けたいのなら……」

彼女の前に、私は手を差し出す。

ゆっくりと、慈愛に満ちた仕草で。

「私と契約なさい」

彼女の震える瞳が、私を映している。

迷い、恐怖し、しかし……希望を求めている。

「……契約?」

私は微笑んだ。

「ええ。あなたが私と契約すれば、彼の魂は解放される。あなたの願いは叶うのですよ」

グレートヒェンは絶望的な表情で、ファウストの顔を見つめました。

「……ファウストさん……」

ファウストは混乱したように、自分の手を見つめておりました。もはや自分が何を言ったのかすら、彼は理解していないのです。

「ファウストさん!」

地上に降り立ったグレートヒェンは彼の腕を掴みました。

「あなたは本当に……本当に、こんなことで満足なの……?」

「私は……」

ファウストの声は、どこか遠いものでした。

彼は呆然としたまま、グレートヒェンを見つめておりました。まるで自分が今、何をしているのか理解できないかのように。

「違う……こんなの、違うわ……」

グレートヒェンは涙を流しながら、ファウストの胸にすがりつきました。

「あなたは、私に『愛』を教えてくれた……あなたは、私にとって、光だったのよ……!」

「……君は……」

「お願い、目を覚まして……! あなたは……あなたはこんな結末を望んでいたわけじゃないでしょう?」

彼女の言葉が、ファウストの心を揺さぶる。だが、すでに手遅れです。

何故なら契約は交わされたのだから。今やファウストの運命は、私の手の中にある。

私は、そんな彼らのやり取りを興味深げに眺めながら、穏やかに告げました。

「おやおや、まるで悲劇でも見ている気分ですな」

グレートヒェンは私を睨みつけました。

「お願い……メフィスト……あなたなら、何とかできるのでしょう……?」

「ほう?」

私はゆっくりと首を傾げました。

「もし、あなたが本当に彼を助けたいのなら……私と契約することです」

「……!」

「あなたの魂をいただければ、彼を解放して差し上げましょう。とても簡単な取引です」

私は微笑みました。

「さあ、どうします? 愛する人を助けるために、自ら地獄へ堕ちる覚悟はありますか?」

グレートヒェンの顔が絶望に染まります。彼女は震えながら、唇を噛み締めました。

「……私が……?」

「ええ、あなたが」

「私が……私が地獄に堕ちれば……ファウストさんは助かるの……?」

私は優雅に頷いた。

「もちろん。私は嘘をつきませんよ」

私はじっと彼女を見つめました。その目には、もう希望など残ってはおりませんでした。

彼女は、ただ彼を救いたいと願っているだけだったのです。

私は微笑みながら、彼女の手を取りました。

「さあ、どうしますか?」

グレートヒェンは、静かに目を閉じました。

そして――

「……契約するわ」

私は満足げに微笑みました。

「いいでしょう」

これで、ようやく手に入れた。私が本当に欲しかったものを。

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