第5話 ファウストの悲劇④

 それから二人は徐々に逢瀬を重ねるようになりました。あらゆる知を我が物としていったファウスト博士も、温もりや愛といった形而上学的な話に関しては、まるで無知だったのです。

 グレートヒェンはそんな彼に優しく教えを授けていきました。何度も何度も丁寧に……。

 さて、これはなんとも滑稽な光景ではありませんか。

 あらゆる学を修め、あらゆる知識をその脳に蓄えてきたファウスト博士。その彼が、いまや一人の少女の前でまるで初学の徒のように振る舞っております。まるで弟子と師のように。

 実際、二人の関係はファウストが弟子であり、グレートヒェンこそ師なのでしょう。

 ファウスト博士は人類の知を極めたつもりでおりました。哲学も、神学も、医学も、数学も、錬金術も、そのすべてを理解していると思っておりました。だが、彼には決定的に欠けているものがあったのです。

 それは――人間達が『愛』と呼んでいるものです。

 温もり、優しさ、無償の善意、献身、そして愛。博士はそれらを知りませんでした。

そして、それを知るために彼は最も不適切な教師を選んでしまったのです。


 ある夜、二人は並んで歩いておりました。

 この田舎町では夜更けに人通りがほとんどなく、街灯すらありません。月明かりがかろうじて道を照らし、彼らの影を長く伸ばしておりました。

 グレートヒェンは袖のほころびた服をいじりながら、ファウストの話に耳を傾けておりました。博士はずっと小難しいことを語っておりました。いや、本人にとっては難しい話ではないのかもしれませんが、そもそも少女にそんな話をするのが間違っているのですよ。

 彼は愛を知ろうとしていた。いや、もしかすると、知っているふりをしたかっただけかもしれませんがね。

「つまり観念的な概念として、人間の心というものの正体は――」

「心は感じるものよ、考えるものじゃないわ」

 グレートヒェンは立ち止まり、ファウストを見上げました。

「え?」

 ファウスト博士は明らかに戸惑った表情を浮かべておりました。

「あなたって、色んなことを知ってるのね。でも、どうしてそんな簡単なことがわからないの?」

「……簡単?」

「うん」

 彼女は柔らかく微笑みながら、博士の手をそっと手に取りました。

「たとえば、こうして手を握るでしょう? そしたらね、あったかいって思うの。ただそれだけよ」

 ファウスト博士はじっと自分の手を見つめました。

彼の表情が少しだけ変わりました。それはいつもの自信満々な学者の顔ではありま せん。まるで道に迷った旅人のような顔です。

 ふふ、なんとも愉快な光景ではありませんか。


 私は静かに、しかし興味深く彼らを観察し続けました。

 ファウストは少しずつ変わっていきました。いや、変わっていくように見えるだけかもしれませんね。彼は確かに愛を学び、温もりを知り、人間らしくなりつつあるように見えます。しかし、それは結局――

 彼の心にさらなる渇きを生むだけなのです。

 この少女に近づけば近づくほど、彼は彼女を求めるようになる。

 愛を知ろうとすればするほど、愛を知らない自分を痛感する。

 それこそが、人間の哀れな性なのですよ。

 さて、博士よ。

 このまま学び続けるかね?

 それとも、いっそこのまま――

 壊れてしまうかね?


 さて、ご覧ください。これこそが『幸福』の戯れです。

 青い空の下、揺れる野の花々の中で、二人の影が寄り添うように座っておりました。

グレートヒェンの指先が、一輪のマーガレットの花に触れました。

「好き……」

 彼女の白く華奢な指が、そっと白い花びらを一枚摘み取ります。

「嫌い……」

 また一枚。

「好き……」

「それは何をしている?」

 ファウストが興味深げに覗き込むと、グレートヒェンは恥ずかしそうに笑いました。

「花占いよ。先生のことを占っているの」

「占い?」

「そう。花びらを一枚ずつ取っていって、最後の一枚がどちらの言葉になるかで、相手の気持ちが分かるの」

 彼女は顔を赤らめながら、小さく囁きました。

「先生が、私のことを……好きかどうか」

 ファウストは一瞬、言葉を失いました。

 彼は学者です。迷信や占いに興味などないはず。だが……

 彼女がその儚い指先で、一枚ずつ花を摘むたびに、なぜか彼の胸の奥で妙なざわめきが生まれたのです。

「好き……」

 彼女の声が、微風に溶ける。

「嫌い……」

 白い指が、また花びらを奪う。

「好き……」

 ファウストは彼女の横顔を見つめました。

 その時、ファウストには彼女がまるで少女のままの天使のように思えたのです。

 グレートヒェンは何の疑いもなく、ただ純粋に彼のことを思い、占いという他愛のない遊びに心を委ねている。

「……本当に、そんなことで分かると思うのか?」

「ううん」

 彼女は笑った。

「でも、もし最後が『好き』なら、それだけで私は幸せになれるから」

 その言葉に、ファウストの胸が締め付けられました。

 ――幸福とは、こんなにも単純なものだったのか?

 彼は世界中の学問を学びました。哲学を極め、人間の本質を探求してきました。だが、こんな幼い少女の方が、よほど幸せというものを知っているのではないか?

「好き……」

 彼女の声が柔らかく響く。

 そして、最後の一枚。

 グレートヒェンは、そっと目を閉じました。

「好き」

 彼女は小さく微笑みながら、花を胸に抱きました。それは、あまりに純粋な幸福。

しかし……

 私は知っています。運命が彼らに何を用意しているのかを。

 彼女が摘み取ったのは、ただの花びらではありません。

 それは未来からの予兆です。

 彼女は気づいていません。

 この恋が、ただの甘やかな夢で終わらないことを。

 この道の先に待つのは、甘美な絶望と涙、そして血の色に染まる運命。

 私はそっと、微笑みを噛み殺す。

 花占いは、時に正しく未来を告げるものですから。


 ああ、なんと美しい。

 人間達が『恋』と呼ぶ、この愚かしくも甘美な病が、ここまで女を変えるものだとは。

 グレートヒェンは、当初はみすぼらしい娘でした。髪はぼさぼさ、指は糸紡ぎの作業で荒れ、服は母の手縫いで繕われた粗末なもの。どこにでもいる、貧しく素朴な娘。

 しかし、彼女は変わりました。

 ファウスト博士との逢瀬を重ねるうちに、彼女の頬には次第に血色が差し、瞳は輝きを増していきました。

 やがて彼女は、髪をとかすようになりました。

 花畑に行く日には、野の花を摘んで髪に飾るようになりました。

 ファウストと会う前に、少しだけ鏡を覗くようになりました。

 何より、彼女の顔には以前にはなかった微笑みが浮かぶことが増えました。

 ――それは、まるで蕾がゆっくりと開くように。

「彼女は変わったな」

 ある日、ふとファウスト博士が呟きました。

 私はそれを聞いて、興味深そうに彼を見やりました。

「ほう、どのあたりがですか?」

「……分からないが、前よりずっと、美しくなったように思う」

 ファウスト博士は、まるで自分の言葉に戸惑うように、静かに続けました。

「出会った頃は、ただの貧しい少女だった。だが今は……」

 彼は遠くのグレートヒェンを見つめました。

 夕暮れの陽に照らされた彼女は、まるで一枚の絵画のようでした。

 頬を赤らめ、そっと編み込んだ髪を弄ぶ姿は、幼さを残しながらも、どこか儚げで蠱惑的だったのです。

 私は目を細め、わざとらしく肩をすくめました。

「恋とは、不思議な魔法ですな」

「魔法?」

「ええ、そうですとも。恋する女は、自らが魔術を使っていると気づかぬまま、見る者すべてを惑わせるのです」

 ファウスト博士はその言葉を否定しませんでした。

 彼自身、その魔法にかかりつつあることを、誰よりも理解していたからです。

 しかし、当のグレートヒェンは何も気づいてはおりません。

 自分がどれほど美しくなったかも、どれほど周囲の目が変わったかも知らず、ただ素直にファウストを見つめ、微笑んでおります。

 その無自覚さが、彼女をさらに魅力的にしておりました。

 私はそんな二人を見て、内心で笑いました。

 ええ、そうでしょうとも。

 恋とは、甘美で、狂おしく、そして、破滅への第一歩なのですから。

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