第4話 ファウストの悲劇③

 夜も更けた頃、私はファウストを伴って家へ戻りました。

 道中のファウストは終始不機嫌でありました。彼は美しく若返ったというのに、肝心の“渇き”は癒えなかったことに、ひどく落胆しているようです。

 だが、私は知っています。彼の渇きを真に癒すものなど、この世にはないのです。

 彼にとって自らの無力を嘆くことこそが生きる悦びであり、また、私にとってはそこにこそ甘美な楽しみがあるのです。

 ──さて、そろそろ次の一手といきましょうか。

 私は黒塗りの机の上に、古びた鏡を取り出して置きました。

「博士、こちらをご覧ください」

 ファウストは訝しげに眉をひそめましたが、やがてしぶしぶそれを覗き込みました。

 鏡の中には──夜中にも関わらず糸車を回す、一人の少女の姿が映っておりました。

 粗末な服、やつれた頬、ぼさぼさの髪。痩せ細った体に、女らしい曲線の影はほとんどありません。

「子供じゃないか」

 ファウストは顔をしかめ、露骨に不快そうな声を出しました。

「私が求めているのは、こんなみすぼらしい娘ではない」

 ファウストは鏡を払いのけるように手を振りました。

「お前は奇跡を見せてくれると言ったな? だというのに、これか? 貧相な子供を見せて、私に何をしろというんだ?」

 私は心の中で笑いながら、静かに言いました。

「博士、貴方は本当にお分かりではないのですね」

「……何がだ?」

「この少女こそ、聖女になれる器を持つ女なのですよ」

 ファウストは鼻で笑いました。まあ、無理もない反応でしょう。

「こんな小娘がか?」

「ええ、ええ。そのように思うのも無理はありません」

 私は軽く肩をすくめました。

「ですが、博士──恋をすれば、女は変わるものです」

 ファウストは訝しげに私を見つめました。その視線に構わず、私は鏡に映る少女を指でそっとなぞりました。

「この娘はまだ蕾なのです。しかし、恋をすれば──それは美しく開く」

「……」

「博士、貴方は今夜、私が見せた奇跡の数々を目にしたでしょう?」

 ファウストは沈黙しました。

「ならば、私の言葉も信用してみてはいかがですか?」

 長い沈黙の後、ファウストは小さく息を吐きました。

「……分かった。お前の言葉を信じよう」

 私は、満足げに微笑みました。

 ──ええ、それでこそ。

 私が本当に手に入れたかったのは、貴方の魂ではない。あの少女の魂こそ、私が求める最高の逸品なのだから。

 私は鏡を撫で、そっと目を細める。

 ──さあ、舞台は整いました。

 次は、花を咲かせるとしましょうか。

 

 私は高みから見下ろしながら、慎ましやかに生きる一人の少女を観察しておりました。彼女の名はグレートヒェン。貧しく、無垢で、そして哀れな娘。

 市場の喧騒の中、彼女は母親とともに糸や布を売っておりました。決して贅沢とは縁のない暮らし。それでも、彼女はその小さな手で布を広げ、誠実に客へと説明をしております。そう、彼女は良い子なのです。心優しく、神の教えに忠実で、どこまでも慎ましい。

「お嬢ちゃん、これ、おまけだよ」

 親切な男が、熟したりんごを手渡しました。

「まあ……いいんですか?」

「もちろんさ。お前さんみたいな良い子には、時々ご褒美が必要だ」

 そうして少女の手の中に、真っ赤な果実が収まりました。

 それはまるで神からの贈り物……エデンの園の林檎のようです。

 ですがこの果実は、甘くも苦い運命の前触れに過ぎないのです。


 グレートヒェンは市場の喧騒を離れ、静かな路地に入りました。大事そうにりんごを両手で包み込み、目を輝かせながらかじろうとした、その瞬間――

 目の前に転がる、朽ちた命の残骸。

 ぼろ布をまとい、痩せ細った老人が道端に横たわっております。震え、咳をし、今にも息絶えそうなその姿。

 市場の誰もが彼を見捨てておりました。人々の喧騒は、彼をただの景色の一部にしてしまっていたのです。

 グレートヒェンは、りんごを持つ手を止めました。

 ――さて、お前はどうする? 心の中で私はグレートヒェンに問いかけました。

 当然のことですが、私にはわかりきっております。彼女は迷う。小さく、ほんの一瞬。だが、その迷いは取るに足らないものでした。

 私の想像通り、彼女はりんごを差し出しました。

「食べてください」

 その瞬間、私は確信しました。

 この娘は、まさしく天使そのものです。私の欲望の対象として、これ以上相応しいものはありません。

「なぜだ?」

 私は問いを発しました。だが、それを口にしたのは私ではありません。

 立っていたのは、ファウスト博士。若さを取り戻し、熱に浮かされたような男。

 彼は困惑しきっておりました。理解できぬものに対する純粋な戸惑いを抱えながら。

「君は貧しい。自分が食べるものすら満足にないのに、どうして見ず知らずの人間のために、それを差し出す?」

 彼もまた人間らしい。彼にとって、行動には理由があるべきものなのです。愛、利益、宗教、信念。人は何かを得るために行動するもの。だが、この少女には、そのいずれもない。ただ、ただ純粋に――

「おかしいことを聞くのね」

 グレートヒェンは博士に向かって微笑みかけました。

「あなたは、お母さんが病気のときにお世話をしたことはないの? 友達が困っていたら、手を貸したことは?」

 ファウストは言葉を失いました。

「この人がこれを食べて、少しでも楽になってくれたら、それでいいの」

 なるほど、まさに聖女の言葉。

 彼女の純粋な善意は、ファウストにとっては理解不能のものであったことが、私にはよくわかりました。いや、それは当然の事です。ファウストは己の知を誇る学者でありながら、己の精神に渇きを抱える男。知識には飢え、快楽には飢え、何もかもを求め続けるが故に、決して満たされることのない者。

 そして、その目の前にいるのは、何かを求めることすら知らぬ少女。

 彼の渇きと、彼女の満ち足りた魂――

 この二つが出会ったとき、何が起こるか?

 私は、興味が尽きませんでした。

 ファウストの背後で、私はそっと微笑みました。

「さあ、博士。あなたの渇きは、少しは癒えましたかな?」

 だが、無論そんなことはありません。

 これは、癒しなどではない……これは、始まりに過ぎないのです。

 この少女は、間違いなく天使です。ならばこそ――このまま神の手の元へと帰してはつまらないではありませんか。

 私の望みはただ一つ。

 清廉な魂を絶望に沈めること。永遠に、私の掌の中に閉じ込めること。

 さあ、ファウスト。お前がどれほど理性を持とうとも、私にはわかる。

 お前は、今この瞬間から、この少女に惹かれ始めた。

 そして、それこそが私の計算通りなのです。

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