第3話 ファウストの悲劇②

 ファウストは、自らの手を見つめておりました。気が付いた時には皺は消え、関節のこわばりもありません。髪は豊かに黒くなり、肌は張りを取り戻しております。まるで、かつての青年の日々がそのまま蘇ったかのようです。

 そして、彼は狂喜しました。

「こ、これは……!」

 ファウストは机の上の鏡を掴み、まじまじと自らの顔を覗き込みました。そこに映るのは、老いた学者ではなく、かつての自分──若き日の姿。

「これが……本当に私なのか……!」

 鏡に映る自分の頬を叩き、髪をかき上げ、手を握り、開き──まるで生まれ変わったばかりの人間のように、何度も何度もその若々しさを確かめました。

 ──やれやれ。

 私はファウストの狂乱を眺めながら、優雅に指を組みました。

「素晴らしい……! これが若さというものか……!」

 ファウストは拳を握りしめ、部屋の中を落ち着きなく歩き回ります。指の関節はなめらかに動き、視界は鮮明になり、疲れ知らずの活力が体中を駆け巡っているのを感じるのでしょう。

 しかし、私は知っております。この熱狂が冷めれば、ファウストは再び渇きを覚えるでしょう。確かに彼は若さを得ました。だがそれだけでは足りないのです。なぜなら彼が求めていたのは、単なる肉体の若返りではなく──

「さて、博士」

 満を侍して、私はゆっくりと立ち上がりました。

「お祝いがてら、街へ繰り出しましょう」

 博士は一瞬、怪訝そうにこちらを見ました。

「街へ?」

「ええ、せっかく新しい人生を手に入れたのですから、楽しまなくては損ですよ」

 私は微笑みながら、ファウストの肩をぽんと叩きました。

「それに、愛を知るためにはまず経験が必要です。書物の中の恋愛論では、本物の情熱は学べませんからね」

 ファウストの眉がぴくりと動きました。

「……いや、私は……」

 彼は言いかけて、口をつぐました。理性では拒もうとしているのでしょう。しかし、若返った身体はすでに血潮の昂りを感じているに違いありません。

 いいですね、この迷い。かつての彼ならば、こんな誘いには見向きもしなかったでしょう。だが今、彼の魂は揺らいでおります。彼は知らず知らずのうちに、もう一歩、私の手のひらの上に踏み込もうとしているのです。

 私は優しく囁きました。

「博士、今の貴方は若い。どんな女も、貴方を魅力的に思うでしょう。この力を試してみたいとは思いませんか?」

 ファウストは唇を噛み、考え込みました。

 そんな彼を更に煽る様に、私はさらに言葉を重ねました。

「それとも、せっかくの若さを、ただ研究室で燻らせるつもりですか?」

 その台詞が決定打だったようです。

 ファウストはため息をつき、渋々と立ち上がりました。

「……仕方あるまい」

 私は満足げに微笑みました。

「では、行きましょう。博士」

 ──美しい破滅への第一歩を、共に。


 夜の街は、灯りと喧騒に満ちておりました。酔客の笑い声、グラスのぶつかる音、道端で口論する男女──ここには俗世の欲望があふれ返っております。

 私はそんな混沌を楽しむように歩きながら、ファウストの肩を旧くからの友人のように叩きました。

「さあ、博士。新しい世界を楽しみましょう」

 ファウストは落ち着かない様子で周囲を見回しました。彼の目には、この夜の世界がいまだ馴染まぬもののようです。

 ならば、馴染ませてあげるだけのこと。

 私は酒場に入り、笑顔の女たちに囲まれながら、懐から金貨を取り出しました。指先で軽く弾くと、金貨はひとりでに宙を舞い、くるくると回転しながら増えていく。

「まあ、なんて素敵……!」

「こんなにたくさん……!」

 女たちの目が輝きました。私は彼女たちに軽く囁きました。

「この若き紳士を、たっぷりと楽しませて差し上げてください」

 金貨の輝きは、彼女たちにとって何よりの魔法でした。女たちはすぐにファウストの腕を取り、甘い言葉をささやき、ファウストを個室へと案内しました。

 私はグラスを傾けながら、楽しげにその様子を眺めておりました。


 しかし、しばらくしてファウストが戻ってきたとき──彼の顔には、あからさまに不機嫌な色が浮かんでおりました。

「おやおや」

 私はグラスを置き、優雅に微笑みました。

「博士、どうしました?」

 ファウストは険しい顔をしたまま、椅子にどかりと腰を下ろしました。

「……私は愚かだった」

「ほう?」

「金を渡して女を抱いたところで、何も満たされはしない」

 ファウストは不機嫌そうに吐き捨てるように言いました。

「奴らはただ、金のために媚びへつらっただけだ。そこに愛など欠片もない」

 私は目を細め、ゆっくりと頷きました。

「なるほど、それは残念でしたね」

 ファウストはさらに憤ったように続けました。

「こんな浅ましい真似をするくらいなら、一人で書物に没頭していた方がよほどましだ」

「ですが、博士」

 私は楽しげに微笑みながら、ゆっくりと身を乗り出しました。

「それならば、まだ俗世に汚されていない乙女に、貴方の相手をさせて差し上げましょうか?」

 ファウストの顔が、驚きと僅かな期待の間で揺れました。

「……どういう意味だ?」

「お分かりでしょう?」

 私はそっと囁きました。

「金ではなく、打算でもなく、純粋な心を持つ少女を、貴方に捧げるのです」

 ファウストは息をのみました。

 ──ここまでは、すべて私の計算通り。

 さあ、そろそろ本題に入りましょうか。

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