​第4話 泥舟の航海図


【​視点:犬千代利家】


 ​ 僕の部屋は、静寂に満ちていた。


 聞こえるのは冷却ファンの静かな駆動音と、僕がキーボードを叩く規則正しいタイプ音だけだ。

 モニターには、膨大なログデータと、色分けされたアカウント相関図が映し出されている。


 藤吉郎がまんまと罠に嵌められた一件で、僕は確信した。

 この犯人は、単なる愉快犯じゃない。

 明確な殺意…いや、社会的に相手を”抹殺”しようという強い意志を持った、極めて狡猾こうかつな人間だ。


 ​ お松に頼まれた調査は、僕自身の戦いにもなっていた。 大切な恋人が、そして彼女が命懸けで守ろうとしている親友が、見えない敵の毒牙にかかっている。


 サイバーセキュリティのプロとして、これを座視することなど断じてできなかった。

 ​僕はまず、寧々ちゃんへの誹謗中傷を繰り返している特に悪質な数十のアカウントをリストアップし、その行動パターンを徹底的に分析した。


 投稿時間、言葉遣いの微細な癖、使用する画像の圧縮形式、改行のスタイル……。

 一見するとバラバラな個人に見えるそれらのアカウントには、奇妙な共通項がいくつも浮かび上がってきた。


 ​例えば、アカウントAがデマを投下すると、必ず3分以内にアカウントBとCがそれを拡散し、10分以内にアカウントDが同情的なふりをして火に油を注ぐ。


 この連携は、まるで一つの指揮系統の下で動く軍隊のように、あまりにも正確で組織的だった。


 ​ そして決定打となったのは、藤吉郎に偽の情報を吹き込んだアカウントだ。

 発信元の痕跡を丹念に追跡していくと、何重にもかけられた偽装のベールの先に、ある特定のサーバーの痕跡が微かに残っていた。

 それは、僕が以前、業務でセキュリティ監査を行ったことのある配信プラットフォームのサーバーだった。

 その痕跡と、一連の匿名アカウント群が利用しているプロキシサーバーの契約者情報を照合した時、すべての点が一本の線で繋がった。


 ​「……!」


 ​モニターに表示されたその名前に、僕は静かに呟いた。


 すべての誹謗中傷は彼がたった一人で、あるいはごく少数の協力者と共に意図的に作り出した幻想の軍隊によるものだったんだ。


 ​僕は集めたすべての証拠を、誰が見ても理解できるようにレポートとしてまとめ上げ、すぐにお松と寧々ちゃんの元へ向かった。


 ​カフェの個室は、重い沈黙に包まれていた。


 僕の報告を聞き終えた寧々ちゃんは、血の気の引いた顔で、唇をわななかせていた。

 その瞳には、犯人が判明したことへの安堵よりも、一人の人間が持つ底知れない悪意への恐怖と、そして裏切られたような怒りが渦巻いていた。


 ​「家康さんが……どうして、あんな……」


 ​無理もない。

 彼は同じV-Tuberとして活動する、いわば同業者なのだから。

 隣に座るお松が、悔しそうにテーブルを拳で叩いた。


「あの腹黒ダヌキ…! どこまで性根が腐ってるんだ…!」


 ​寧々ちゃんの肩が、小さく震えている。

 無理やり笑顔を作ろうとしているが、その目には涙の膜が張っていた。


 藤吉郎くんの一件で、彼女は自分自身をも責めていたのだ。


 もう、何もかもやめてしまいたい。


 そんな弱音が聞こえてきそうなくらい、彼女は傷つき、追い詰められていた。


 ​僕は、彼女の前に一枚のプリントアウトをそっと置いた。

 それは、家康の偽情報によって汚されてしまったコメント欄の、さらに下に埋もれていた声だった。


 ​『デマに負けないで』


『何があっても寧々ちゃんを信じてる』


『いつもの笑顔で戻ってきてくれるのを待ってます』


 ​数こそ多くない。

 だが、その一つ一つは、悪意の濁流に飲み込まれまいと必死に輝く誠実な光を放っていた。


 ​寧々ちゃんは、その言葉たちを、まるで祈るように指でなぞった。


 一粒、また一粒と、彼女の瞳から涙がこぼれ落ちる。


 だが、それは先ほどまでの絶望の涙ではなかった。


 ​やがて彼女は顔を上げた。


 涙で濡れたその瞳には、もう迷いはなかった。

 まるで雨上がりの空のように、澄み切った強い光が宿っていた。


 ​「利家さん、お松、ありがとう。……そして、藤吉郎くんにも」


 彼女は僕たちをまっすぐに見据え、そして言った。


「証拠はそろいました。私、もう逃げません」


 ​その声は震えていたが、揺るぎない決意に満ちていた。


 ​「家康さんが私を沈めるために作ったこの泥舟……みんなの前で、この手でひっくり返して沈めてみせます」


 ​彼女の逆襲の計画は僕の想像以上に大胆で、そして確実なものだった。


 僕らは顔を見合わせ、力強く頷く。


 反撃の狼煙を上げるための最後の航海図は、今まさに完成したのだ。


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