第3話 共感の波紋

 契約という、現実離れした儀式を終えてから数日が過ぎた。

 真白の日常は、驚くほど何も変わらなかった。

 朝、重い瞼をこじ開けて学校へ行き、退屈な授業を受け、放課後はまっすぐ家に帰る。失われた家族の影が色濃く残る家で、祖父母と当たり障りのない会話をし、自室に籠る。

 それは十年前に時間が止まって以来、繰り返されてきた、灰色のルーティン。

 右の手の甲に淡く浮かぶ紋様だけが、あの夜の出来事が夢ではなかったことを、静かに主張していた。

 しかし、水面下では、確実な変化が起こっていた。まるで、静かな湖の底で、未知の水脈がゆっくりと湧き上がり始めているかのように。

 最初に気づいたのは、音に対する過敏さだった。

 いや、正確には音ではない。

 それは、人々の内側から発せられる、声にならない『感情』の響きだった。

 満員電車の中。

 湿った空気と人の体温が充満する閉塞的な空間で、それは耐え難いほどのノイズとなって真白を襲った。

 隣に立つサラリーマンの、締め切りに追われる焦燥感。

 つり革に掴まる老婆の、膝の鈍い痛みと倦怠感。

 スマートフォンに見入る女子高生の、友人関係への不安と苛立ち。

 それらが、不協和音のコーラスのように、真白の意識の中に直接流れ込んでくるのだ。それは、ただ「そう感じられる」という曖昧なものではなく、まるで他人の日記を勝手に読まされているかのような、あるいは、他人の頭痛や胸のざわめきを、自分のことのように追体験させられているような、生々しく、不快な感覚だった。

 頭が重くなり、吐き気を覚える。

 視線を合わせるのが怖くなり、自然と俯きがちになる。

 人の集まる場所が、まるで地雷原のように思えた。

 自宅に帰っても、安らぎは訪れなかった。

 リビングのテレビで流れていたニュース。

 それは、高速道路での多重事故を報じるものだった。

 画面に映し出された、無残に歪んだ車の残骸。アナウンサーが淡々と読み上げる死傷者の数。その瞬間、真白は息を呑んだ。

 テレビ画面の向こう側から、まるで津波のように、強烈な感情の波が押し寄せてきたのだ。事故で家族を失った人々の、身を引き裂かれるような悲嘆。一瞬にして未来を奪われた被害者の、深い絶望と後悔。

 それは、これまで感じてきた日常的な悩みや疲労感とは比較にならない、圧倒的な質量と鋭利さを持った、純粋な『苦しみ』の奔流だった。


 ◆


 数日間、真白は極力人と関わるのを避け、部屋に閉じこもりがちになった。

 しかし、完全に感情のノイズを遮断することはできない。

 隣の家から聞こえてくる夫婦喧嘩の怒り、階下の祖母の微かな体調の不安。世界は、人間の感情で満ち満ちているのだと思い知らされた。

 転機が訪れたのは、ある雨上がりの午後だった。

 気分転換にと、近くの公園を散歩していた時、遊具の近くで小さな女の子がしくしくと泣いているのを見つけた。傍らには、母親らしき女性が困ったような、少し苛立ったような表情で立っている。

「もう、いつまで泣いてるの! ただ転んだだけでしょ!」

 母親の言葉は、女の子の悲しみをさらに深くしているようだった。

 女の子は、擦りむいた膝小僧をさすりながら、しゃくり上げている。その小さな背中から伝わってくるのは、膝の痛みだけではない。母親に叱られたことへの悲しさ、自分の不注意への後悔。

 そして、「分かってもらえない」という切ない孤独感だった。

 その瞬間、真白の心に、強い衝動が突き上げた。

(この子の悲しみを、止めてあげたい……)

 それは、理屈ではなかった。

 ただ、目の前の小さな存在が発する純粋な悲しみに、真白の心が強く反応したのだ。気づけば、真白は女の子の前にそっとしゃがみ込んでいた。

「どうしたの? 痛かったね」

 真白は、できるだけ優しい声で話しかけた。女の子は、涙で濡れた瞳で、いぶかしげに真白を見上げる。

 真白は、女の子の小さな膝に視線を落とした。

 赤く擦りむけた傷口。

 そこから発せられる、チリチリとした痛みの感覚と、心の悲しみが混じり合った波動が、真白に伝わってくる。

(この痛みを、この悲しみを、少しでも……)

 真白は、無意識のうちに、女の子の膝の傷と、その奥にある心の痛みに、意識を強く集中させた。

 まるで、ピンポイントでその感情の源に触れるかのように。

 そして、念じた。

「痛いの、痛いの、飛んでいけ……。なんて、おまじないだけど……少しだけ、その痛みを、私に分けてくれないかな?」

 その瞬間、奇妙な感覚が真白を襲った。

 自分の指先から、何か目に見えないエネルギーが流れ出て、女の子の悲しみの波動に触れ、それを磁石が砂鉄を引き寄せるように、自分の中へと吸い寄せ始めたのだ。

 女の子の膝から感じられたチリチリとした痛みと、心の悲しみが、自分の胸の中へと流れ込んでくる。

 それは、先日のニュースで感じたような圧倒的な奔流ではなく、もっと細く、しかし確かな流れだった。

 胸の奥に、ずん、とした重みが加わる。

 他人の痛みを引き受けた、確かな感触。

 しかし、それと同時に、女の子の表情が、ふっと和らぐのが分かった。しゃくり上げていたのが収まり、涙で濡れた瞳が、きょとんと真白を見つめている。

「……あれ? あんまり、痛くない……かも?」

 女の子が、不思議そうに呟いた。

 母親も、娘の変化に気づき、驚いたように目を見開いている。

(できた?)

 真白は、自分の右手の甲を見た。

 紋様が、気のせいか、少しだけ温かいような気がした。

(他人の負の感情を、自分が引き受けることで、和らげる力……。これが、《共感の波紋》)

 真白は、女の子の涙が少し収まったのを見て、安堵の息を漏らした。

 しかし、視線を上げると、傍らに立つ母親の姿が目に入った。その表情は、先程よりもさらに複雑な色合いを帯びている。

 娘の突然の変化に対する困惑、見知らぬ少女である真白への警戒心。

 そして、まだ完全に消え去ってはいない、娘が泣き止まないことへの苛立ちと、わずかな自己嫌悪のような感情。それらが、不安定なモザイク模様のように彼女の顔に浮かび、眉間には深い縦皺が刻まれていた。

(このお母さんも、きっと辛いんだ)

 真白には、その母親の心の揺らぎが、まるで肌で感じる空気の振動のように伝わってきた。子供を心配する気持ちと、自分の感情をコントロールできないもどかしさ。

周囲の目に対する気まずさ。

 それらが彼女の中でせめぎ合い、重苦しいオーラとなって周囲に漂っている。

 真白は一瞬ためらった。

 他人の心に、それも本人の同意なく介入することへの倫理的な抵抗感。

 自分の力が、相手にとって本当に良い影響を与えるのかという不安。

 しかし、母親の眉間の皺の深さが、彼女の内面の苦しさを物語っているように思えた。母親の心が穏やかになれば、それはきっと、この小さな女の子のためにもなるハズだ。

(……ほんの少しだけ。荒れた水面を、撫でるように……)

 真白は、再び意識を集中させた。

 今度は、女の子の母親に向けて。

 彼女の心を覆う、棘々しい感情のベールに、そっと指先で触れるような感覚。

 目を閉じると、母親の内面から発せられる感情の波が、より鮮明に感じ取れた。

 それは、短く尖ったノイズのようであり、重く淀んだ低周波のようでもあった。


『どうしてこの子は泣き止まないの? 周りの人が見てるじゃない』

『でも、強く言い過ぎたかも……。あんなに泣かせちゃって』

『この子(真白)は一体誰? 何か変なことされないかしら……』


 断片的な思考や感情のさざ波が、真白の意識の縁を洗う。

 それらは決して、真白自身が抱く類の感情ではない。

 しかし、《共感の波紋》は、それらをあたかも自分の内側から湧き上がってきたかのように、生々しく感じさせた。

 真白は、その複雑に絡み合った感情の糸の中から、特に強く彼女を苛んでいるであろう「苛立ち」と「不安」の波動に焦点を定めた。

 そして、ゆっくりと、息を吸い込むように、その波動を自分の中へと引き寄せるイメージを描いた。

 それは、濁った水をフィルターで濾過するように、あるいは、絡まった糸を一本一本丁寧に解きほぐしていくような、繊細な作業だった。

 母親の苛立ちが、チリチリとした静電気のように真白の神経を逆撫でする。

 不安感が、冷たい霧のように胸の中に広がる。

 真白は、その不快な感覚に耐えながら、力を慎重に送り続けた。他人の感情を引き受けるという行為は、相手の心のゴミ箱を漁るような側面もあるのかもしれない。そんな考えが、ふと頭をよぎった。

 数秒、あるいは十数秒だっただろうか。

 真白がそっと目を開けると、母親の表情に、微かだが確かな変化が起きていた。

 あれほど深く刻まれていた眉間の皺が、ふっと和らいでいる。

 肩から力が抜け、強張っていた口元が、わずかに緩んでいる。

 真白や娘を見る目に、先程までの鋭さが消え、代わりに戸惑いと、ほんの少しの安堵のような色が浮かんでいる。

 まるで、ずっと鳴り響いていた不快なサイレンが止み、訪れた静寂に耳を澄ませているかのようだ。

 母親は、はっとしたように自分の胸元に手を当て、小さく息をついた。

 母親の元に、娘が寄っていた。

 彼女は娘に向き直ると、先程とは打って変わって、穏やかな声で話しかけた。膝をおろし、娘と同じ視線に向き合う。

「……大丈夫? ごめんね。お母さんが悪かったわ」

 その声には、もう苛立ちの響きはなかった。

 娘を気遣う、本来の母親らしい温かさが戻ってきている。

 真白は、その変化を目の当たりにして、改めて自分の力の存在を実感した。

 恐ろしさと同時に、確かに誰かの役に立てたという、小さな、しかし確かな手応えを感じていた。

 だが、母親から引き受けた苛立ちや不安の残滓は、まだ真白の心の中に重く沈殿している。

 確信した。

 自分には、他人の感情に干渉し、それを和らげる《力》が備わったのだと。

 《力》の存在を認識した瞬間、真白の心には、恐怖と戸惑い。

 そして、ほんのわずかな高揚感が入り混じった複雑な感情が渦巻いた。

 これで、誰かを助けられるかもしれない。あの日のような無力感を、もう味わわなくて済むかもしれない。そんな希望の光が見えた気がした。

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