第4話(終) 消えゆく温もり

 昼休みの喧騒が、耳障りなBGMのように教室を満たしていた。

 その中で、窓際の席に座る佐伯美緒みおの姿だけが、時が止まったかのように静止していた。

 いや、机に突っ伏した彼女の背中は、声を押し殺した嗚咽で小刻みに震え、床には涙の染みが静かに広がっていく。

 周囲の生徒たちの視線は、まるで透明な壁があるかのように彼女を避け、その無関心は美緒の孤独をさらに深くしていた。

 真白は、その光景から目を逸らせなかった。

 美緒を苦しめる陰湿ないじめの存在を知っていたからだ。リーダー格の女子たちが中心となり、無視や悪口、持ち物隠しが繰り返され、教師や他の生徒たちは見て見ぬふりをしている。

(また、同じだ)

 真白の脳裏に、あの忌まわしい踏切の光景と、何もできなかった自分の無力感が蘇る。「誰も悲しんでほしくない」。その切実な叫びが、彼女を異界の存在アルマとの契約へと導いたのだ。

 右手の甲の紋様が微かに熱を帯びる。

 《共感の波紋》。

 人の心の痛みを感じ取り、和らげる力。これを使えば、美緒を助けられるかもしれない。

 しかし、真白はためらった。

 かつて教わった心理ケアの基本。「見立て」のためにはまず「聴く」ことが不可欠だ。《力》は薬のようなもの。無理やり使うのではなく、相手の意思を尊重すべきだ。力に頼る前に、まずクラスメイトとして彼女の声に耳を傾けよう。

 逡巡する間にも、美緒の背中は絶望的に震えている。

 時間がないかもしれない。

(大丈夫。《力》は補助として。まずは、ちゃんと話を聴こう)

 真白は静かに席を立ち、美緒の隣の空席に腰を下ろした。

 周囲の好奇の視線は無視した。

「佐伯さん」

 穏やかに呼びかけると、美緒の肩がびくりと跳ねた。

 顔は伏せたまま、嗚咽を堪える息遣いが痛々しい。

「何か、あったの?」

 ありきたりな言葉だが、真白は急かさず、美緒が口を開くのを待った。

 沈黙が流れる。

 真白は呼吸を整え、意識を美緒に向けた。

 言葉だけでなく、彼女が発する空気、微細な動き、そして――心の波動に。

 ここで、真白は《共感の波紋》を微かに発動させた。

 聴診器のように、あるいは高感度のマイクのように、美緒の心の状態を探るためだ。

 力は、心の壁をこじ開けるのではなく、表面にそっと触れ、漏れ出す感情の断片を捉える。


(…悲しい。苦しい。悔しい。そして、深い、深い孤独感…)


 流れ込む感情の奔流は、真白自身のトラウマと共鳴し胸を締め付ける。

 だが、それに飲み込まれず意識を保った。

 言葉にならない美緒の心の叫びを「見立て」ようとした。

 やがて、美緒が顔を伏せたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。

「……教科書、隠されて。私が、みんなの輪を乱してるって。誰も、信じてくれなくて……」

 途切れ途切れの言葉には棘のような痛みが伴う。

 真白は静かに頷き、相槌を打ち、話しやすいように促した。

 《共感の波紋》が捉える感情の波と、美緒の言葉が一致していく。

(いじめそのものも辛いけど、それ以上に信じていた友達の裏切り、誰も助けてくれない絶望感、自分が悪いと思い込まされている無力感……。これが、彼女を苦しめている核なんだ)

 真白は「見立て」を深めた。

 彼女の心は否定的な感情の巨大な嵐。

 その中心にあるのは、凍てつくような『孤独』と『無力感』だ。

 まず、この感情の嵐の中心を鎮めることが必要だ。感情が安定しなければ、どんな言葉も届かない。

「辛かったね…」

 真白は心からの共感を込めて言った。

「佐伯さんは、何も悪くないよ。絶対に」

 その言葉に、美緒の嗚咽が一層激しくなった。

 肯定され、溜め込んだ感情のダムが決壊したのだ。涙がとめどなく溢れる。

(今だ…)

 真白は右手の甲の紋様に意識を集中させた。今度は介入するためだ。《共感の波紋》。

(――あなたの、その凍えるような孤独と無力感を、ほんの少しだけ、私に引き受けさせて。大丈夫、壊したりしない。ただ、嵐が静まるまで、その重荷を、少しだけ、一緒に持つから)

 真白は、美緒の心の嵐の中心――孤独と無力感の核――に向けて、力を静かに。

 しかし、集中的に注ぎ込んだ。

 瞬間、真白の胸に、冷たく重い鉛のような塊が叩きつけられる。

 美緒の絶望的な孤独感と無力感の奔流。自分が世界から切り離されたような感覚。手足が痺れ、呼吸が浅くなる。同時に、美緒が経験したであろう屈辱的な場面や冷たい視線、裏切りの言葉が生々しく流れ込んでくる。

 痛い。

 苦しい。

 息が詰まる。

 しかし、真白は耐えた。

 感情は麻痺していても、この痛みの「意味」は理解できた。

 この痛みを引き受けることで美緒の心が少しでも軽くなるなら、と。

 かつて何もできなかった自分への、ささやかな贖罪のように。

 力を注ぎ始めてから十数秒ほど。

 美緒の激しい嗚咽が次第に静まっていく。

 肩の震えが収まり、呼吸がゆっくりと深くなる。

 彼女の心の中の嵐が急速に凪いでいく気配がした。

 問題が消えた訳ではないが、感情の濁流に飲み込まれていた状態からは抜け出しつつあった。

 美緒はゆっくりと顔を上げた。

 泣き腫らした目はまだ潤んでいたが、絶望の色はなく、戸惑いとかすかな安堵が浮かんでいた。

「……あれ? なんだか……急に。胸のあたりが、少しだけ、軽くなった、ような……?」

 彼女は不思議そうに自分の胸に手を当てている。

 真白は穏やかな表情を保ち、優しく声をかけた。

「うん、少し落ち着いたみたいで良かった。深呼吸してみて」

 美緒が深呼吸を繰り返すと、表情がさらに和らぐ。

 感情が安定し、思考する余裕が戻ってきたようだ。

「たくさん泣いたからかもね」

 真白は能力のことは伏せ、話を続けた。

「でも、苦しい状況は変わらない。これからどうしたいか、少し話せるかな?」

 ここからが、真の「聴く」作業であり、現実的なケアの始まりだった。

 真白は美緒の言葉を丁寧に拾い上げ、共感を示し感情は伴わなくても、理解し、寄り添う姿勢を見せ、状況を整理していく手助けをした。


「佐伯さん自身は、これからどうなって欲しいと思ってる?」

「一人で立ち向かうのは大変だと思う。でも、佐伯さんは一人じゃないよ。私にできることがあれば、いつでも言ってほしい」


 一方的なアドバイスではなく、質問を通して美緒自身の考えを引き出す。

 感情がある程度整った今、美緒は以前よりも冷静に状況を捉え、自分の気持ちを言葉にできていた。

 「見立て」に基づき、真白は美緒の思考を整理し、具体的な行動へと繋げる橋渡しをしていく。

 やがて、美緒は顔を上げ、涙の跡が残る頬にかすかな笑みを浮かべた。

「……ありがとう、柊さん」

 その声はまだ弱々しかったが、芯のある響きを持っていた。

「なんだか、すごく……楽になった。それに、何をすればいいか、少しだけ、分かった気がする」

 美緒が見せた笑顔は、雨上がりの虹のように儚くも希望に満ちていた。

 心からの感謝が伝わってくる。その純粋な感謝の光を浴びて、真白の心は――空虚だった。


「ありがとう」


 という言葉の温もりも、美緒の笑顔がもたらすはずの喜びも、何も感じない。ただ、頭の中で「感謝されている」という事実が認識されるだけ。美しい音楽を聴いても感動しないかのように。

(これが、代償……)

 真白は改めてその事実を突きつけられた。

 誰かを救う力を得た代わりに、人間らしい温かい感情を受け取る能力を失っていく。

 人を助ければ助けるほど、孤独になる。

 その矛盾の重さに眩暈すら覚えた。

 美緒の笑顔が、少しだけ遠く、色褪せて見える。

 それでも、真白は美緒に向かって、精一杯の笑顔を返した。

 作り笑いだ。

 自分の心がどうであれ、目の前の友人が一歩を踏み出す手助けができたのなら、それでいい。

 今は、そう信じるしかなかった。

 右手の甲の紋様が静かに疼く。

 初めて本格的に振るった異界の力。

 それは確かに、一人の少女を深い絶望の淵から救い上げた。

 しかし、その代価として、真白自身の魂は、静かに、確実に、人間らしい輝きを失い始めていた。

 頭では「感謝すべきことだ」と理解していても、心が全く追いつかない。

 まるで、自分と世界の間に薄いガラスが挟まったようだ。

 世界から、色が失われていく感覚。

 この力の本当の意味も、この先に待つ道の険しさも、真白はまだ知らない。

 ただ、人を救うことの確かな手応えと、失っていくものの計り知れない冷たさだけを、その身に深く刻み始めていた。

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