第2話 異界の扉

 その日、真白はクラスメイトの少女が影で泣いているのを見た。

 原因は、数人の仲良しグループからの、無視だった。

 誰もが気づいているのに、見て見ぬふりをしている。教師さえも、面倒事を避けるように曖昧な態度をとるだけだ。込み上げてくる怒りと、何もできない自分への苛立ち。胸の奥が、ぎりぎりと軋むような痛みを覚える。


「どうして、誰も助けてあげないの? 悲しいのは、嫌なのに……」


 無意識に呟いた言葉が、引き金になったのかもしれない。

 家に帰り着き、自室のドアを開けた瞬間、真白は息を呑んだ。

 そこは、いつもの自分の部屋ではなかった。

 壁紙は色褪せ、所々にひび割れが走っている。

 窓の外は、分厚い灰色の雲に覆われ、冷たい雨がガラスを叩いていた。

 部屋の中央には、古びた木製の机と椅子がひとつ。

 唯一、机の上に置かれた小さなランプだけが、か細くも温かな光を放っていた。

「ここは?」

 混乱する真白の前に、ゆらり、と影が形を結んだ。

 それは、特定の形を持たない、真っ黒な闇の塊のようだった。

 黒い炎のような輪郭を持つ揺らめきの中に、無数の瞳が浮かんでは消える。

 恐怖を感じるはずなのに、不思議と魅入られるように目が離せなかった。

 やがて、瞳の一つがじっと真白を見つめたまま、囁かれた。


〝お前の望みはなんだ〟


 声が、直接頭の中に響いた。

 男でも、女でもない。

 老人のようでもあり、子供のようでもある、不思議な響きを持つ声。

「……誰?」

 真白は問う。


〝我か?  我らは名を持たぬ。しいて呼ぶならば、《寂寥せきりょうを灯すもの》とでも呼ぶか。その存在――アルマと名乗ることにしよう〟


 ――は、静かに告げた。

 アルマ(alma)。

 スペイン語で「魂」、ポルトガル語、イタリア語でも「魂、霊魂、心」を意味する。

 ラテン語で「命・健康の源」「恵み」「養うこと、滋養を与える」を意味する言葉だ。


〝ここは契約ノ部屋。お前の心の写し鏡であり、異界への接点〟


 と。

「契約……?」

 真白は直感として危険なものを感じた。


〝お前の願い、『この世界の誰も、もう悲しんで欲しくない』。それを叶える《力》を与えてやろう〟


 アルマは続ける。


〝だが、《力》には必ず代償が伴う〟


「代償……」

 真白は呟いた。

 家族を失ったあの日から、もう失うものなど何もないと思っていた。けれど、この存在が提示するものは、もっと根源的な何かである気がした。


〝汝が差し出す代償は、『感謝』。他者からの感謝を受け取る心、そして汝自身が抱く感謝の念。《力》を振るうたび、それは汝の中から失われていく〟


 感謝。

 当たり前のように感じていた、温かい感情。

 それがなくなる?

 真白は一瞬ためらった。けれど、脳裏に浮かんだのは、泣いていたクラスメイトの顔。

 そして、あの日の家族の笑顔だった。

 もう、誰も悲しませたくない。

 自分のように心に傷を負った人を助けたい。

 その一心で、真白は顔を上げた。

「……それでも良い。私、契約します」

 その言葉と共に、部屋の中央のランプの光が強く瞬いた。アルマの影が揺らめき、真白の体をするりと通り抜けるような感覚があった。


〝契約は成立した、柊真白。お前の願いの道行きを、我らは見届けよう。《力》の名は《共感の波紋》〟


 声が遠のいていく。

 気がつくと、真白はいつもの自分の部屋の床に座り込んでいた。

 窓の外は、先ほどまでの雨が嘘のように晴れ上がり、夕日が差し込んでいる。

 夢だったのだろうか?

 しかし、右の手の甲に、見慣れない小さな紋様が淡く光っていることに気づいた。それは、枯れた花にも、灯火にも見える、不思議な形をしていた。

 胸の奥に、今まで感じたことのない、不思議な感覚が芽生えているのを感じた。

 誰かの心の痛みが、微かな波のように伝わってくるような……。

(これが、力……?  そして、代償…?)

 真白は、まだ実感の湧かないまま、手の紋様を見つめていた。

 これから自分が歩む道が、どんなものになるのか、想像もつかないまま。

 ただ、「誰も悲しまない世界」への、か細い希望だけを信じていた。

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