第4話
本来であれば嬉しい事のはずなに、今の僕にとっては悲しい結果を医者に聞かされる事になった。
元々僕がこの病院に入院したのは、胃潰瘍が酷くそれが悪性であるかどうかの検査入院だったのだが、結局僕の胃潰瘍はただの胃潰瘍であり、入院中に規則正しい生活をしていた事と、投与された薬のお陰で胃潰瘍はすでに問題のないレベルまで回復していた。
それが何故悲しいのかというと、それはもちろん由衣という存在が僕の中で大きなものになっていたからだ。
由衣に退院を告げるのは二重の悲しみを乗り越える事になる。
第一に、僕自身が由衣との、ささやかな幸せとも言える楽しい時間を失ってしまう事。
そしてもうひとつ。
本当はお母さんと一緒に家に帰りたいと願いながら、それが叶わずにいる彼女に対して、僕は家に帰る事が出来るという事実を告げなければいけない事だ。
退院するという事がこんなにも辛い経験になるなんて事を、入院する時はこれっぽっちも考えていなかった。
人間万事塞翁が馬というが、何が幸いとなり、何が不幸となるかなんて事は本当に分からないものだ。
それでも僕は由衣に何も告げずに退院する事は出来ない。
重い気持ちを奮い立たせ、鉄の塊になったかの如く感じる重い足を引きずるようにして由衣の病室に向かった。
由衣の病室の前。いつものようにドアは開いたままだ。
しかし、由衣のお母さんにお願いされて初めて病室に来た時に感じた、異世界へ繋がる空間の入口のような違和感はすでに無い。
だが今回は、イエスがその背に十字架を背負い、ゴルゴダの丘を登った時はこの様な心境だったのではないかと思ってしまう程の心の重さを感じていた。
それでも由衣のいる病室の中へ入った。
そこにはいつもと同じ子供の心を癒す為に飾り付けられた病室と、その風景にはそぐわないクリーム色の無機質な鉄で作られたベッドあり、そのベッドの横に座る由衣のお母さんと、ベッドに横になりながらスマホでゲームをしている由衣がいた。
「由衣、おはよう」
何と声をかければいいのか分からず、思わず口からでた言葉はいつもと同じ挨拶だった。
「あ!お兄ちゃん。おはよう。遊びに来てくれたのね」
手にしていたスマホを放り出し、笑顔で僕に挨拶を返す。
同じように由衣のお母さんも座っていたイスから立ち上がり、僕に挨拶してくれた。
「どうぞ座ってください」
由衣のお母さんがもう一つあるイスを僕の方へ差し出してくる。
「あ、ありがとうございます。失礼します」
とりあえず差し出されたイスに座った。
「由衣、何してたの?」
「今ね、スマホのゲームしてたの。もう少しで最高得点でるとこだったんだよ。もぉー。お兄ちゃん来るタイミング最悪ぅーー」
「まじか!それは悪い事したな。もう少し遅く来れば良かった」
その会話を聞いていた由衣のお母さんが笑って言った。
「いいんですよ。さっきからこの子、お兄ちゃん来ないなぁ。何してるのかなぁ。遊びに行ってみようかなぁ。ってずっと言ってたんですから」
「そんな事ないもん!由衣、ゲーム頑張ってたんだから!」
少し頬を膨らませてお母さんに文句を言う由衣の表情が可愛かった。
「このゲーム面白いんだよ」
由衣が僕にゲームの説明を始めた。
どうやら同じ絵柄のピースを最低3個以上繋げて消していき、点数を競うゲームのようだ。
目を輝かせながら、いかにこのゲームが面白いのかを熱弁している由衣に僕は頷き、相槌を打ちながらも心ここにあらずの心境だった。
退院する事をどう伝えればいいのか。タイミングが見当たらない。
不意に由衣の方から質問してきた。
「お兄ちゃんどうしたの?さっきからなんか様子が変だよ。…嫌な事でもあったの?」
僕の空っぽな返事を由衣は敏感に感じたのかも知れない。
ちょっと言葉に詰まったが、正直に話した。
「由衣、お兄ちゃんさ。検査の結果がでて、もう大丈夫らしくて。…明後日退院する事になったんだよ」
そう言いながら、僕は思わず下を向いた。
きっと由衣は悲しそうな表情を浮かべているに違いない。
心苦しい沈黙が流れる。
「お兄ちゃん…」
僕を呼ぶ由衣の声。このまま下を向いていても仕方ない。
思い切って顔を上げた。由衣が僕を見ている。
その顔は悲しみの表情ではなく、予想に反して喜びを表す満面の笑みだった。
「ホント⁉お兄ちゃん病気治ったの⁉良かったね!由衣、凄く嬉しい!」
由衣は手を叩きながら、ベッドの上でぴょんぴょんと飛び跳ね、体全体で喜びを表現している。
そしていきなり僕に抱きついた。
「お兄ちゃん良かったね。病気治って良かったね。退院おめでとう」
それを心から言ってくれているのが僕には分かった。
その分、僕の心はますます切なくなる。
本当は由衣自身が一番退院したいはずなのに。
にもかかわらず、僕の退院を心から喜んでくれている由衣の純粋さに涙が出そうになる。
僕も由衣をしっかりと抱きしめ、必死に涙を堪えながら深呼吸をひとつする。
「でもお兄ちゃん、由衣に会えなくなるのは寂しいから、これからも由衣のお見舞いに来てもいいかな?」
「ほんと?お見舞いに来てくれるの?由衣に会いに来てくれるの?」
ますます目を輝かせて由衣は僕に問いかける。
「本当だよ。約束する」
そう言った僕の顔を、由衣はさっきまで見せていた笑顔を消し、真剣な目でじっとみつめた。
その真剣な目に少したじろぎ、何も言えずに僕も由衣をじっと見つめた。
「…絶対だよ?本当に絶対だよ?約束守ってくれなかったら…由衣、泣いちゃうからね」
言われた僕の方が泣きそうになる。
今すぐ言葉を発したら、嗚咽が漏れそうだ。
だから僕は歯を食いしばりながら、真剣な表情で由衣を見つめ返し、一息ついてから答えた。
「絶対に由衣を泣かせない。約束は必ず守る」
由衣がまた嬉しそうな笑顔を見せる。
「じゃあ指切りして。絶対に由衣に会いに来てくれる約束だよ」
「もちろん!」
大きな小指と小さな小指がしっかりと絡み合う。
「ゆ~びきりげんまん、嘘ついたら針千本の~ます!」
指切りした後、由衣は子供らしい笑い声をあげた後、僕に由衣がやっていたパズルゲームの説明を始め、よく分からないうちに、僕はそのゲームをスマホにダウンロードさせられる事になった。
二日後。僕は退院した。
由衣はお母さんと一緒に、僕を出口まで送ってくれた。
「倉持さんには本当にお世話になりました。ありがとうございます。お蔭様でこの子も寂しい思いをせずにすみました」
由衣のお母さんが深々と頭を下げる。
「いえ、僕の方こそ由衣ちゃんのお陰で、言い方はおかしいかもしれませんが入院生活が楽しかったですよ」
そう言って、僕は頭を下げ返した。
「お兄ちゃん、由衣と一緒にご飯食べられなくなるからって不規則になっちゃダメよ?そんな事してたら、またお腹痛くなるんだからね!」
相変わらず大人びた言い方で僕を諭す。
「分かってます、由衣先輩。じゃあお兄ちゃん行くよ。由衣も頑張って早く退院できるように祈ってるぞ」
手を振って踵を返そうとした僕に、由衣は突然走ってきて抱きついた。
「お兄ちゃん…絶対由衣に会いに来てね。絶対約束守ってね…。由衣、待ってるからね…」
しがみついた由衣の目は涙で潤んでいた。
「大丈夫。必ず由衣に会いに来るから。だから、由衣も頑張るんだぞ…」
涙を流さないようにと思っていたのに。
僕は涙を禁じえる事が出来なかった。
慌てて涙を手の甲で擦ってから、無理に作った笑顔を由衣に向けて頭を撫でた。
「お兄ちゃんを困らせちゃダメよ。笑顔でお祝いしてあげましょうね」
そう言ったお母さんと手を繋ぎ、由衣は泣き笑いの表情を浮かべたまま、僕が見えなくなるまで手を振っていた。
僕も何度も何度も振り返りながら手を振り続けた。
由衣とお母さんの姿を見えなくなった後、僕はもう振り返る事をやめて前を向き、夕焼け小焼けを歌いながら一人家路についた。
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