第3話
由衣の病気を聞いたせいだろうか。
病室のドアを開けたままにしてあるその空間が、異世界へ繋がるトンネルの入り口であるかのような奇妙な不安感を覚え、そのぽっかりと開いた病室の中へ繋がる空間の前で思わず足が止まった。
そんな僕の気持ちには気づかない由衣のお母さんは、僕が恐怖を覚えた異世界との境界に当たり前に踏み入り、由衣に声をかけた。
「由衣、倉持のお兄さんが会いに来てくれたよ」
お母さんのその声に背中を押されたように、僕は境界線を越えた。
僕が足を踏み入れた病室は異世界ではなかった。
最近の病院、とくに小児科は小児の心に負担をかけないように白一色だけの無機質な空間ではなく、壁の色がピンクに塗られていたり、子供に人気のキャラクターが飾られたりしている。由衣が入院している病室も、ともすれば可愛らしいホテルでもあるかのような作りだった。
ただ、そうであったにも関わらず、僕はやはり異世界への境界線を越えてしまったような気分にもう一度落ち込んだ。
「…おにいちゃん」
明るく飾られた楽しげな病室の中で、僕に視線を向けて声をかけた由衣の姿は、その空間に置かれた異物のように白くくすんだ色をしていた。それは僕にとって、あまりにも悲しいコントラストに見えた。
「由衣、お母さんに誘ってもらって遊びにきたよ」
そう言った僕を見て由衣は微笑んだが、胸が激しく上下していて、呼吸が苦しいであろう事は素人の僕にも一目瞭然だった。
それなのに由衣は微笑んで僕に言った。
「お兄ちゃん、やっぱり会いに来てくれたのね。…由衣と一緒にご飯食べれなくて寂しかったんでしょ」
苦しそうな息遣いのくせに、由衣は僕にその苦しさを隠そうとするかのごとく、いつものオマセな口調で話しかける。
「そうだよ。由衣が一緒にご飯食べてくれないと寂しくてさ。最近少し痩せちゃったよ。早く具合が良くなって欲しいな。そしたらまた一緒にご飯食べよう」
すると由衣は一度大きく深呼吸をしてからニッコリ笑った。
「しょうがないわねぇ。すぐに元気になるから。そしたらまた一緒に遊んであげるし、一緒にご飯も食べてあげるから。もう少し我慢して待ってて?」
僕は由衣の浮かべている微笑みに微笑みを返し、その頭を撫でてやる事しか出来なかった。
それからしばらくして、どうにか由衣の体調は回復にむかった。
前と同じようにホールで夕食を食べながら、他愛もない話をして由衣との時間を過ごせるようになった。
どうしてなのだろう。
僕は自分の心の動きに驚きを覚えていた。
以前も食事の時間を由衣と意味のない話をしながら過ごす事に理由もない癒しを感じていたのだが。
由衣の病気を知ったせいなのか。それとも何か他の理由のせいなのか分からないのだが、夕食を二人で過ごす時間が自分にとって欠かすことの出来ない大切な時間だと感じるようになった。
何気ない会話の中で、由衣は僕に色々な話をしてくれた。
病気のせいであまり学校には行けないのだが、薬のお陰で体調が良くなって先生の許可が出て退院し、久しぶりに学校に行くと仲の良い友達が集まってくれて、沢山楽しいお話や大好きな遊びが出来る事。
勉強が嫌いだという友達も沢山いるけど、学校で沢山の友達と一緒に勉強できるのが由衣にとっては最高に嬉しいのだという事。
退院出来て学校に楽しく通っている由衣の事を、本当に幸せそうな笑顔で見つめてくれるお母さんが大好きな事。
けれど人間で一番好きなのはお母さんだけど、食べ物の中ではイチゴ味のチョコレートが一番好きなのだそうだ。
それから由衣は大きくなったらお花屋さんになりたいとも言った。
夕食の時間の度に、由衣は本当に嬉しそうに沢山の話を僕にしてくれた。
そんな風に由衣が数々話してくれた中で、僕の心を深く抉った言葉がある。
それはある日の夕方。
ホールでの食事を終えて食器を所定の場所に戻した後、僕の病室でもう暫く遊んで行くと言っている由衣を先に病室に行かせておき、僕は小用の為にトイレに立ち寄った。
トイレで用を足し病室に戻ると、由衣は病室の窓の所に立ち、赤く染まった空を見つめながら夕焼け小焼けを歌っていた。
その姿は僕がこの病院で初めて由衣を見た時と同じように、美しくも悲しい一枚の絵だった。
「由衣は本当にその唄が好きだね」
夕焼け小焼けを歌い終わった由衣に話しかける。
しかし由衣は僕の方に目を向けず、赤く染まった空を見たまま小さな声で呟いた。
「お兄ちゃん。由衣の本当の夢はね。…お家に帰る事なの。ちょっと体調が良くなったからって、ほんの少しだけ退院する事じゃなくて。もう病院に戻ってくる必要がないぐらい元気になって、お母さんと一緒にお手てを繋いでお家に帰る事なの。…由衣、いつか本当に元気になって、お母さんとお手てを繋いでお家に帰れるのかな?」
何も言葉に出来なかった。
僕はともすれば溢れそうになる涙を堪えるのが精いっぱいだった。
何の罪もない小さな女の子の心からの夢。
それは『お母さんと一緒に手を繋いで家に帰りたい』という、普通であれば簡単に叶う当たり前の日常だった。
この世に神様が存在するなら、そんな当たり前で簡単な夢を叶えてあげようとしない神様に無性に腹が立ち、その横っ面を張り倒してやりたい衝動に駆られた。
「大丈夫。由衣は必ず元気になる。絶対にお家に帰れるよ」
「本当に?本当に由衣はお家に帰れる?」
「うん。本当に。絶対に帰れる。お兄ちゃんが約束する」
本当に神様が目の前にいたら、例え地獄に落とされる事になっても、その横っ面を思いっきり張り倒しただろう。
けれどその時、由衣に対して僕がしてやれたのは、絶対に家に帰れるという小さな嘘をついてやる事だけだった…。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます