第5話

「ただいま」


 玄関のドアを開け、家の中に入る。

 退院したというのに、特に迎えにくる家族もいない。

 いや、家族がいない訳ではないのだが、誰も迎えに来はしない。

 もしも今日退院すると連絡していたとしても、誰も迎えに来る事は無かっただろう。

 多少の着替えを詰め込んだボストンバックを片手に靴を脱いでリビングに入る。

 ソファの上にボストンバッグを置き、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出してグラスに注ぐ。

 グラスを持ってソファに座り、ガラステーブルの引き出しを開けてテレビのリモコンを取り出して電源を入れる。

 少し間をおいてテレビに映像が映し出され、ワイドショーの司会やコメンテーターが本気なのか、適当なのか分からないコメントを言いながら、くだらない盛り上がりを見せていた。


 水を飲みながら、見るでもなくその番組を眺めていたが、ふと空腹感を覚えた。

病院を午前中に退院してきた為、昼食を食べていなかった事に気づき、立ち上がって冷蔵庫を開ける。

冷蔵庫の中は綺麗に整理されていて、沢山の食材があったが、元々料理なんてする習慣のない僕には、それを使って何かを作れる知識なんてものがなかった。

何かを作る事は簡単に諦め、その辺の戸棚を片っ端から調べていると、奇跡的にカップラーメンを見つけた。

家のキッチンにカップラーメンがあるなんて、珍しい事もあるものだと思いながら、早速お湯を沸かす為にヤカンに水を入れて火にかけ、フィルムを剥がしてカップの中からカヤクや粉末スープを取り出している時、このカップラーメンは入院前に自分が買っておいた物だと気づき、自嘲気味に薄笑いを浮かべた。

僕以外の家族が、カップラーメンなんて買うはずがないのだ。

お湯が沸くのを待つ間、またソファに座ってくだらない番組に目をやる。

暫くするとお湯が沸騰し、ヤカンから勢いよく湯気が立ち上った。

ガスレンジの火を止め、素手では持てない程に熱くなったヤカンの持ち手に乾いたカウンタークロスを被せるようにして持ち、カップの中に熱湯を注いだ。

リビングのガラステーブルの上にカップラーメンを置き、蓋が開いて隙間が出来ないように、まだ割ってない割り箸の先端をちょっとだけ開き、クリップのようにして蓋とカップの縁を挟んだ。

テレビ画面の右下には、常時時間が表示される設定になっているので、それで時間を確認しながら三分経過するのを待った。

テレビでは、議員が不倫しただの、芸能人が分かれただのと、どうでもいい話題で盛り上がっている。

それより、同盟国で親密な関係である大国が、日本の鉄鋼に輸入制限や高関税をかける事が決まった方が大変なニュースであると思うのだが、それを扱う時間は不倫や離婚に比べて極端に短い。

別に僕は愛国心溢れる人間ではないし、勉強熱心な人間でもない。

それどころか、特にやりたい事もなく、自分の人生に夢や目標を掲げる事すら出来ない、今時の青年を代表する無気力人間そのものなのだが、それでもワイドショーが取り上げる問題には疑問を感じていた。

玄関先でガチャリと音がして、間を置かずにドアの開く音がした。


「ただいま」


 母の声だ。

 僕の靴があるのを見て声をかけたのだと思う。

 靴を脱ぐ音と、ガサガサとビニールが擦れ合う音が交錯する。

 多分、買い物にでも出かけていたのだろう。


「あら、今日が退院だったの?だったら退院前に連絡ぐらいしなさい」

「別に母さんの手を煩わせる程の事じゃないと思ってね」

「そういう事じゃなくて、世間体ってものがあるでしょ。息子が退院するのに、家の人が誰も迎えに来ないなんて噂がたってみなさい。みっともないでしょ」


 そう。僕の家族は何においても世間体なのだ。

 しかし、それを言うなら、入院中に一度も見舞いにすら来ない家族はどう思われるのか。それを母さんは考えないのだろうか?


「なに?またカップラーメンなんて食べてるの?そんな卑しい物を食べるなんて止めなさい。人間にとって食はとっても大切なものなの。ファストフードなんて人間の食べる物じゃないわ。だから貴方も胃を痛めて入院なんかするのよ」


 そうじゃない。

 食べ物で胃を悪くしたのではなく、家庭環境におけるストレスのせいだ。

 そうは思ったが、何を言ってもこの家族達は僕の話や意見になんて耳を貸さない。

 僕が産まれた家は、僕の両親達は、子供を一個の人格として尊重する事はなく、我が子はつまり自分達の駒なのだ。

 僕はその駒にすらなれない存在であり、いわば落ちこぼれだ。

 この家族の中で僕は蔑まされ続け、しかし僕自身がそんな蔑みを跳ね返す程の目標や夢がなく、ただ淡々と生きながらも、周りからの重圧に苛まれ続けている。

 母に何も言葉を返す事無くカップラーメンを啜っていると、キッチンで料理しながらブツブツと言っている声が聞こえた。

 間違いなく、俺に対する文句を言いながら作業をしているのだろう。

 ラーメンの残りを急いで啜り、三分の一程残ったスープをキッチンのシンクに捨て、器をゴミ箱に捨てて自分の部屋に向かった。


「今日は亮のお祝いがあるから。お父さんも早く帰ってくるから、貴方も外出しないで家にいなさいね」


 自分の部屋へ向かう僕の背中に母が声をかける。

 それを無視して階段を上がって部屋へ向かった。


「まったくあの子は」


 半ば呆れ、半ば怒りを含んだ母の声が聞こえた。

 亮とは僕の兄である。

 二人だけの兄弟なのだが十三歳も歳が離れているせいか、それ程親密な関係ではない。

 なにせ僕が十歳の時に、彼はすでに二十三歳なのだ。

 例えば、自分が小学校一年生の時に出会う、最年長の小学校六年生は、一年生にとっては凄く大人な存在で、六年生の彼や彼女には声をかける事も出来ない程に遠い存在なのだ。

 先生は僕達を指導してくれる特別な存在であり、同じ学生でありながら、一年生と六年生は全くの別物。

 一年生からすれば、先生という僕らに優しく接してくれる遠すぎる存在は、逆に身近に感じるのだが。

 六年生という、僕等と同じ生徒という立場にありながら、五年も先を生きている存在というのは、いわば雲の上の存在であり、そうそう簡単に接する事が出来る相手ではない。

 家族でも同じだ。

 母や父は『親』であるのだから、先生に感じるような親しみはある。

 しかし同じ両親の子供である兄は、同じ両親の子供という立場でありながら、十三年という経験の差は如何ともしがたいものなのだ。

 両親や親戚からは、お兄ちゃんの亮は、歳の離れた僕の事をとても可愛がっていたと聞かされた。

 確かに僕自身も、幼い時によくかまってもらった事があるのは記憶している。

 ただし、それは良い記憶ではない。

 自転車に乗れるように訓練してもらった記憶。

 時計を読めるように教えてもらった記憶。

 学校の宿題を教えてもらった記憶。

 結局最後は、不器用で覚えも良くなく、頭の悪い僕を詰りながら暴力を振るわれた記憶にたどり着くのだ。

 そして兄に怒られ、暴力を振るわれた僕に対して、両親は兄を叱る事はせず、逆に僕の方が叱られた記憶しかない。


「お兄ちゃんは優秀なのに」

「亮くんは賢いのにねえ」

「なんでお前のような子が」

「お前が僕の弟だって事が恥ずかしい」


 両親、親戚、そして兄に言われ続けた言葉。

 ずっと…ずっと僕の心に突き刺さっている、決して抜けない棘なのだ。

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