04.儀式

「儀式……と呼ぶにはすこしばかり粗末な気もするんだけど……今の職場、へんな決まりごとがあって」

 元同僚の男性が、少しばつの悪そうな顔で話しはじめます。


「決まりごと?」

「うん。儀式とか、ルールとか、人によって呼び方は違うんだけど。たとえば――」


“朝の9時をまたぐ瞬間は、声を出してはいけない”

“西を向いて食事を摂ってはいけない”

“15時のチャイムが鳴っているときは、仕事の手を止めること”


「こんな感じ。こういうのが、いっぱいあるのよ」

「……なんだ、それ」

「意味、わかんないよね」

 彼は、苦笑しながら首をすくめます。


「みんなそう言うよ。俺だってそう思う。でも、理由を聞いても、誰も答えてくれない。ただ、『儀式だから』『ルールだから』って」

「……そんなの、誰が決めたんだよ」

「わからない。でも、昔からずっとあるみたい。同僚とか上司とか、聞ける人には一通り聞いたんだけどさ、誰も理由を答えられないんだよ。知らないのか、言えないのか、どっちだかわからないけど……それがまた、気持ち悪くてさ」


 怪訝な表情を浮かべる彼に、わたしは問いかけます。

「なんか嫌な話だな……でも給料いいんでしょ?」

「そうそう、だから辞めるに辞められなくてさ」

 

「で、ここからが本題なんだけど」

 お通しの枝豆をつまみながら、彼は語りはじめます。

「俺、一回この“儀式”を破っちゃったことがあってさ」


 * * *


 こんな非科学的な話、馬鹿馬鹿しい。でも、社内の空気に従わないと働きづらくなるのは明白だったから、とりあえずこれらの“儀式”を守ることにしていた。

 まあでも、この面倒なのさえ気にしなければ、給料もいいし定時にも上がれる。毎日毎日残業続き、企画は出せど通らない、そのくせ薄給……そんな前職よりよっぽどいい。そう自分に言い聞かせながら、毎日を過ごしていた。


 だが……ある日、わたしは“儀式”を破ってしまった。

 朝の9時をまたぐ瞬間、つい「あっ」と声を出してしまったのだ。


“朝の9時をまたぐ瞬間は、声を出してはいけない”


 ほんの短い声だった。誰も聞いていないかもしれない。

 一瞬ばかり、そう思ったが……オフィスの空気がピンと張り詰めたように変わり、隣の先輩が真っ青な顔でこちらを見ていた。ほかの社員たちも、次々と無言のまま顔をこちらに向けた。


 オフィス内が喧噪に包まれた数分後、部長が血相を変えてやってきた。

「お前……!」

 叱責されるかと思い覚悟を決めたが、部長は私を無視して、直属の上司を睨みつけた。

「お前、部下にちゃんと指導してたのか?」

「す、すみません……!」

「すみませんじゃない。部下にちゃんと指導してたのか、と聞いているんだ」


 部長に詰められながら、上司はそのまま奥の部屋へと連れて行かれた。

 そして、私は意味も分からないまま始末書を書かされた。


 なぜ、私は叱られなかったのか? なぜ、上司が責められるのか? なぜ、始末書の“内容”も、“宛先”も曖昧なまま書かされるのか?

 なにもわからないまま、ただ淡々と時間が過ぎていった。何のための始末書なのか、なぜ上司が怒られるのか、一切わからないまま。


 少しして戻ってきた上司に、「先ほどは申し訳ございませんでした」と謝罪すると、上司は一言、ぼつりとつぶやいた。


「もう、いいよ。済んだことだから」


 その日、そしてそれ以降も、私が咎められることは一度もなかった。

 意味もわからないまま、とりとめのない始末書を作成し提出したが、特に何かを指摘されることもなかった。


 そして──ひと月ほど経ったある日、部長が忽然といなくなった。


 ある朝を境に出社しなくなったのだ。

 最初は体調不良かと思われていたが、電話も繋がらない。自宅を訪ねた社員も、「誰も出なかった」と言っていた。家族すらも。


 さらに数日後、部長のデスクの上に、始末書の束が置かれていたのだ。

 最初に見た時は、意味がわからなかった。誰が置いたのかもわからない。ただ忽然と、始末書の束が現れたようにしか思えなかった。

 そして、それを見た先輩は、声を落として言った。


「……“儀式”を、破ったから……」


 ぞわり、と背筋が冷たくなる。

 あの“儀式”は、単なる迷信なんかじゃない。何か明確な理由があるはず。しかし、それが何なのかは、誰も教えてくれない。

 

 部長の机に始末書の束が出現した次の日、“儀式”の改定について、社内メールで通達があった。

 そこには、こう書かれていた。


————————————————————

From: 総務部 ●●

Subject: 新規業務ルール追加のお知らせ(●月改定分)


各位

平素より業務にご尽力いただき誠にありがとうございます。

以下の通り、社内ルールが一部改定となりましたので、ご確認の上、速やかな遵守をお願いいたします。


■ 新規追加ルール(●月●日付)

・エレベーターに乗る際、必ず天井を3秒以上見ること

・4階の男子トイレを使用する場合、必ず4回ノックをしてから入室すること

・●●部長に関する発言は、社内外を問わず一切控えること


ルール違反が確認された場合、必要に応じてヒアリングまたは処分対象となる可能性があります。なお、ルールに関する個別のお問い合わせには対応いたしかねますので、予めご了承ください。

今後ともご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。


総務部 ●●

————————————————————


 * * *


「……いやいや、流石に。流石に出来すぎだろ、その話」

 そう言おうかとも思いましたが……わたしは言葉を飲み込みました。彼の表情が、妙に現実味を帯びていたからです。

 それに、作り話にしては、やけに細部が生々しい。語り口にはユーモアも誇張もなかった。むしろ、どこか“思い出すこと”を避けているような、そんな口ぶりでした。


「後輩から聞いたんだけどさ……今もあの会社、ルールが増えてるみたいなんだ」

「え……?」

「たとえば……“第二会議室の椅子を奇数個並べてはいけない”とか、“始末書は書き直してはいけない”とか……日に日に増えていくって嘆いていたよ」

 彼が辞めてからというものの、輪をかけて会社がおかしくなっているそうです。

 そう聞かされたときは、わたしもどう声をかけていいかわからず、ただ曖昧にうなずいて、慰めるような声をかけたような気がします。


 その日は結局、気落ちしている彼を励まし続けるだけの、あまり楽しくない酒の席となってしまいました。


 * * *


 あの時は特に気にならなかったのですが……今になって、あの日のことを思い返すと、妙に引っかかるのです。


 ──最後の会話。

 さも他人事のように彼は話していましたが……。

 彼は、たしか“今の職場”の話をしていたはずだったのですが……。

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