03.隣人

 最初は、ただの騒音だと思っていたんです。


〈コン、コン、コン〉


 何かを打ち付けるような音が、昼夜を問わず響いてきます。家具を組み立てたり、なにか作業でもしているのかと思いましたが、数日経っても止む気配がありません。その音は規則的ではなく、まるで誰かが気まぐれに、しかしどこか執拗さがある……そんな印象を受けました。


 その部屋に住む住人を、一度だけ見たことがあります。

 長い黒髪を、ぼさぼさに垂らした女の人でした。体の線が妙に細く、着ている服はくたびれたワンピース。顔色が悪く、唇は乾いてひび割れ、頬はこけていました。

 なんだかいやな出で立ちだなぁ……と思いながら横目で見ていると、一瞬だけ目が合ってしまいましたが……彼女はすぐに目を伏せ、エレベーターの中へと消えていきました。


 正直なところ、気味が悪くて……なるべく関わらないように過ごすよう心がけていました。


〈コン、コン、コン〉


 音は鳴りやまないどころか、日を追うごとに、どんどんエスカレートしている気さえします。


 なるべく関わりたくはないのですが、流石に文句を言わないと、これ以上自分の精神がもちません。思い切ってその部屋の玄関をノックしました。


「すみません、迷惑ですよ。やめてもらえますか」

 ノックをしながら、扉越しに声を上げます。ですが、特に返事はありません。それどころか、中から聞こえる音は、わたしのノックに呼応するように激しさを増していきました。


〈ドン、ドン、ドン〉


 これまでとは打って変わって、壁が震えるほどの衝撃が伝わってきます。ゾッとして、その日は自室へ逃げ帰り、鳴り響く音に怯えながらも、布団に潜り込んで眠りました。


 別の日も、また別の日も、収まる気配はありません。こちらもノックをしたり、チャイムを鳴らしたり……いろいろと試しましたが、やはり応答はありませんでした。

 苛立ちが限界に達し、ついに「うるさい!」と大声で叫んでしまいました。しかし、それでも音は鳴り止みません。


 いよいよ耐えられなくなったわたしは、「隣に住むものです。静かにしてください。これ以上続けるようなら然るべき対応を取ります」と書いた紙を玄関のポストに投函しました。これでも駄目なら、警察を呼ぼう。そう決心しました。

 すると、その数分後……音はぱったりと止みました。


 静けさが逆に不気味でしたが、その時のわたしは安堵の方がいくらか勝っていました。なんだ、脅されたらビビるのか、相手も人間じゃないか。そう思い、その日はぐっすり眠れたのを覚えています。


 翌日以降、音は一切聞こえてこなくなりました。ようやく普通の暮らしができる。むしろ、今までなんでこうしなかったんだろうと若干の後悔とともに、快適な日常を過ごしていました。


 それから数週間後のこと。

 休日の昼前ごろ、隣の部屋からの物音で目覚めました。もしやと思い、外に出て確認すると……作業員たちが、隣の部屋から荷物を運び出していました。目を向けると、そこには業者のトラック。引っ越しの作業をしている様子でした。


 安心しました。ここ最近は物音こそしないものの、やはり不気味であることには変わりありません。ようやく解放される、もう悩まされることはないのだ、と。


 そう思いつつも部屋に戻ると、白い紙が一枚、玄関ポストに挟んでありました。広げてみると、そこには短く、


「ありがとうございました」


 とだけ書かれていました。

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