06.笑顔

 大学生の頃、大学間サークルで知り合った女性の方とお付き合いしていました。

 彼女は笑顔がとても印象的で、誰に対しても感じよく接する、まわりから好かれる子だったと思います。

 

 彼女の笑っていない顔は、一度も見た記憶がありません。

 どんな話をしていても、泣きそうなときですら、彼女はうっすら笑っていました。当時はただ、「穏やかでいい子だな」としか思っていませんでした。


 そんな、笑顔の絶えない彼女の実家に行ったときの話です。


 * * *


「そろそろ、うちの親に会ってみない?」

 付き合いはじめて、半年ほど経ったある日。彼女のほうから提案されたわたしは、特に深い意味は考えず、軽い気持ちで了承しました。

 聞くところによると、彼女の実家は、電車とバスを乗り継いだ山間の集落。不便ではありましたが、空気がとても澄んでいて、どこか旅行に来たような気分になったことを覚えています。


 けれど……家が見えてきた瞬間、空気が変わりました。

 木造の平屋で、古びてはいるものの、妙に整っていて、手入れは行き届いている。風で砂利一つ動かないその家は、まるで写真の中にあるようでした。


 玄関の前に立つと、彼女はノックもチャイムも鳴らさず、そっとドアを開けて「ただいまー……」と小さく言います。返事はありませんでしたが、代わりに奥から誰かの気配がすうっと近づいてきたのを感じました。

 現れたのは、彼女の母親でした。


「まあまあ……来てくれたのねえ」

 そう言いながら出迎えてくれた彼女の母は、口元が極端に引きつっていて、目がまったく笑っていなかったのです。

 まるで、お面が張り付いたような笑顔。口角だけがぐいっと上がっていて、喜んでいるようには見えない、“つくりもの”の笑顔でした。


 正直、この時点でだいぶ怖かったのですが……流石にここで帰ったら失礼すぎるし……そんなことを思いながら、家にあがりました。


 リビングに通されると、すでに家族が揃っていました。

 しかし……父親、弟、祖母……そこにいる誰もが、母親とまったく同じ笑顔を浮かべているのです。

 動かず、音もなく、ただ笑顔を作っています。


 わたしが「こんにちは……」と声をかけると、全員が、まるで合図されたかのように、ほんの一瞬ずれてから


「「「こんにちは」」」


 と返してきました。

 その瞬間、背中を変なものがぞわっと這い上がっていくような感覚がありましたが、なんとか押し殺して、平静を保とうとしたことを覚えています。

 彼女はいたって普通の調子で「家族です」と紹介してくれましたが、誰一人としてうなずくわけでもなく、ただ、張り付いたような笑顔のままこちらを見つめたままです。


 食卓にはすでに料理が並んでいます。

 焼き魚、味噌汁、漬物――和食らしい内容でしたが、どれもひとくち、ふたくちだけ箸をつけたような食べかけの状態で、湯気も立っておらず、完全に冷めきっていました。


「……おいしそうですね」

 ぎこちなくなりつつも、そう声をかけると、「そうでしょう? みんな笑顔で食べるのよ」と、奥に座っている祖母が小さな声で呟きます。


 その直後。

 これまでピクリとも動かなかった母親の肩が震え、笑いはじめました。声は出ているような動きなのに、笑い声は聞こえない。喉を震わせているのに、音だけがまったく出ていません。

 それに呼応するように、他の家族も順番に笑い出しました。

 口元だけが、カカカ……と音を立てそうな勢いで、でも音は立てずに、痙攣するように動き、笑う素振りをしています。


 彼女はそれを見て、微笑みながら「うち、ちょっと変わってるでしょ?」と問いかけましたが……その瞬間、わたしは心の中で「これはダメだ」と確信しました。

 言葉が通じないとか、常識が違うとか、そういった次元ではない――人間のふりをしている“なにか”の中に混じってしまったような感覚。根本的に異なる存在を前にしている、という理解が、突然襲ってきたのです。


「すみません、帰ります」


 危機感をおぼえたわたしは、内心びくびくしながらもそう言って、その場から立ち上がりましたが……立ち去ろうとするわたしを、誰も止めませんでした。

 ただ、玄関を出る直前、背中越しに誰かがぽつりと呟いたのです。


「笑っているのに」


 わたしは、振り返らずに、ただ走ってその場から逃げました。


 * * *


 それ以来、彼女とは連絡を取っていません。

 何度か着信がありましたが、出ることができませんでした。しばらくは、思い出すことすらも怖かったのです。記憶を封印して、あのサークルにも顔を出さずに、大学生活をただ惰性で過ごしていました。


 でも、今になって思い返すと……あれが本当に異常なことだったのかどうか……正直なところ、よくわかりません。誰かが怒鳴ったわけでもないし、責められたわけでもありません。みんな、ただ笑っていただけだったのですから。

 笑っている人を、どうこう言う理由なんてありません。今思うと、無理に否定することもなかったのかもしれません。だから、もういいのです。そういうことは、もうどうでもいいのかもしれません。


 そう考えているうちに、不思議と、口角が緩んでしまいました。

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