07.実在

「呪いって、気づいた瞬間、実在してしまうんです」

 男性は、ぽつりとそう言いました。


 夜のバーカウンター。窓を叩く雨音と、店内に流れる古いジャズが混じり合って、まるで映画のワンシーンのような空気を作っていました。通り雨を避けてたまたま入ったこの店で、わたしは隣に座っていた男と、ほんの軽い雑談を交わしていました。


 最初に何を話していたかはもう覚えていません。天気のこととか、仕事のこととか、そんな他愛もない話だったと思います。

 けれど、いつの間にか、わたしたちはお互いの「気味の悪い体験」について語るようになっていました。


「気づかれなければ、それはただの“念”です。でも、一度『あれ?』って違和感を覚えたら……そこからは早いんですよ」


 男性の声は穏やかでしたが、その目はどこか焦点が定まらず、宙を見ているようでした。

 わたしは黙ったまま、グラスを手にしながら、息をのんで……彼の妙に説得力のある言葉に集中せざるを得ませんでした。


「認識した瞬間から、物事が回り始める。偶然の不運が重なって、それが“偶然”ではなくなっていく。……気づいたときには、もう引き返せないんです」


 語るたびに、彼の表情が少しずつ硬くなっていきます。


「最近、気づいちゃったんです。……ああ、自分、呪われてるなって」


 後悔とも諦観ともとれる表情を浮かべて、男性はそう呟くと、静かにグラスを置いて、話の続きを始めました。


 * * *


 電車に乗っていたんです。

 夜も遅い時間帯で、車内はまばらに人がいる程度でした。

 今日も座れないかな……と思っていたら、不自然なくらいぽっかりと、目の前の席だけが空いていました。


 誰も座ろうとしないことに少し違和感を覚えつつも、疲れもあったので、わたしはそのまま腰を下ろしました。

 吊り革が揺れる音と、走行音が遠ざかるように聞こえたのを覚えています。


 ふと、顔を上げると、向かいに男が立っていました。


 スーツを着た男でした。髪型も服装も、ごく普通。でも……目が、おかしいんです。

 黒目が大きいとか、充血しているとか、そういうレベルじゃないんです。白目が、なかったんです。全体が塗りつぶされたように、真っ黒で。


 その男は、まばたきひとつもせずに、じーっとこちらを見つめていました。

 ただ見ているだけ。口元だけ、ゆっくりと笑うように動かしながら。

 声はありませんでした。笑っているのに、音がまったくしない。今にも笑い声が聞こえてきそうな表情なのに、声は一切聞こえてこないんです。


 その笑みを見た瞬間、気味が悪くて……即座に目を逸らしました。それと同時に、どこかで見たことがあるような……そんな気がして、いろいろと考えたんです。

 過去の経験? 夢の中? たぶん、本当に見たことがある。でも、思い出せない。なんだっけ……と考えているうちに、電車が駅に着きました。


 ふたたび顔を上げたときには、もうその男はいませんでした。


 ……で、次の日からです。


 あの男が、視界の端にいるんです。

 駅のホーム、会社の前、コンビニの防犯ミラー、雑居ビルのエントランスの奥……

 本当に、あらゆる場所に。


 でも、何かをしてくるわけじゃない。ただ立っているだけ。

 こちらを向いて、目を逸らすこともせず、視線を逸らされることもなく、ずっと笑いながら立ちすくんで、こちらを見つめているんです。


 正面に現れることはありません。いつも、少しずれた視界の端なんです。

 それを正面から見ようとすると、なぜかその瞬間に視線が外れてしまう。本能が、それを拒絶しているような……そんな感じで、まるで……常に、“わたしが見つけるのを待っている”みたいになってしまうんです。


 * * *


「そんな日が続くものですから、今となっては、ついつい探しちゃうようになってしまいました。どこへ行っても、どこかにあの男がいる気がして」


 そう言って、彼はわたしの顔を見て、ふわりと微笑んで……そのままゆっくりと、窓の外に目を向けます。


 つられて、わたしも窓のほうに視線を向けました。

 さっきまで降っていた雨は、もうすっかり止んでいました。

 水の滴る音すらも、聞こえません。それに気づかないくらい、彼の話に入り込んでいたのでしょう。


「……なんだか、不思議な話を聞かせていただき、ありがとうございました」


 そう言ってわたしがグラスを置くと、男は変わらぬ微笑を保ったまま、こう言いました。


「また、どこかでお会いしたときは、よろしくお願いします。……そうだ、お兄さんもお気をつけくださいね。意識した瞬間から、呪いは始まりますので」


 その言葉に、どこかぞわりとするものを感じながら、わたしは軽く会釈をしてバーを後にしました。


 * * *


 そこから歩いて数十分、自宅に着いた頃……わたしは、ふと思いました。


 ……あの男性は、誰に、何で、呪われていたんだ?


 話を聞いていたはずなのに、その肝心なところだけが、妙に曖昧だった気がするのです。

 彼は、自分が“気づいてしまった”とは言っていた。

 でも──「誰に」とか、「何で」とか、そういう理由の部分に関しては、一度も口にしていなかった。それに気づいてから、わたしは──気づけば、視線を彷徨わせるようになってしまいました。


 駅のホームで、会社のビルの窓に、エレベーターの防犯カメラの反射を、自動ドアが開いた先の店の奥まで──誰も立っていないはずの場所なのに。


 探しているつもりはないんです。でも、視線の端が気になってしまう。

 そして、意識すると、影のようなものが、こちらを見ているような気さえしてきます。

 その瞬間に、あの男性が言っていたことが、理解できてしまうのです。


 最近では、夢に見ることもあります。


 長い廊下の先に、誰かが立っている夢。

 黒い目かどうかは、わからない。顔も見えない。

 でも、そこに“立っている誰か”が、わたしを待っている気がするんです。


 あれから、その男性には会っていません。けれど……ふとした瞬間、視界の端に……何かがいるような気がしてならないのです。

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