第2話 始まりの予感

 若草の香りを纏った爽やかな風がシグレの頬を撫でた。目を開けると澄んだ青空が広がっていた。ぽっかりと浮かぶ真白の綿雲が、空の青さに映えている。シグレは身体を起こした。

「……わぁ…」

 ここはどこなのかという疑問が霧散してしまうほど、美しい景色がそこにあった。風に揺れる生命に満ちた若草色の芝生、所々に群生している色鮮やかな野花、穏やかに降り注ぐ陽光を反射して、きらきらと輝いている川のせせらぎ。都市では到底拝むことの出来ない自然の中にシグレはいた。立ち上がって一歩踏み出せば、足裏に感じたことのないさくさくとした柔らかさを感じた。シグレは駆け出した。どこまでも広がる豊かな自然がシグレを開放的にさせた。

「あっ!」

 シグレは芝生の中に佇んでいる美しい花を見つけた。ああ、この花は昔図鑑で見たことがある。都市の中では野生の花は滅多に見ることが出来ないが、まさか自然に生えているところを見つけることが出来るなんて。

「綺麗……」

 シグレはしゃがみこんでその花を観察した。写真で見るよりずっとずっと美しい。花びらにそっと触れ、香りを堪能し、根を張っているであろう周辺の土を撫でた。本当に、存在している。シグレは胸が高鳴るのを感じた。

(ずっと本物を見てみたかったんだ。もしかしたら他の花もここにあるのかも。ああ、カメラがあればよかったのに!…確かこの花の名前は)




「シグレ」


 よく知った声に名を呼ばれた。シグレは弾かれたように振り返った。

「…………父さん、母さん…」

 視界が滲んだ。シグレは二人に駆け寄った。父と母はシグレを抱きしめてくれた。

「シグレ、よく頑張ったな」

 父の穏やかな声はいつだってシグレを安心させた。

「シグレ、怖かったね」

 母の清らかな声はいつだってシグレに希望を与えた。

「!」

 シグレは両親に頭を撫でられた。涙がとめどなく溢れてくる。愛おしげなその手つきを、シグレは覚えていた。震える口でシグレは懺悔を始めた。

「……っごめんなさい、ごめんなさい…!僕のせいで、父さんと母さんはっ……」

 シグレは言葉に詰まりながらそう言った。両親は緩やかに首を横に振った。慈愛に満ちた顔でシグレを再び強く抱きしめた。

「「生きて」」

 二人がそう言った途端、シグレは眠りに落ちるように意識が途切れた。









「………ん」

 目を開けると見知らぬ天井があった。シグレは寝起きの怠さを感じつつ、身体を起こした。どうやらソファに寝かされていたらしい。腹の上にエキゾチックな柄をしたクッションが乗せられていた。

「ここは……?」

 シグレは正面に見える空間を眺めた。ダークブラウンを基調としたダイニングとキッチンは、暖色系の照明に照らされており、リラックスするのに丁度よさそうな程よい生活感を感じさせる。ダイニングテーブルはフェミニンなデザインのテーブルクロスで飾られており、中央にガラスの空き瓶に活けられた花が置かれていた。ダイニングの壁際には背の高い本棚があり、隙間が無いほどに本が並べられていた。観察すればするほど、ここがどこなのか分からなくなるばかりだった。

(確か僕は知らない人に襲われて、その後女の子に助けて貰って………)

 シグレは夢で出会った少年が現実世界に現れたのち、意識を失ったことを思い出した。少年の言葉が脳内で響く。

(ソノ娘コソ、オマエノ生キル意味)

 シグレは叔父の家で少年から授かった言葉を思い出した。生きる意味を与えるという彼に唆されて、家出を決行し今に至る。一日中歩き続けて辿り着いた答えが、自分を救ってくれたあの少女なのだろうか。

(コノ娘ニ降リカカッテイル)

「………………呪い?」

 目標をクリアしたものの、シグレは新たな疑問が尽きなかった。自分は今どこにいるのだろうか、どうしてここにいるのだろうか。あの少女の行方はどこなのだろうか、少女に降りかかっているという呪いとは一体何なのだろうか。



「起きたか」

 思考にふけっていたシグレを、聞いたことのない男性の声が現実に連れ戻した。声の主はローテーブルを挟んで向かい側にある、シグレが占領しているソファとは別のソファに座っていた。切れ長で涼し気な目が印象的な、落ち着いた雰囲気のある美少年だった。少年はシグレと目が合うと、手に持っていた本をテーブルに置いて立ち上がった。シグレの傍にしゃがみ、シグレの身体をじっと観察した。

「君はの中で突然気絶した。君の素性が確認できなかったため、とりあえずここに運ばせてもらった。…見たところ怪我をしている様子はないが、身体の調子はどうだろうか」

 見た目通りの落ち着いた声で、少年はシグレに尋ねた。シグレは見知らぬ少年に少し戸惑いながらも答えた。

「えっと、大丈夫です。………ちょっとぼんやりしてて」

「そうか、無理もない。君は聞いたところに遭遇したらしいな。助けが間に合ってよかったが、正直な話、あれを見て冷静でいられる者はいないだろう」

 少年は淡々と言葉を紡いだ。シグレの身を案じているようだが、感情の読めない彼の真顔が、シグレを僅かに不安にさせた。

(助けてくれた…のかな?わ、悪い人じゃなさそうだけど…ちょっと怖い……)

 そんなシグレの心情を悟ったのだろうか、少年は立ち上がって部屋の出入り口へ向かった。扉の前でシグレを振り返る。

「……顔を知らない人間と二人きりだと落ち着かないだろう。君を見つけた人間を連れてくるから待っててくれ」

 そう言うと少年は部屋を出ていった。シグレはほっと息をついて、ソファに正しい姿勢で座った。

(僕を見つけたって、あの女の子かな)

 シグレは自分を襲った奇人を撃ち殺した彼女を思い浮かべた。月明かりに照らされた白い髪、迫力のある大きな目……殺人を犯しておきながら、笑顔でシグレに手を差し伸べた彼女は一体何者なのだろうか。

「あの子が、僕の生きる意味……」

 まだ名前も知らない彼女が、自分にとってそこまでの存在であることを、シグレは未だ信じられなかった。



 数分後、先ほどの少年が部屋に戻って来た。少年の後ろから、記憶にある白い髪の少女が現れた。少女は少年の背中から飛び出して、シグレの顔を見るとにぱっと笑ってみせた。

「やぁ、少年!目が覚めたようだね。混乱しているかもしれないけど、安心してくれ。ここはボクたちが住居にしている建物だ。キミに危害を加える者はここにはいないよ」

 少女は少々大袈裟な身振りとともに、明るげな声で言った。人懐っこい笑顔は気絶する前に見た通りだった。少女はシグレの正面のソファに着席し、話を続けた。

「そうだなぁ……キミに聞かなければならないことは山ほどあるけど、まずは自己紹介といこうか!ボクは!…茅野夜帷かやのとばりだよ。気軽にトバリ、と呼んでくれ。…少年、キミの名前は?」

 トバリはシグレに尋ねた。トバリの勢いの良さに、シグレは少々気圧されながら答えた。

「あ、え、えっと…シグレです…。鷹崎時雨たかさきしぐれといいます…」

「よろしく!シグレ少年!」

 トバリはシグレに握手を求めた。どう見てもトバリはシグレと同年代だが、彼女は何故かシグレのことを「少年」と呼んだ。しかし、変わった口調で喋ること以外は特に気になるところは無い。シグレは彼女が人当たりの良い性格だと分かり、安心して手を伸ばした───

 ガシッ

(!?)

「さぁ、教えてもらおうか。何故キミはに侵入したんだ?」

 トバリは突然シグレの手首を掴み、先ほどとは打って変わって、鋭い眼差しでシグレを射抜いた。手首を握る強さから、「答えるまで離さない」という揺るがない意思を感じる。シグレは豹変したトバリの様子にすっかり怯んでしまった。

「あ、あっ!えっと、ご…ごめんなさ…」

「謝罪はいい。ボクは動機を聞いている。キミをの正体は何だ?」

 トバリはシグレを追求した。吸い込まれそうなほど大きな彼女の瞳が、シグレを捉えて離さない。シグレはトバリの目を見ていると、妙な不安を感じた。有無を言わさずに相手を従えようとするプレッシャーは、まるで────




「トバリ」


 トバリの隣に座っていた少年が彼女の名を呼んだ。すると、シグレの手首がトバリの手から解放された。シグレは緊張が解け、ソファに深く沈んだ。額に汗が滲む。

「少し、圧が強い。彼も疲れているはずだ。あまり追求するのはよくない」

 トバリは依然としてシグレを捉えている。

「………色々彼に聞きたいことがあるのは俺も同じだ。だが、もう夜も遅い。今夜は皆休んだ方がいい。明日の朝、落ち着いて話してもらった方がお互いのためになるだろう」

 少年はトバリをなだめた。トバリは少年を一瞥すると、ソファから立ち上がった。

「そうだね。ボクも夜勤で疲れたし、休ませてもらおうかな。………少年、今夜はここに泊まってくれ。明日たっぷりとお話ししようじゃないか」

 そう言い放つと、トバリは部屋を出ていった。シグレはずるずるとソファの背もたれに寄りかかった。

(………こ、怖かった〜…)

 シグレは涙目になった。トバリの尋問の様子を思い出すだけで身体が震えた。

(こ、好感度最悪………)

 トバリは初対面だったが、まさかあんなに攻撃的な態度をとられるとは…。シグレは異性に初っ端から嫌われたという事実と、夢の少年に与えられた任務が早速難航したことに気を落とした。深くため息を着く。

「……大丈夫か?」

 顔を上げると、少年がシグレを覗き込んでいた。相変わらず感情が欠落したかのように真顔だ。しかし、彼の声色はシグレを心配している調子だった。

「あ………、はい…」

 あまり大丈夫ではないが、大丈夫と答えておく。少年はシグレの隣に座った。

「すまなかった、怖がらせるような真似をして。だが彼女も意地悪でやってるわけではないんだ」

 少年は目を細めた。

「…最近、に無断で立ち入ろうとする無法者が増えている。君は…何か特別な事情がありそうだが、それは明日聞くとしよう。とにかく、俺たちはそのせいでピリピリしているんだ。いつか彼らがに危害を加えられるのではないかと…」

 少年はシグレに向き合った。

「君も見ただろう。あのおぞましい赤い目を…。もし君をトバリが救えていなかったら、俺たちが恐れていた事態が発生していたところだったんだ」

 シグレは規制線の中で遭遇した奇人を思い浮かべた。俗世離れした格好、意味不明な言動…。あれは一体何だったんだ?

「あの、あの人は一体……?」

 シグレは少年に尋ねた。少年は真顔のままうーん、と唸って言った。

「それは……話せば長くなる。それにどこまで話していいかは俺には判断できない。それも含めて明日……もう今日か。朝、詳しく説明させてくれ。……俺たちがどのような集団なのかも、きちんと説明する」

 シグレは頷いた。


 ぐぅ〜〜………



「…………」

 シグレの腹の音が、静かな部屋に響き渡った。シグレは羞恥から無言になった。

(ああ、最近まともに食事をしていないんだった……)

 大波乱の一日を終えて、シグレの身体は色々限界だったらしい。シグレのあまりに大きな腹の虫に、少年はふ、と息を漏らした。

(い、今笑った?)

 シグレが驚いていると、少年がソファから立ち上がった。

「何か口に入れた方がいい。失礼に聞こえるかもしれないが、今の君はだいぶ消耗しているように見える」

 少年はキッチンに向かい冷蔵庫の中を覗いた。

「……シグレ、と言ったか。君は甘い物は平気か?」

 少年の問いかけにシグレは頷いた。少年はその後、トレーの上にショートケーキとマグカップを乗せて戻ってきた。

「少なくてすまないが、食べてくれ」

 少年は自分もマグカップを持って、シグレの前に座った。シグレは出されたケーキをじっと見つめた。ケーキなんて久しく食べていない。

「い…いいんですか?その…僕は怒られるべきなんじゃ…。助けてくれたうえに、ここまで親切にしてくれるなんて…」

 少年は再びふっ、と息を漏らした。

「俺たちにとって君は保護対象だ。確かに問いたださなければならないこともあるけれど、何よりも君の安全と健康を優先するよ」

 その言葉にシグレは泣きそうになった。人の善意に触れるなんて、一体いつぶりだろうか。

「…っ!ありがとうございます…!えっと…」

碓氷炎うすいほむらという。よろしく、シグレ」

 シグレはホムラと共に、少しの間穏やかな時間を過ごした。ショートケーキは、今までで一番美味しかった。



 〇



 コンコンッ


 自室の扉を誰かがノックした。トバリは睨みつけていた書類を置いて、扉へ向かった。

「…まだ起きていたのか」

 扉を開けると、ホムラが立っていた。その声色は怪訝そうだった。分かっていたくせに。トバリはホムラを部屋へ招き入れた。

「そうだよ。ボクは眠らなくても別に平気だからね」

 トバリはそう言いながら、自分のベッドから適当にクッションを見繕って、ホムラへ投げた。

「まぁ、とりあえず座りなよ」

 トバリは両手でそれをキャッチしたホムラに、腰を下ろすように言った。自分もクッションをラグの上に敷いて、そこに尻を乗せる。

「……」

 ホムラは何か言いたげにクッションを見つめ、やがてそれをラグの上に置き、その隣に正座した。それじゃ硬いだろうに。

「さっきはどうしたんだ。君らしくない」

 置物とされたクッションに不満げにしていると、ホムラが口を開いた。トバリは睫毛を伏せ、考え込んだ。

(……少年は今までの愚か者どもとは違う)

 トバリはシグレの身なりを思い出す。季節外れの服装、ボロボロのサンダル、異常なまでに痩せた身体、粗雑に切り刻まれた髪、袖から覗く生傷まみれの腕…。

(そして何よりも……)

「………………」

「トバリ?」

 ホムラの呼びかけに、トバリは顔を上げた。

「彼は恐らく虐待を受けている」

 その言葉にホムラも同意した。

「…ああ、俺もそう思った。シグレは恐らく逃げてきたのだろう。彼に危害を加える者がいる場所から」

 トバリは掌を握った。自分でさえ握り込めてしまうシグレの手首の細さに、彼の背後にいる人物に強い怒りを覚えた。

「腹立たしいな。どんな時代になっても、人を暴力で抑圧する者がいるなんて」

 トバリは瞼を閉じた。脳裏に浮かぶ赤く禍々しい目が、トバリの神経を逆撫でする。

「そうだな。………だが、もう少し怒りを抑えた方が良い。シグレが怯えていた」

「えっ、ボクそんなに怖かった?」

「彼からしたら、な。いつもだったら腕を捻り上げててもおかしくないだろう」

「………それ、少年に言わないでね」

 トバリは密かに反省した。シグレに対して怒っていたつもりはなかったのだが………。

「尋問が上手すぎるのも、考えものだなぁ」

 トバリはぐっと伸びをして、後ろのベッドに倒れ込んだ。

「少年に謝らなきゃ〜……ふぁ…」

 ベッドの柔らかさに沈んだせいであくびが出てきた。ホムラはトバリの様子を見て立ち上がった。

「寝た方がいい。俺は部屋に戻るよ」

「あっ、待ってくれ!」

 トバリはホムラを呼び止めた。そして、先程にらめっこをしていた書類を彼に見せる。

「……報告だよ。新たな班編成の件、却下された。班の数が減少した今の状態では、人手が足りなすぎて捜査に悪影響が出ると言ったのに……」

 トバリは眉間に皺を寄せて、書類をぐしゃぐしゃに丸めた。ホムラはトバリの報告に思わずため息をついた。

「これで何度目だろうか……。本部が忙しいのは知っているが、俺たちの意見を無視するほどなのか?」

「はっ!いいさ…ここまで来たらボクにも考えがあるからね!」

 トバリは我慢の限界だ、というようにそう言い放った。

「考えとは?」

「あっちが人を寄越してくれないのなら、ボクらが自分たちで招集すればいい。そうだな…例えば、家にいるよりここに居たいと言う家出少年とか………」

「おい………」

「あは!やっぱり、少年には話さなければならないことがたっぷりあるね!」

 トバリは不敵な笑みを浮かべた。ホムラはやれやれだ、とため息をついた。

「…………ところで」

 トバリはホムラの顔をじっと見つめた。

「キミ、何か甘い物食べた?」

「……………………いや」

「嘘だね!!ボクの嗅覚をナメないでほしいなぁ!こんな夜遅くに甘味はダメだと、前も言っただろう!」

「待て、俺じゃない。確かに俺もココアを飲んだが、ケーキを食べたのはシグレだ」

「え、二人でお茶してたのかい?ちょっと!どうしてボクを呼ばなかったの!!」

「君のことを彼が怖がってたからだ!」

 トバリの追求に、ホムラも思わず声を荒らげて反論した。こんな深夜に騒ぐことが許されているのは、きっと彼らだけだろう。





 〇




「……疲れたな」

 シグレは暗い部屋で独りごちた。ホムラにケーキをご馳走になった後、シグレは数刻前と同じようにソファに寝そべっていた。無計画で叔父の家を飛び出してきたが、まさか柔らかい寝床にありつけるとは。野宿を回避出来たことは奇跡と言っても過言ではない。

「…………本当に、疲れた……」

 シグレは今日の出来事を改めて思い出した。自殺未遂、夢の少年、家出、黒ずくめの変人、宗教服の奇人………自分の生きる意味だという少女との邂逅。

「…わけわからん」

 いったい何度死にかけたのだろうか。小説にしてもおかしくない体験だ、とシグレは思った。

(まぁ、大事な場面で大失敗をしたんだけど)

 シグレはトバリに問い詰められたときの様子を思い出した。頭に浮かべるだけで、身震いしてしまう。そして彼女を怒らせる原因となった、自分の愚行を呪った。

(トバリさんはきっと真面目な人だ。ルール違反の僕の行動が許せなかったんだ…。でも、僕の話も少しくらい聞いてくれてもよかったのに。…はぁ、あの時規制線を越えてなければ………)

「あ、あれ?」

 シグレは思い出した。夢の中の少年が、突然規制線の中に現れたことを。

(そうだ…あの時あの男の子が規制線の中にいたんだ…。だから彼を追いかけて、僕は…トバリさんに出会った)

 どうして忘れていたのだろうか。シグレはずっとあの少年を追いかけて行動してきたというのに。決死の家出も、トバリとの出会いも全ては少年によってもたらされたものだ。

(あの男の子は、一体どういうつもりなんだ)

 トバリの呪いを解け、なんて曖昧な指示を出してぱったりと出てこなくなった彼を、シグレは少し恨んだ。

「…っ、ふあぁ…」

 考え事をしていたら、急激に眠気に襲われた。朝、トバリとまた話さなければならないことが憂鬱だが、今は久しぶりの快適な寝床を享受するとしよう。シグレは瞬く間に眠りに落ちた。







「………き…」

 遠くで声が聞こえる。

「……おき…」

 だんだんと近づいてくる。

「……起きて」

 シグレの意識が急浮上する。



「また会ったネ」



 聞き覚えのある柔和な声に、シグレは覚醒した。辺りを見渡すと、叔父の家で見た夢と同じような景色が広がっていた。闇の中で水面が揺れている。シグレが動く度に光の波紋が生み出された。

「ごめんね、今日はたくさん怖い目に遭わせてしまっテ」

 後ろを振り返ると、あの少年がいた。白い髪、白い肌、白い服。淡い光に包まれている彼は、まさしくあの少年だ。異なる点としては、少年の声はノイズが減っており、最初よりもだいぶ聞きやすくなっていた。

「本当はこうやって会いにくるべきなんダ。キミが眠っている間に、夢の中にお邪魔スル…そうじゃないと急に気絶して、危ないからネ」

 口調も柔らかくなっていた。少年は物腰の柔らかな雰囲気を纏っているが、彼の目はやはりシグレを不安にさせた。

「地上に現れると、うまく話せなくなるシ。ずっと言葉足らずで分かりづらかったよネ」

 少年はシグレに近づいた。そして指先でシグレの頬を撫でた。

「今はたくさん時間があるカラ、キミの質問に答えるヨ。もちろん、ボクが答えられる範囲でだケド」

 その言葉を聞いた瞬間、シグレは喉の奥から何かが引っ張り上げられるように、言葉を吐き出した。

「っあなたは誰?どうして僕に話しかけてきたの?トバリさんは何者なの?呪いって何?トバリさんの呪いを解くって、僕は何をすればいいの?」

 捲し立てるシグレを見て、少年は目を細めて笑った。やはり絵画にすべき美しさだった。少年はゆっくり言葉を紡いだ。

「ボクはキミの想像通り、『神』に分類される生き物だヨ。キミに会いに来たのは、キミがずっと神に祈り続けてたカラ。トバリについては……そうだなぁ、カノジョから直接聞いた方がいいヨ。ボクじゃうまく説明できナイ。呪いについては………ごめんね、言えないんダ」

 神はシグレの質問に快く答えてくれた。シグレは面食らった。

(こ、こんなに親しげだったっけ?)

 しかし、シグレは納得がいかなかった。

「え…、でも僕はトバリさんの呪いをとかないといけないんじゃ………。それが分からないんじゃ、何もできない………」

 神は悲しげに笑った。

「そうだよネ…。でも、キミにそのことについて伝えてしまったラ、きっとボクは消されてしまウ。キミとトバリを助けるために、まだ死ぬわけにはいかないんダ」

 神は静かに瞼を閉じた。彼の異様な目が隠されると、本当に心を奪われてしまいそうだ。神はシグレの手を握った。あの時と、同じ温かさ。

「お願いシグレ。キミはボクらにとって希望なんダ。ボクらを助けると思って、どうかボクの願いを聞いてくれないカ。キミのことはボクが守ル。だから、どうか死なないデ。ボクのために生きて…………」

 神はシグレに懇願した。シグレは声が出せなかった。シグレを檻から放ち、掌の上で踊らせていた強大な力の持ち主は、こんなにも悲痛な顔をして自分に縋るのか。

「………また会える時に会いに来るヨ。その時まで、どうか頑張っテ………」

 神がそう言った途端、シグレの意識が遠のいた。どうやら目覚めの時が近いようだ。シグレは叫んだ。

「待って!!!」

 神はシグレを見つめた。

「どうして………、どうしてに助けに来てくれなかったの……?」

 シグレはそう言って涙した。五年前のあの日、シグレは瓦礫の下で必死に祈った。両親が死んだ時の祈りは何故神に届かなかったのか。

「僕は、僕は………っ、父さんと母さんだけでも助けてくれたら、それで良かったのに…!僕だけが生き残って……っ、僕が死ねばよかったのに!!」

 シグレは嗚咽を漏らした。静かな空間に、シグレの咽び泣く声が響く。

「……………ごめんネ」

 神は静かにそう言った。その顔にはやるせなさが浮かんでいる気がした。

「………ボクはキミが生きていてくれて良かっタ。こうしてボクの導きに従ってくれたのだカラ。……………またね、シグレ」

 神がそう言うと辺りが真っ白な光に包まれた。




 朝、シグレはホムラに起こされた。部屋の時計を見ると九時頃だった。早起きとは言えない時間帯だが、シグレに配慮して長めに寝かせてくれたのだろうか。

「おはよう。体調に変わりはないか」

「おはよう…ございます。大丈夫です。むしろ昨日より調子がいいくらい…」

「そうか、よかった」

 ホムラは短い言葉でシグレの身を案じた。シグレは彼に対する警戒心はすっかり解け、ホムラを信用するまでになった。幾年かぶりに自分に優しくしてくれたホムラは、シグレの中でもう特別な存在だった。

「朝食の後、話の続きをしたい。簡単なものしか用意出来ないが、構わないだろうか」

 シグレは首肯した。するとキッチンからキツめの声が飛んできた。

「おい、ホムラ!朝飯作るのは俺だ。なんだ『簡単なものしか』って?俺の飯に不満でもあんのか?」

 シグレは知らない声が聞こえて、肩を跳ねさせた。キッチンを見ると、不機嫌そうに眉を歪めている少年が立っていた。少年は室内にもかかわらずニット帽を被っており、背が高く、体格も良かった。Tシャツから覗く腕が、シグレの倍ほど太い。少年は手に持っていた包丁をホムラに向けて声を張り上げた。

「文句があんなら、てめぇが飯を作るべきじゃねえか?!」

 ビリビリと大声が部屋に響いた。シグレは思わず身を縮こませた。

(が、ガラ悪………)

ホムラがため息をついて、少年を睨んだ。

「朝から大きな声を出すな。客人がいるのにそんな下品な行動をするな。別に、君の料理に不満があるのではない。……社交辞令だよ。『つまらないものですが』と同じニュアンスだ」

「………あ?」

 ホムラは淡々と言葉を紡いだ。ガラの悪い少年は、首を傾げていた。

「…………拠点内の食材は俺たちで使用する分しか購入していないだろう。余った物で調理されたものしかないが、それでも良いかと彼に尋ねたんだ。君の料理の腕は確かだから特に問題無さそうだが、一応な」

「だよな?はっ、知ってたぜ」

 ガラの悪い少年は、ホムラの最後の言葉を聞くと、ニヤリと笑ってキッチンの奥へ消えた。ホムラはため息をついてソファに腰掛けた。

「すまない、騒がしくして」

「い、いえ。えっと……あの人は?」

 シグレは少年が誰なのか尋ねた。キッチンから香ばしい良い香りが漂ってくる。

「あれは俺たちの同胞だ。昨夜は単独任務に向かわせていたため、不在だった。あれ以外にもあと一人女性の隊員がいるのだが、あの荒っぽい男の名前は」

だ。日高霞ひだかかすみ。よろしくな!」

 カスミは親指で自分を指し、歯を見せて笑った。いつの間にか、ダイニングテーブルの上にはこんがり焼かれたトーストと、つるりとした目玉焼きが盛り付けられたプレートが置かれていた。シグレはホムラに促され、ダイニングに着席した。トーストに乗せられたバターが溶けだし、その芳醇な香りが食欲をそそる。

「いっ、いただきます!」

 シグレは分厚いトーストに齧り付いた。すると、中から溶けたチーズが零れ出した。予想外のサプライズにシグレは目を輝かせた。その様子にカスミは満足気だ。カスミはシグレの前に着席し、シグレと会話を試みた。

「お前、名前は?」

「し、シグレです」

「シグレ、な。規制線を越えたんだろ?大丈夫だったか?」

「あ…はい。トバリさんが助けてくれて」

「そうじゃなくてさ、お前もトバリにこっぴどく叱られたんだろ?あいつ怖ぇよなぁ。あいつに叱られたら、もう二度と入ろうなんて思わねぇよ。………そうだ、この前あいつ肝試しのために入ってきたやつらの腕をさ……」

 カスミはニヤニヤしながらシグレに近づいた。

「カスミ???」

「あ」

 カスミの背後に、音も無くトバリが現れた。




 朝食を終えた後、シグレはソファに座らされた。目の前にはトバリが、その隣にホムラが着席し、そしてシグレの隣には自分の額をさすり続けているカスミが座った。彼はまだ痛みで涙を浮かべている。

(で、デコピンで出る音じゃなかった…)

 シグレは心の中で、トバリのデコピンの餌食になったカスミに手を合わせた。トバリはにこにこと笑っているが、シグレは昨日のトラウマがよみがえった。

(こ、これからもっと怒られるのかな……)

 シグレが身構えていると、トバリと目が合った。彼女は笑顔のまま話し始めた。

「見苦しいところを見せてしまったね。カスミは話を大袈裟にする癖があるんだ。話半分で聞くのが丁度いいくらいにね」

 トバリは上目遣いになって、シグレを見た。

「少年……キミはボクがカンカンに怒ってると思ってるけど、それは誤解だよ。ボクたちはキミが………ここまで逃げてきたことに気づいてる。それでキミの背後にいる人物に勝手に怒りを覚えてしまったんだ」

 トバリはシグレを真っ直ぐに見つめた。シグレは彼女の瞳に吸い込まれそうだった。

(………やっぱり似てる)

 トバリの迫力のある大きな目は、シグレが夢で出会った神にどことなく似ていた。見ていると妙な胸騒ぎを感じるとともに、彼女に全てを委ねたくなるような気分になった。

(これがカリスマ性というのだろうか)

 神とトバリに類似性を感じる理由は分からなかったが、シグレは何となくそう思った。

「少年、大丈夫?」

 トバリにそう尋ねられ、シグレははっとした。トバリの目に意識を取られすぎたようだ。

「あっ、大丈夫です…。えっと……トバリさんは、怒ってなかったってこと……?」

「そうだよ。キミを怖がらせるつもりは微塵も無かった……ごめんね?」

 トバリは首を傾けて、そう言った。白い髪がサラリと揺れる。ちょっとあざとい。

(う、やっぱり綺麗な人だな…)

 シグレはトバリのちょっとした仕草に、いちいち心を乱された。

「さ、誤解も解けたわけだしそろそろ本題に入ろうか」

 トバリはホムラに目配せをし、それを受け取ったホムラが立ち上がって部屋から退室した。それを見届けると、無言で痛みに耐え続けていたカスミが口を開いた。

「…………なぁトバリ、シグレがってどういうことだ?」

 シグレは顔を引き攣らせた。いや、カスミは悪くない。突然現れた人間にこれまでのいきさつを聞くのは当然だ。むしろ出自の分からない怪しい人間を泊めてくれた彼らに、自分から説明しなければ失礼だろう。

「それは……」

 シグレの心情を察しているのだろう。トバリは発言を躊躇った。シグレは覚悟を決め、顔を真っ直ぐに上げた。

「僕が、自分で説明します」

「少年………無理をしなくてもいいんだよ」

「大丈夫です。皆さんにこれ以上迷惑はかけられません」

 シグレは拳を握りしめ、地獄からの逃走劇を語った。





「そんなことが…」

 カスミはシグレを呆然とした顔で見つめた。

「………それで家に帰りたくなくて、警察の人たちから逃げるために規制線を越えました」

 シグレは昨日で経験した出来事をトバリとカスミに説明した。神の少年については、混乱を招きそうだったので割愛した。

(規制線の中に神様がいたとか、神様にトバリさんに会えって言われたとか絶対信じて貰えないもんな……)

 そこまで説明したら確実に病院に連れていかれるだろう。シグレは心の中で苦笑いをした。

「話してくれてありがとう、少年。辛いことを思い出させてしまったね。安心してくれ。ボクたちはみんなキミの味方だ」

 トバリはシグレの手を取って、優しげに目を細めた。彼女の言葉にシグレの中から、何かが込み上げてくる。カスミがシグレの肩に手を置いた。

「シグレ!お前めちゃくちゃ頑張ったんだな!家を飛び出してきたことも、規制線を越えてきたこともガッツがなきゃできない事だぜ!お前すげえよ!!」

 カスミはシグレの背中をバシバシ叩いた。とうとう我慢できなくなってシグレは泣き出した。

「うわっ!?わるい!そんなに痛かったか!?」

 カスミが慌ててシグレから手をどけた。「やってしまった」と顔全体に書いてある。

「ちがっ……違います…。その、優しくしてくれて、嬉しくて…………安心しちゃって……」

 シグレはしゃくりあげながら二人にそう伝えた。トバリとカスミは顔を合わせて、笑った。

 ガチャリ

「遅くなった」

 ホムラが何やら手に資料のようなものを抱えて戻ってきた。ホムラの後ろに続いて小柄な少女が入室した。少女はシグレを見ると、オロオロと挙動不審になり、慌ててカスミの傍に駆け寄った。カスミの肩越しにこちらを見ている。

「おー、おかえり!もう帰ってきたのか?」

 カスミはコハルと呼ばれた少女に、気さくに声をかけた。少女は鈴の音を転がしたかのような綺麗な声で答えた。

「うん…今日は早めに事務所閉めちゃうみたいだから、帰って休んでって。昨日の夜勤のお礼だって……」

「そうか!お疲れさん!」

 カスミはコハルの小さな頭を撫でた。その手つきはホムラに包丁を向けていたときとは別人のように優しかった。少女は照れくさそうだが、幸せそうに頬を染めていた。

(仲がいいんだな)

 シグレがその微笑ましい光景を眺めていると、コハルがおずおずとシグレに近づいた。

「こ…こんにちは。癒月小春ゆづきこはると言います……」

 コハルはペコりと頭を下げた。シグレもつられて頭を下げる。

「こっこんにちは…!鷹崎時雨です…」

 よそよそしいやり取りをしていると、朗らかな笑い声が聞こえた。

「ふふ、お疲れコハル。丁度良かった。これから大事な話をするところだったんだ。キミも同席してくれ」

 トバリがそう言うとコハルはこくりと頷いた。いつの間にかソファから立ち上がったカスミが、コハルを空いた席に座らせた。カスミはシグレの真後ろに立ち、ソファの背もたれに手を置いた。

「より分かりやすいものを厳選してきた」

 ホムラが手持ちの資料をローテーブルに並べた。天板が紙の資料で埋め尽くされる。

「ありがとホムラ。助かるよ」

 トバリはこれで準備完了だ、というように勢いよく立ち上がった。そして自分の胸に手を置き、高らかに宣言した。

「さぁ!少年!これからはボクたちの番だ。キミが素性を話してくれたからには、ボクたちもキミの疑問に答える義務がある。ここはどこなのか、ボクたちは何者なのか、キミを襲った男は何なのか…全てキミに知って欲しい」

 トバリの言葉を聞くと、カスミとコハルは困惑したように彼女に反論した。

「!? おいトバリ!どういうことだよ?いくらシグレの事情が事情でも、組織の人間じゃないやつにそこまで話すつもりか?」

 カスミは声を荒らげた。

「トバリ……?どうしたの?」

 コハルはトバリの意図が分からない、というように彼女を見上げた。

「二人とも、これは滅多にない好機だ。ボクはそろそろ我慢の限界でね。これ以上ボクらの意見を無視する本部に一矢報いたいのさ」

 トバリは不敵な笑みを浮かべ、シグレに手を差し伸べた。

「少年!キミをボクら、対セレスチャル大規模銃乱射・爆破テロ関連事象特別組織『九命猫きゅうめいねこ』の対最優先事項部 一課に勧誘させてもらう!」

 そう言うとトバリは目を三日月にして笑った。彼女の瞳が妖しげに、魅惑的に光った気がした。



「え、えぇと…………」

どこか誇らしげに宣言したトバリを、困惑したようにシグレは見上げた。

「きゅ、キュウメイネコ?って何ですか…?」

「え」

……………。

「ええぇえ?!!」

「はぁ?!」

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