夜を明かすために
御涼東
第1話 運命を変える少年
目の前に広がる凄惨な光景を、私たちは受け入れることができなかった。
目の前で大切な人が死んでも、立ち止まっていられなかった。
もっと子供らしく人間らしく、遺体に縋って泣き叫びたかった。
耐え難い痛みに襲われて、身体の奥底から湧き上がる恐怖だけを理由に走り出しても脅威からは逃げられない。
それでも走った。
積み重なる死体を踏みつけ、横たわる瀕死の者の懇願を無視し、親を殺され一人で絶叫している自分より幼い子供を突き飛ばしてでも走った。
今、この瞬間、この世界で最も酷い目に遭っているのは自分だと、信じて疑わなかった。
見てる。
きっと神様が見てる。
この地上で最も可哀想な私に救いの手を差し伸べようとしている!!!
胸の前で手を組んで、瞼を閉じた。
友人に身を呈して逃がされ、路地で死んだふりをしながら祈った。
遠のく意識と水面に手を伸ばして、許しを乞うた。
横たわる肉親のもとに膝を着いて、静かに項垂れた。
血だらけの手でロザリオを握りしめ、慟哭した。
神様
神様!
神様!!!
あの日、僕らは等しく神を呼んだ。
浅ましい程の図々しさと矮小な信仰のもと、降りてきてくれると信じるしか無かった。
もし、あの日神様が助けてくれていたら
僕は両親の棺をこの目で見ることはなかったのに。
○
国土の半分が森林と化したとある島国の中央に座する大都市 『セレスチャル』は、科学と文明の発展が継続しているこの国唯一の都市である。現在人口は約900万人、国民の7割以上がこの都市で生活している。しかし、今から5年前に発生した歴史を揺るがす人災によって、セレスチャルはその至高なる都市機能を失ってしまった。
およそ五年前、セレスチャルの中央区域で前例のない規模の銃乱射事件が発生した。夏季休暇中の多くの人が往来する娯楽施設エリアを主に、突如現れた謎の集団によって引き起こされた。この事件はセレスチャルの住人だけでなく郊外からの観光客も巻き込み、凶弾に倒れた被害者の数は9万人に迫る程だった。同時刻、セレスチャルの150箇所で爆発が発生した。当該箇所は小中高校、大学、テーマパーク、居住マンション、宿泊施設、企業オフィス、工場…などである。この爆発によって命を落とした人の数は推定7000人以上。行方不明者を加えるとさらに増加する。この事件の犠牲者数は現在9万6094人。5年たった今でも行方が分からない者や遺体が見つかっていない者が多数いるのが現状である。
この事件はその後の調査で、初出のテログループによって引き起こされたことが判明する。逮捕者たちの自白によって明らかになった動機は、理解が及ばないほど身勝手なものだった。政府は一連の犯行をテロだと認定し、この大事件を『セレスチャル大規模銃乱射・爆破テロ』として報道した。そして黒幕のカルト教団の壊滅を掲げ、新たな警察組織を立ち上げた。たった数分の惨劇でセレスチャルの住人は
17歳の少年であるシグレも、この事件によって家族と居場所を失った者の一人である。
○
シグレは夢心地だった。人生で初めて訪れた有名テーマパークは、まるでおとぎ話の世界のようだった。かつて自分が描いた空想がそのまま形となって現れたかのようなアトラクションの数々に、年甲斐もなくはしゃいでしまったのを覚えている。園内は陽気な音楽が流れていて気分が高揚した。行き交う人々がみんな笑顔で、シグレの両親も笑顔で、自分もずっと笑顔のままだった。シグレの父親は有名企業の重役に就いており、生活には困らなかったが彼の忙しさのために一家で出かける機会はそうそうなかった。だから今日はシグレたち家族にとって特別な一日だ。
「お父さんお母さん!次はあれ…あのお魚のジェットコースターに乗ろう!かなり並ぶけどいいよね?僕全然待てるから!」
高速で駆け抜けるジェットコースターを指さし、両親を振り返って早口で問いかけた。有無を言わさないようなシグレの問いかけに両親は顔を合わせ、にこやかに笑った。とても幸せそうな笑みだった。
ぐにゃり
突然シグレの足元が
「…!」
吸い込まれるように上を見上げると、テーマパーク内の劇場ホールの天井が崩落し瓦礫がシグレに向かって落下してきた。足が動かない。
「シグレ!!!」
くぐもった父の叫び声が聞こえると共に身体に衝撃が走った。そのまま仰向けに倒れると、降ってきた瓦礫によってあっという間に暗闇の中に閉じ込められた。爆音によってもたらされた耳鳴りが止むと同時に、周りの人達の狂乱した絶叫が聞こえてきた。
「きゃああああーーーーー!!!」
「親子が巻き込まれたぞ!!!」
「逃げろ!!こっちの天井も崩れかけてる!!」
「早く!!逃げ………」
ドォンッ
シグレは瓦礫の下で二度目の爆発音を聞いた。その音を皮切りに連続して爆発するような音が聞こえた。シグレを様々な音が襲う。ガシャガシャと硬いものが落ちる音、パラパラと何かが降り注ぐ音、人々の悲鳴、どくどくとうるさい心音。終始呆然としていたシグレの耳に一番はっきりと聞こえてきたのは、父親が苦痛に呻く声だった。
「………は…、お、お父さん…?」
周りの音が何も聞こえなくなった頃、シグレは自分に覆いかぶさっている父を呼んだ。返事はなかった。
「…え?」
心臓が一際大きく跳ねた。頭がじくりと痛む、右目が痛くて開けられない。瓦礫と身体の隙間を縫うようにして手を動かして、右頬に手を添えると指先がべったりと濡れた。
「ひっ…!」
初めて自分が出血していることに気づき、瓦礫の中に閉じ込められていることへの恐怖をより感じた。身体が震えるのが分かった。しかし、自分はまだ生きている。では先程呼び掛けに応えなかった父は?シグレは彼の心音を確認するため身体を捩らせて右耳を父の胸部に当てた。
音は、しなかった。
「………っひ、あ…」
喉が情けなく鳴って、息が詰まったみたいだった。嘘だ。嘘だ、やめてくれ。
「……う、そだ…。あぁぁ……」
大切な家族の死を理解してしまい、シグレは錯乱した。心臓が痛い程に暴れる。呼吸が荒く不規則になる。脈も不規則になる。身体中の水分があらゆる形で出ていこうとしている。顔中をひっきりなしに生ぬるい雫が流れていくが、血か涙か汗か分からなかった。駄目だ、こんなことはあってはならない。
「───っ、お父さん!!!」
シグレは父の身体を力の限り揺すった。シグレの足に何かが当たった。はっとして下を覗き込むと、母がシグレの足にしがみついて事切れていた。
「………あ、あぁあああ…」
母の頭は瓦礫に押しつぶされ、変形していた。絶望以外の何物でもなかった。
「……か、み…さま…」
シグレは祈った。どうか今日をなかったことにしてくれ、もう特別な一日なんていらないから。家族で出かけたいなどと我儘を言った自分が罰を受ける。もうこれからは我儘一つ言わないと誓う。どうか両親を生き返らせてくれ、愛する彼ら無しでこれから生きていくことはとても耐えられないから。
「…神、さま」
シグレは胸の前で手を組んだ。どうして今日という日に。どうしてこんなことに。僕たちは何も悪いことはしていないのに。どうして僕たちが?神様は僕たちを見捨てたのか?
「…神様っ!!」
瞼をきつく閉じた。涙が決壊する。
(どうして助けてくれなかったの?)
かつてない理不尽に押し潰され、やるせない気持ちと恨み言を心に残して意識を手放した。顔すら見た事がない神を恨んだのは、人生で初めてだった。
「……っは、あ!」
シグレは悪夢によって目が覚めた。心臓が不安になるほど跳ねる。視界が上下するほど呼吸が荒い。背中にじっとりと汗をかいていて、気持ちが悪い。しかし、背中以上に顔面がびしょびしょに濡れていた。額にかいた汗と涙が顔全体にまとわりついていた。シグレは両親の夢を見るのは初めてではない。しかし、愛した彼らが死ぬ瞬間をあれほど鮮明に見せられては、耐えられるものも耐えられないだろう。はあはあと落ち着かない呼吸を、無理やり飲み込むようにして止め、ずるずると身体の力を抜いた。
「最悪だ………」
部屋に舞う埃が床に落ちた時に、音が聞こえてきそうなほど静かな部屋で、随分安っぽくなってしまった絶望を感じた。
ぎぃ、ぎしぎし
「…!」
部屋のドア越しに人が階段を上ってくる音が聞こえた。シグレは身体を強ばらせた。
(あの人が来る……)
顔が恐怖の色に染まるのがわかった。今日も一日が始まってしまう。やがてドアノブが捻られ、男が一人入ってきた。
「起きたか」
機嫌が悪いことを隠そうともしない、相手を威圧するような不愉快な声。
「来い、さっさとしろ」
シグレを絶望の館に拘束している彼の叔父は、平生と同じようにシグレを声圧という首輪で階下に引き摺った。
シグレは現在、叔父の家に住んでいた。かの『セレスチャル大規模銃乱射・爆破テロ』に巻き込まれ瓦礫の下敷きとなったシグレは、その後救出されたものの最愛の両親を失ってしまった。身寄りを失い、人災孤児となったシグレはその後3年間を施設で過ごし、突如身元引受人として現れた叔父の邸宅で暮らすこととなった。両親の遺体を探しに来ることもなく、葬式の場で彼らの棺と対面することのもなかった叔父がなぜ急に?という疑問を抱いたシグレだったが、テロ被害者に生存している親族がいたという事実に施設の職員は感激し、あっという間に見送られてしまったのだ。
ゴッッ
「あっ!がっ…」
広いリビングに骨に衝撃が与えられた音が響く。シグレは左頬を殴られ、床に崩れ落ちた。シグレの叔父は施設からシグレを引き取ったあと、彼を暴力で抑圧する毎日を送っていた。躊躇なく振り下ろされる拳に、シグレは毎度呻き声をあげることしか出来ない。やめてくれというシグレの懇願に、叔父は腹に蹴りを入れることで返事をした。髪を掴まれて無理やり顔を上げられると、まるで能面のように感情が抜け落ちた叔父の顔が目に入った。シグレは父の弟である、彼のこの顔が怖くて堪らなかった。用意されている次の拳に怯えていると、くすくすと笑い声が聞こえてくる。叔父の背後でダイニングテーブルに座った彼の家族と屋敷の使用人が、こちらを見て嘲笑していた。彼らを見て背中を
嵐が過ぎ去ったあと、叔父に引き摺られシグレは再び自分の部屋に戻ってきた。部屋と言っても、寝台に薄いマットレスが引かれている粗末なベッドが置いてあるだけで、まるで独房のような環境だ。シグレは腕を掴まれ、冷たい床に投げ捨てられた。脇腹に痛みが生じ、悶えている間にドアが勢いよく閉まる音が聞こえた。
「はぁ…はぁ…」
しんとした部屋にシグレの苦しそうな呼吸音だけが響いた。殴られた箇所を手で押さえ込み、胎児のようにまるまって痛みをやり過ごした。虚ろな瞳から静かに涙が流れていた。
(助けて…)
シグレは毎日そう祈っていた。胸の前で手を組んで、瞼を閉じる。シグレは救済を求めるためにこうすることしかできなかった。この無駄に大きな屋敷の中で、どれほど大きな声で叫んでも、外へ異常を知らせる事は出来ない。部屋から出ればきっとまた嵐がやってくるだろう。シグレは自分の身を守るため、この牢獄でいつ来るか分からない終わりを待つことしか出来なかった。
シグレは叔父が自分を恨んでいることを知っている。苛烈な虐待の最中、叔父が父への妬み
(父さんは叔父を自慢の弟だって褒めていたのに、あんなおかしな人になってしまうなんて)
確かに可哀想な人だが、シグレには叔父に同情できる理由などなかった。
気づいたらシグレは眠ってしまっていた。この部屋に時計は無い。だから今の時間が何時なのか知る術はなかった。空腹で腹が鳴るが、もう何日食事を取っていないか覚えていないので、腹時計も役に立たなかった。シグレはゆっくりと立ち上がった。朝に顔を殴られたせいで、まだ目眩がする。部屋に一つだけある開かない小窓から顔を覗かせると、屋敷の隣の雑木林が月明かりに照らされており、かすかに虫の音が聞こえてきた。どうやらもう夜のようだ。シグレは耳を澄ませた。屋敷から生活の音は聞こえてこない。シグレは今は深夜で、この家の住人は全員眠っていると判断した。シグレは深夜まで起きていることは初めてだった。今までは早く現実から逃れたくて、早々に夢の世界に沈んでいくことが多かったからだ。今は今朝の悪夢のせいで、そんな気が湧かなかった。つまり、今はこの部屋から脱出する絶好のチャンスである。
シグレは音を立てないよう、慎重に階段を降りた。暗くて足元が見えないが、転んでしまえば叔父に気づかれてしまうだろう。深呼吸し、一段一段足裏で確認しながら、ゆっくりと下って行った。無駄に長い階段を降りると、だだっ広いリビングに辿り着いた。シグレ二人を縦に並べたくらいの大きさの窓が目立つ。開いているのだろうか、高価そうな素材のカーテンが、まるで幽霊のように靡いていた。冷たい石の床に、月明かりが注いだり、いなくなったりした。シグレは裸足でリビングを歩き、ぺたぺたと音を立てながら、目的地であるキッチンへ向かった。両開きのドアを開けて、廊下を少し進むとキッチンが見えた。シグレは何度かここに来たことがある。叔父に冷水をかけられたり、淹れたてのコーヒーをマグカップごと投げつけられたり、使用人たちに残飯の処理をさせられたりと、散々な目に遭った思い出しかないが。シグレは名前も知らない調理器具が掛けられた壁を見渡して、とある道具に手を伸ばした。黒い柄と光沢のある刀身を持つ包丁だった。
シグレは包丁を両手で持ち直し、切っ先を自分に向けた。肘を曲げて、自分の喉に狙いを定めた。ぎゅ、と柄を握り締める。爪が掌に食い込むほど力を込めた。全身から、汗が吹き出してきた。は、は、と短く息が漏れた。顎が震え、歯がガチガチとぶつかり合った。誰もいないキッチンに、自ら命を絶とうとする者の、最後の抵抗の音が響く。
「…は、は、は……父さん…、母さん……」
シグレは部屋から脱出できた際には、ずっとこうしようと思っていた。
「……っ、ぐ、っはあ、はあ…」
視界がぼやける。頬に涙が伝った。怖い。
「ふーっ、ふーっ」
興奮した獣のように荒い息をあげながら、シグレは上を向いて、喉を晒した。生白い肌に汗が伝っていった。震える切っ先をそこに近づけていく。今夜、シグレはようやく、夢の中の虚像ではない両親に会いにゆくのだ。
「ふーっ、ふーっ………、っ!」
シグレは瞼を閉じ、包丁を自分に向けて振り下ろした。
辺り一面に広がる闇の中に、シグレはいた。身体が水の中に
「え?」
困惑するシグレの目に映ったのは、先程と変わらない辺り一面に広がる闇と、穏やかに揺れる水面だった。足元を見ると、足首ほどまで迫る水が揺れて、シグレの足から淡く光る水紋が生み出され、同心円状に拡がって闇へ消えていった。どうやら現実ではないようだが、先程自分の目を覆っていた物は一体何だ。シグレがそう疑問を抱くと、声が聞こえてきた。
「人間」
柔和な少年の声と、機械的なノイズが混ざったようなその声は、突然現れた白く輝く髪を持つ、美しい少年から発せられていた。少年はシグレの背後からシグレの顔を覗き、肩に手を置いて囁くようにそう言った。何の気配もなく現れた少年に、シグレは背筋が強ばった。
「えっ」
シグレは後ろを振り返ろうとしたが、何故か身体が上手く動かせず叶わなかった。しっかりと自分の足で立っているはずなのに、水中を揺蕩う感覚が消えない。少年は言葉を続けた。
「見テイタゾ、オマエノ祈リヲ」
少年がシグレの前に移動し、その全貌を顕にした。白い髪、白い肌、白い服。そして淡い光に包まれた少年は、絵画にされるべき美しさだった。しかし、少年の目は異様だった。シグレはその目を見るだけで身体が粟立ち、気持ちの悪い物を見てしまったような気分になった。その目だけで、彼が人間ではないと誰もが理解するだろう。少年は目の形を三日月に歪ませて、シグレに言った。
「オマエノ祈リニ、我ガ応エヨウ」
少年の手がシグレの頬を撫でた。生温かい。先程シグレの目を覆っていたのは、この少年の手だった。頬を撫でられた途端、シグレはぐらりと視界が傾いた。一瞬意識が飛び、水面に崩れるように座り込んだ。そんなシグレの様子を見て、少年は少し慌てたようだった。
「イケナイ。モウアマリ時間ガ無サソウダ」
そう呟くと少年はシグレの顔を掴み、シグレの目と少年自身の目を合わせた。シグレは何も理解出来ず、少年のされるがままだった。少年の目がシグレを射抜いている。
(………吸い、込まれそう…)
シグレは朦朧とする意識の中、そう思った。少年は愛おしそうにシグレを撫でながら、内緒話でもするように、シグレの脳内にこびり付かせるように言った。
「オマエヲ救ッテヤロウ。我ノ駒トシテ生キルノダ。我ガ満足スルマデ死ヌコトハ許サナイゾ」
少年は続けた。
「オマエガ掴ンダ好機、無駄ニスルナ。檻カラ逃ゲロ。サスレバ、オマエニ生キル意味ヲ与エテヤル」
少年がそう言うと、シグレの目の前が真っ暗になった。意識を失う直前、シグレはか細く尋ねた。
「あなたは…誰…?」
「………ん…」
シグレは屋敷のキッチンで目覚めた。どうやら床で気絶していたらしい。身体を起こし周りを見渡すと、先程まで握っていたはずの包丁がシグレと同じように、床に転がっていた。シグレは指で自分の頬を撫でた。
「さっきのは、夢…?」
あの少年に頬を撫でられた感覚は、今もなおはっきりと残っている。身体にも不思議な怠さが存在している。
「………死んでない」
シグレは身体中をぺたぺたと触り、自分がまだ生きていることに気がついた。あの時、包丁を喉に突き刺そうと、相当な勇気を振り絞ったはずなのに、目的が達成されておらずシグレはがっくりと項垂れた。なぜ生きているのだろうか。シグレは包丁を刺したはずの喉に手を当てた。そこには傷も血もなかった。そもそも刺していないということだ。
(まさか怖すぎて、直前で気絶したのかな)
自分が不甲斐なさ過ぎる可能性があることに気づき、シグレは再度項垂れた。目に涙が滲み、こらえようと上を向くと、キッチンの窓から空が白んでいるのが見えた。夜が明けようとしているらしい。穏やかな光に、シグレは先程の少年を思い出した。
(檻から逃げろ…。生きる意味を与える…?)
シグレにとって檻とは、この豪勢な屋敷のことだ。この劣悪な環境に長い間置かれているせいで、シグレは叔父の鬱憤晴らしの道具に成り果てた。生きる意味?ようやく訪れたチャンスを自死に消費するシグレに、生きる意味など存在しないに等しい。
「……っ」
少年の声が容姿が、頭から離れない。あの愛おしげな声の中に、有無を言わさずに相手を従えようとする圧力が込められていた。恐らく人間ではない彼の正体は何なのだろうか。
(お前の、祈りに…応えよう…………)
シグレは昨日の自分を思い出した。身体を震わせ、叔父からの暴力に怯えながら、助けを乞うている自分がいた。胸の前で手を組んで、毎日のようにシグレが祈りを捧げていたのは……。
「…………神様?」
シグレはある一つの結論に辿り着いた。もしそれが本当にだったとしたら、彼に言いたいことが山ほどある。気がつくと窓から光が差し込んでいた。これ以上ここにいると、屋敷の住人に部屋を抜け出したことがバレてしまう。シグレはキッチンから出て、リビングとは逆方向の廊下を進んだ。身体が自然とそうしていた。長い廊下の終わりに見えるのは、一際大きな扉が立ちはだかる玄関だった。シグレは下駄箱を漁り、誰も使っていなさそうなシャワーサンダルを拝借した。ふかふかの玄関マットから、石材の玄関へ降りる。足周りが途端に冷えた気がした。緊張して、脳も冷えていく。シグレは装飾が施された扉の取っ手に手をかけた。もうあの部屋に戻るという選択肢は、シグレの中に存在しなかった。神と思しき少年からのお告げによって、叔父の暴挙に黙って耐えるだけのシグレは死んだ。外の穏やかな光の中に、あの少年がいる気がしたのだ。
(オマエニ生キル意味ヲ与エテヤル)
頭の中であの少年の言葉が木霊する。ここから抜け出すことが出来たら、自分に生きるチャンスが与えられるのだろうか。人として、ちゃんと生きることができるのだろうか。シグレは鼓動が激しくなった。たった2年目を背けていただけで、すっかり未知となった世界に飛び出すことへの不安と、自分の殻を破る、異次元の行動への興奮で胸がいっぱいだった。
「……父さん、母さん…」
もしかしたら、会えるのはもう少し先になるかもしれない。シグレは深呼吸して、扉を開けた。そして、檻を振り返ることなく、朝日の中へ駆け出していった。
太陽がシグレの頭頂部を焦がしている。今の季節は夏真っ盛りだった。シグレがあの檻から飛び出して約二時間ほど、まだ時間帯は朝のはずなのに、攻撃的な暑さがシグレを襲った。シグレは今、叔父に引き取られた際に着用していた、冬物のパーカーを身につけている。裏起毛の素材の中で熱せられた肌から、高温の蒸気が首元へ抜けていき、命の危険を感じる温度にまでシグレは茹でられていた。
「あ……、あ〜………」
シグレは動く屍のように呻き声をあげた。汗が滝のように流れている。もう既に脱水症状を起こしていたが、ここで歩みを止めるわけにはいかなかった。
(進め、進め。またあの神様に会えるまで、歩き続けないと…)
シグレはどこに向かっているのか、どこに向かえばいいのかすらわかっていなかった。茹だった脳が判断する前に、つま先がひとりでに向く方向へ歩いていく。シグレは叔父に屋敷へ連れてこられてから、一度も外へ出ていなかったため、この周辺の土地の地理は頭に入っていなかった。まるで噂にしか聞かない宝を求めて、広大な砂漠を彷徨っている旅人になった気分だ。しかし、ここは無法地帯ではなく、この国随一の大都会『セレスチャル』。歩いているうちにアスファルトが清らかな水を跨いでいるのが見えてきた。あれは都市の景観を維持するための人工河川だ。シグレは無意識に水を求めて、橋を渡った。川風が吹き、汗でびしょ濡れになったシグレの肌を撫でていく。シグレは欄干に体を預け、しばしの間身体を休めることにした。ごうごうと
「……ゔ、喉渇いた…」
風にあたり体温を下げたはいいものの、今度は喉の渇きがシグレを襲った。これ以上休憩するわけにはいかなかったが、欲求が満たされず、脳が身体へ危険信号を出している。シグレはとうとう歩けなくなってしまった。欄干を支えにしてしゃがみこむ。川の水にありつこうにも、この高さから飛び込めば無事ではすまないだろう。着水できたとしても、先程から絶え間なく通過する列車の車両に轢かれるのがオチだ。万事休すか、と思った矢先、シグレは背後から見知らぬ人に声を掛けられた。
「なぁ、あんた平気か?」
シグレは肩を跳ねさせた。振り返るとサングラスを身に着けた男性が、シグレの背後に立っていた。男性は真夏だというのに黒のタートルネックセーターの上から、黒いチェスターコートを羽織っている。しかし、汗をかいている様子はなく、シグレの顔を覗き込んでいた。サングラスで顔が隠されており、年齢や人相を把握することが出来ない。シグレは何か気味悪く感じ、思わず男性を警戒するように身体を竦めた。すると、男性はにやりと笑って、シグレに一歩近づいてきた。
「えっ、えっ?」
シグレは戸惑って立ち上がろうとしたが、身体が言うことを聞かず、膝から崩れ落ちてしまった。すると、男はシグレに目線を合わせるようにしゃがみ、再び笑みを浮かべると、ここから10mほど先にある欄干の根元辺りを指さした。そこには供花らしき花束と、幼い子供が好みそうなお菓子や飲み物が、幾つか並べられていた。男はシグレに問いかけた。
「なぁ、あれ美味そうじゃね?」
「…は?」
シグレは男の質問の意図が分からず、困惑した。男はシグレの様子を気にすることなく、先程指を指した場所へ赴き、手前に並べてあった清涼飲料水を躊躇なく手に取った。そして、シグレの所へ戻ってきた。
「ほら、飲めよ。あんた今すげー顔色してる」
男はシグレに、無断で持ち出した飲料を差し出した。シグレは眼前に出された、今最も求めている物に喉を鳴らした。飲みたい、今すぐにでも。だが、あんな場所に置かれていたということは、これは………。
「………の、飲めません…。僕のじゃないです…」
シグレは首を横に振った。もしこれを飲んでしまったら、本当に人ではない何かに成り下がる気がしたのだ。このような所業を提案してきた男を咎めたかったが、体力が限界に達していたため上目で睨むことしか出来なかった。男は無言でシグレを見つめていた。その表情は読めなかった。シグレの荒い息遣いと川が流れる音だけが聞こえている。男はシグレに差し出していた手を戻し、サングラスをかけ直した。
「ふーん……、じゃあこういうのはどうだ?」
男は自身の背に手を回すと、新たに別の飲料を取り出した。そしてにやりと笑った。
「俺も共犯だ。何をそんなに気にしてるのか分からねぇが、このままじゃあんたもここで仏さんになっちまうぜ。どうせあんなとこに置いても、日が経てば片付けられるか貧乏人に持ってかれるだけなんだからよ。死にかけの人間一人救えんなら、十分有効活用だろ」
俺は違うけどな、と言いながら男は先程新たに取り出した飲料を飲み干した。甘い果物の香りが、シグレの欲求をさらに刺激する。ぷは、と飲み口から口を離して、男はシグレに再び飲料を差し出した。男の説得と文字通りの渇望によって、シグレはとうとう男から飲料を受け取った。ぱきりと蓋を開け、かぶりつくように喉を潤した。男はそんなシグレの様子を、サングラス越しに凝視していたが、シグレは気が付かなかった。
(美味しい、美味しい…)
ぷはっ、と勢いよく至福の時間を終え、シグレは肩で息をした。快感の余韻に浸りながら、ぼうっと空になったペットボトル容器を眺めていると、じわじわと罪悪感と虚しさが湧き出てきた。
「……っ」
シグレの顔が歪んだ。自分の中で大切な何かが、砕け散った気がした。
「ごめんなさいっ……」
シグレは俯いて、そう呟いた。無言で向かい合う男とシグレを、涼し気な風が眺めていた。
心に負荷を負ったが、身体は幾分か回復してきたので立ち上がった。また歩くことが出来そうだ。複雑な気持ちだったが、シグレは助けてくれた男にお礼を言おうとした。
「………?」
男は立ち上がる様子がなく、身体を小刻みに震わせていた。男の様子を不審に思ったシグレは彼に近づき、声をかけようとした。
「…ははっ!あんた、最高だ!!!」
男は突然立ち上がり、シグレの手首を掴んで叫んだ。男の顔は紅潮し、口端はこれ以上ないくらい上がっている。明らかに興奮していた。
「!?」
シグレは動揺し、逃げ出そうとした。しかし、男の力が強く振り払うことが出来ない。さらに男は逆の手を欄干に置き、シグレの逃げ道を塞いだ。シグレは男の身体の中に閉じ込められた。あまりに一瞬の出来事に、シグレは恐怖した。
(何なんだ、一体!!)
身体の自由を奪われた今、シグレは男の顔を愕然とした表情で見ることしか出来なかった。依然として気味の悪い笑顔を貼り付けた男は、よく見るとかなり若いようだ。シグレとあまり歳が変わらないように見えた。男の縦に長い体躯に見下ろされることで、抑圧された気分になり不快な緊張感がシグレに走った。男はシグレを閉じ込めたまま、ぺらぺらと喋り始めた。
「やっぱあんたいいな!俺の見立て通り、イイ顔見せてくれる…。そろそろ今までの暇つぶしじゃあ満足できなくなってきてるし、そんなイイ顔されたら我慢できなくなっちまうよ…。」
男はシグレに顔を近づけ、さらに興奮を顕にした。シグレは男の狂気的な表情に、思わず顔を逸らした。
「なあ!あんた、俺と一緒に来ないか?いや、俺と来てもらう。安心しろよ、あいつらみたいに酷くはしねぇからさ…」
そう言うと男はコートのポケットに手を突っ込んだ。見知らぬ道具を取りだして、適切に握り直す。男の親指で側面のボタンが押されると、道具の先端に白い閃光が走った。バチッという音が、その攻撃性を誇示している。
「ひっ…!」
シグレはその道具の用途が分からずとも、本能的に命の危機を感じた。
(助けて…!誰か………!)
〜♪
突然流れ出した音楽に、シグレは我に返った。男はあからさまに興醒めだという顔をして、深くため息をついた。男は胸ポケットから音の出処である携帯を取り出し、苛立ちを募らせながら通話ボタンをタップした。
「…なに?………ああ、あんたか…。仕事中だよ。いつもどーり、収穫無し…だったけどさ」
男は誰かと通話しながら、シグレに目線を寄越した。そして先程のように興奮を滲ませた笑みを浮かべた。
「最っ高にイイ顔する奴見つけたんだよ!なぁ、あんたからも許可してくれよ。この逸材を持って帰っていいかを!」
男はそう言うと同時に、シグレの手首を握っている手を自身に引き寄せた。それにつられて、シグレの身体も男側に傾いた。
(今だ…!)
シグレは男がシグレを引っ張った勢いを利用して、思い切り男に体当たりした。
「ぅぐっ」
男は短く呻くと、シグレの手首から手を離した。その隙を見てシグレは駆け出した。橋を渡りきった辺りで後ろを振り返ってみると、男は追いかけてきておらず、胸を押さえて咳き込んでいた。
(よし!上手くいった…!)
シグレはそのまま道なりに走り続けた。
○
「ごほっ…げほっ、ゔ…」
男はシグレに突進された衝撃に苦しめられていた。通話が繋がったままの携帯から、自分を案じる声が聞こえた。
「…ぐ…………は〜ぁ、あんたのせいだぜ」
男は小さくなっていくシグレの背中を見ながら、電波の向こうにいる相手に恨み言を言った。ずれたサングラスを直し、通話を続けながら、シグレと逆方向へ歩き始める。
「んで、要件は?……別に、そういうんじゃねーよ。あくまで趣味としての………あ〜、分かったって!俺は我慢が仕事なんだろ?分かってるよ…」
男はサングラス越しに遠くを見た。そびえ立つビル群が夏の空の色を反射して、輝いているのが男にも容易に想像できた。
「今から戻る。説教はそっちでやってくれ」
男はぶちりと通話を切って、乱暴に携帯を胸ポケットに突っ込んだ。戻るとは伝えたが、怒られると分かってて早く帰ろうと思う人間はいない。獲物にも逃げられてしまったし、気分転換をしないと気が済まなかった。
(ごめんなさいっ……)
男の脳内に、シグレの懺悔の描写が思い起こされた。ひとりでに口角が上がる。ぞくぞくと背筋が痺れ、男は悦に入った。
「っはは…やっぱ完璧だったな~…」
思い出すだけでこうならば、もし手に入れた時にはどうなってしまうのか。
「欲しいなぁ…あは、ははは!」
男は不気味な笑い声を上げながら、都市の喧騒の中に消えていった。
○
シグレは夢中で進み続けた。気がつけば、空に月が浮かんでいた。今日は満月のようだ。都市は夜間のためにネオンに染まり、日没前とはまた違う眩しさを纏っていた。シグレは夜が苦手だった。屋敷で過ごす夜は、嵐の最中で負った傷の痛みに苛まれ、無音の部屋で孤独に過ごす苦痛の時間だったからだ。夜がこんなにも明るくて騒がしいだなんて、シグレは知らなかった。しかし、とある地点まで辿り着くと、ネオンサインはおろか人の気配も無くなった。後ろを振り返れば賑やかな街が広がっているのに、前方はまるで別世界のようにしんとしていた。
「……?」
シグレは薄気味悪さを覚えたが、ここまで来て戻るという選択肢は無かった。死んだように色を失った街を歩いていく。月明かりが道路を照らしていた。一日中歩き続けたシグレの身体は限界だった。ずっと無視していた空腹感も顔を出してくる。こんな痩せぎすの身体のどこに、ここまで歩いてこれる力があったのだろうか。
「………………」
シグレは天を仰いだ。今止まってしまえば、もう二度と動けなくなるだろう。疲労で目が霞んでくる。輪郭がぼやけた『アクアトゥール』が昼間の時よりずっと近くに見えた。足の感覚がない。……………あれ?
(何で僕、あの家を出てったんだっけ…?)
「君、こんな時間にここで何してるの?」
突然背後から肩を叩かれ、シグレは我に返った。振り返ると警察官らしき人物がシグレに声をかけてきた。シグレは彼らの質問に答えることなく走り出した。
「あっ!こらっ、待ちなさい!!」
後ろからアスファルトを蹴る音が聞こえてくる。シグレは夢中で走った。警察官らの足音と怒号がどんどん近づいてくる。シグレはなぜ自分がこんなに必死に彼らから逃げているのか分からなかった。しかし、叔父の邸宅を脱出した時のように、身体が自然と動き出していた。ずっとそうだ。頭で考えているとは別に、何らかの力によってシグレは導かれていた。足がもつれ、警察官に追いつかれそうになったとき、シグレの目の前に
その先に、夢の中の少年がいた。
「………!!」
シグレは少年に手を伸ばし、規制線の中へ飛び込んだ。ホログラムで浮かんでいた規制線は、シグレが通過したことによって一瞬ノイズを走らせた。飛び込んだまま道路に倒れ込んだシグレだったが、警察官に捕まることはなかった。彼らを振り返ると、規制線の手前で足を止め、青ざめながらシグレを呼んでいた。
「君!!戻ってきなさい!!そっちは行っちゃダメだ!!!」
警察官たちは怯えてすらいる剣幕で、焦りを含んだ声色で必死に訴えていた。どうして入って来ないのか疑問だったが、シグレは彼らが追いかけてこないことにひとまず安心し、ふらふらと規制線の奥へと消えていった。
○
ピピピピ……
聞き慣れた電子音が室内に響き渡った。白い髪の少女はコーヒーが入ったカップをテーブルに置き、ベルトに付けられたホルスターから無線通信機を取り出し、ボタンを押した。
「やぁ。こちら対最優先事項部一課、一班班長のトバリだよ」
所属と役職を告げると、ノイズ音と共に中年の男の声が聞こえてきた。
「こちらセレスチャル:サウスウエストエリア第三交番駐屯、セレスチャル第二警察署地域課所属のウエムラです」
ウエムラと名乗った男は、随分と焦っているようだ。
「ウエムラさん、要件は何かな?」
トバリと名乗った少女はソファから立ち上がり、外履きを履きながら尋ねた。彼が連絡を寄越してきた理由はある程度予想がついていた。ウエムラが息を漏らしながら続けた。
「報告します。本日23時ごろ、一人で歩いている少年を発見。かなり消耗した様子だったので声をかけたところ、我々から逃走し、規制線の内部に侵入しました」
後一歩及ばずでしたと加えて、ウエムラは消沈のため息をついた。トバリはやっぱりね、と納得した顔をして応答した。
「了解したよ、ウエムラさん。今から対象の保護に向かう。深夜にすまないが、ボクらの本部へ報告をお願いしてもいいかな?それ以外のことは安心してボクらに任せてくれ。なんてたってボクらは侵入禁止区域のスペシャリストだからね!」
トバリが明るくそう告げると、ウエムラは了解、と言って無線を切った。トバリは無線機をホルスターにしまい、出入口へ向かった。
「トバリ、応援は?」
トバリの向かいのソファに座っていた少年が、彼女を呼び止めた。少年は真顔だったが、トバリには彼が自分を心配していることが十分に伝わってきた。トバリは顔を綻ばせ、鼻高々に言った。
「必要ないよ、ありがとう。ふふ、そんな寂しそうな顔をしないでおくれよ。すぐに戻るさ、なんてったってボクだからね!わんぱく小僧にきっちりお灸を据えて帰ってくるさ」
トバリは茶目っ気たっぷりに、少年に向けてウィンクをした。
「そうか」
少年は一言そう言って、部屋に帰ろうとした。トバリは慌てて少年を呼び止めた。
「ちょっ…、怒らないでくれ。ふざけてるわけじゃないから!」
「怒ってない」
「怒ってるじゃないか!」
少年は依然として真顔だ。しかし、トバリには彼の感情が読み取れるらしい。トバリは手を合わせて謝罪のポーズをとりながら言った。
「キミはボクに無理をしないでほしいんだろう?分かってるよ、大丈夫さ!ボクの能力はボクが一番理解してるのだから……それにホムラ、キミはボクが呼んだらすぐに駆けつけてくれるだろう?」
トバリの問いかけに、ホムラと呼ばれた少年は僅かに口角を上げた。
「ああ、早く行ってきた方がいい」
ホムラの言葉にトバリは笑顔で頷き、ドアを開けた。
「行ってきます!」
トバリは闇夜の中に紛れていった。
○
シグレは不安に襲われていた。警察官の制止を無視して規制線の中に入ったものの、そこは不気味な雰囲気が漂っていた。月の光が雲に遮られてしまったせいで、余計にそれを感じてしまう。聞こえてくる音はシグレの足音のみ。何故か壁や屋根が崩壊した建造物が点々としていた。おそらく都市の中心部に近づいているはずなのに、どうしてこんなにも寂れているのだろうか。それに一体どうしてあんな場所に規制線があるのだろうか。そして一番の疑問は、何故規制線の向こうにあの少年がいたのだろうか。少年は一瞬で消えてしまったが、シグレは直感的にこの先に彼がいるのだと思った。だから怖くても、足を止める訳にはいかなかった。
(入っちゃダメなとこに入ってるし、悪いことをしてしまっているけど、それでも僕はやらなきゃいけないんだ…)
思い返せば今日という一日は、とんでもないものだ。不思議な少年に
「わぷっ!」
突然目の前に障害物が現れ、シグレは顔面からぶつかった。跳ね返されるように尻もちをついた。
「うわっ!……いてて…」
(何だ……?)
シグレは鼻をさすりながら、顔を上げようとした。
パァンッッ
乾いた破裂音が静かな空間を裂き、バチンッという衝撃音が混じった金属音が響いた。
……シグレの足の間に、銃弾が撃ち込まれた。
「!?!? ぁ、うわあああ──!!!」
シグレの全身を死の気配が駆け上がっていった。もうとっくに体力は尽きているはずなのに、弾き出されるように特大の悲鳴があがった。シグレの額に硬い何かが押し付けられた。それが銃口だと理解するのに、時間はかからなかった。
「──っひ「貴様、何者だ」
まるで地鳴りのように低い声が聞こえた。目の前の暗闇の中に、誰かがいる。そう思った途端、月光を遮っていた雲が途切れ、満月の光が辺りに降り注いだ。満月を背にして男が立っていた。
(…………な、何なんだ……何なんだよ…!)
シグレは困惑するしかなかった。シグレに銃口を突きつけている男は、その身体に余るほどの布で作られた真っ白な宗教服を身に着け、顔周りを同じく布で覆い、目だけを露出させていた。男の目は、本来は白に近いはずの眼球が赤黒く染まっていた。明らかに世俗からかけ離れた風貌だった。男はシグレを上から下まで舐め回すように観察している。その間シグレは蛇に睨まれた蛙のように、ぴくりとも動けなかった。男はより強い力でシグレの額に銃口を押し付けた。
「質問に答えよ」
男の声にシグレはびりびりと圧を感じた。今日は一体何度命の危機に瀕さなければならないのか、とシグレは心底うんざりした。しかし、恐怖に支配されて、態度に余裕を持たせることは出来なかった。
「ぁ、ぁあ…えっと…。ま、迷子です……」
震える顎でそう答えた。嘘は言っていない。男はその異様な目でシグレを睨みつけた。
「……悪魔ではないのか?貴様は」
(あ、悪魔?)
シグレは男の言葉にそう聞き返したかったが、無言で首を縦に振り続けた。男はしばらく黙ったあと、シグレに向けていた銃を下ろした。
(た、助かった……?)
そう思った
「ひっ……!!」
目の前の男が、橋の上であったあの黒ずくめの男と重なった。そしてあろうことか、目の前の男は黒ずくめの男と同じ凶器を取り出し、シグレに向けてきた。
「!?」
(わ、訳が分からない!!!)
男はシグレを掴んだまま天を仰ぎ、芝居がかったように大声で言った。
「おお、迷える子羊よ!我が輝かしい光に従い、その血肉を灯火に変え、母神の足元を照らす道標となるのだ!!」
シグレは必死に抵抗したが、男の拘束はビクともしなかった。
「共に燦然たる世界を創ろうではないか!!」
男がシグレに向けて凶器を振り下ろした。今回は為す術がない。シグレはぎゅっと目をつぶった。そして、祈った。
(誰かっ…!)
パシュッ
シグレの背後から、何かが射出されたような音が聞こえた。シグレはその音が聞こえてからも、しばらく歯を食いしばっていたが、身体に危害は加えられなかった。
「……?」
恐る恐る目を開けると、シグレを攻撃しようとしていた男が道路に倒れ込もうとしていた。
「ひいぃっ!」
シグレは思わず悲鳴をあげた。男の眉間にはぽっかりと穴が空いていて、一目見て男が死んだのだと分かったからだ。男の力が無くなり腕の拘束が解けた。シグレは後ずさりした。心臓がバクバクと激しく鼓動している。
(た、助かった……けど、一体誰がこの人を?)
シグレは男を殺した人物が見えず、警戒した。すると、すぐ後ろから声が聞こえた。
「いや〜危なかったね」
凛とした雰囲気を纏う女性の声だった。振り返ると、白い髪の少女がシグレを見下ろしていた。少女の太ももに拳銃がしまわれているホルスターが見えた。発砲したのは彼女だったようだ。少女はふっくらとした健康的な頬や丸めの鼻が可愛らしい。しかし、迫力のある大きな目からは少し圧力を感じる。少女は笑みを浮かべつつも、三角形に似た短い眉を寄せ呆れたような表情をシグレに向けていた。少女はシグレに手を差し伸べ言った。
「怪我は無いかい?少年」
にぱっと笑い直した少女から、危害を加えてきそうな気配は無かった。シグレは助かったことに安堵し、命の恩人である彼女の手を取ろうとした───
「ソノ娘ダ」
あの少年が突然現れた。少年はシグレの肩に手を置いて、こちらを覗き込んでいた。シグレは彼を振り返った。まるで時が止まったかのように、周りの景色がスローモーションに見えた。少年は目の前の少女を指さして言った。
「ソノ娘コソ、オマエノ生キル意味」
少女の大きな瞳に、シグレが映っている。彼女が僕の──生きる意味?
「コノ娘ニ降リカカッテイル呪イヲ解ケ。サスレバ、オマエに『夜明ケ』ガ訪レルダロウ………」
シグレの意識が遠くなっていく。少年が消えていく気配がした。シグレは慌てて彼に問う。
「ま、待って!あなたの…正体……は…」
そこでシグレの意識は途切れた。
この満月の夜から、無力な家出少年の運命の歯車が動き始めた。
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