第3話

17時59分。

昼でもなく夜でもない曖昧な時間。

夕方の黄昏時に「部活動」は始まる。


廊下の窓から、夕暮れの光が差し込んでくる。

明るいはずの茜色の日差しなのに、こんなに寂しく感じられるのはなぜなんだろう。


しんみりした空気の中を、私と先輩は二人で歩いた。

部活勧誘の時に持っていたあの古いポラロイドカメラを持っている。


誰もいない校舎。

遠くから聞こえる部活動の声。

誰もいないのに誰かのいる気配。

大人でもなく子供でもない、思春期の生徒が集う場所。

現実と空想の境界さえも曖昧になる茜色の時間。


そんな曖昧な場所に「やつら」は現れる。


「あ、ここだよ」


先輩が教室の扉を開ける。

そこに、いた。


教室のとある机の上に、ぼんやりとした黒い影のようなものが浮かんでいる。

先輩が「怪異」と呼ぶ存在だ。


それは黒い人影のようにも、棒のようにも見える。

たくさんの影が集まっているようにも見えるし、巨大なひとつの影ようにも見える。


捉えどころのない曖昧な存在だけど、ひとつだけわかることがある。

あれは、この世界には存在してはいけないものだ。



あれが何なのか、私にはわからない。

だけど子供のころから何度か見えることがあった。


ある時は教室の片隅に。

ある時は大通りと裏路地の間の隙間に。

ある時は私の家の中に。


何かと何かの境界線となる場所にそれらは現れた。

それが私にしか見えていないとわかったのは5歳の頃。

その頃にはもう親からは気味の悪い子として扱われていたし、私も誰にも話さないようになっていた。


だから、先輩にも見えると聞いた時には本当に驚いた。

私以外にも見える人がいたんだって。


ちなみに、それの正体は先輩もわからないらしい。

わかっているのは、それらは曖昧な場所にいるということ。

放置すればそれはやがて誰からも忘れ去られて消えてしまうということ。

そして、それが取り憑いている物も、一緒にこの世界から消えてしまうということ。


教室の机に浮いていたその「怪異」は、私たちに気付いたのか、あるいは最初からずっとそうしていたのか、奇妙な声を発していた。


「わわわわわあああああいいあいあいあいあいあ」

「おおおおおおおおお」

「みみみみみえええええええ」


そんな怪異に先輩は平然と近づいていく。


「何かを訴えたいんだろうけど、相変わらず何を言ってるかわからないね」


先輩はそう言っていたけど、私にはわかってしまった。


「わたし」

「を」

「みて」


それはきっと、誰かの魂の叫び。

私と同じ願い。


「うん、わかったよ」


私はポラロイドカメラを構え、シャッターを切る。

バシャッとフラッシュ音が鳴り響き、強烈な光が黄昏時の教室を真っ白に染め上げた。

やがて古臭い排出音とともに、薄いポラロイド写真が吐き出される。

写真には何もない机だけが映っている。顔を上げると、そこにはもう真っ黒な怪異はどこにもいなくなっていた。


「終わった?」

「はい」


怪異は曖昧な場所に現れる。

だから写真という確固たる形に残されると消えてしまう。

オカルトは得意じゃないけど、観測すると消えるなんて、ちょっとSFみたいだなと思う。




この世界には、幽霊や怪異など、曖昧なものが存在している。

黄昏の時間は、かつては「逢う魔が時」と呼ばれていた。

昼と夜が混じりあって何もかもが曖昧になった時、その境界をすり抜けて「奴ら」がやってくる。

曖昧な時間は、曖昧な奴らの時間だ。


いるのかいないのかわからない存在。

まるで私みたいだ、なんて思うのはおかしいだろうか。


「ところで今度はどんな怪異だったんですか」


写真には何も写っていないから、何を依代にしたのか判断できない。

先輩が得意げな顔で解説を始めた。


「なんか最近シャーペンの芯がよくなくなるんだよね~って噂を聞いたんだ」

「……」

「確かにシャー芯ってまとめてシャーペンの中に入れてるから、残り何本なのか曖昧でよくわかってないよね。それで、ははあ、これは怪異の仕業だなって、ビビビッと来たんだ」

「………………」

「怪異はそういうところに現れるんだよねえ。やはり私の推理は間違っていなかった!」

「………………はぁ」

「わあ、すっごい呆れた顔してる。こういうのが大切なんだからね」

「わかってますよ」


先輩がそういう人だってことは。


机の上をよく見てみると、暗くてよくわからなかったけど、黒いシャーペンの芯が何本か転がっていた。

よく見るまで気付かなかった。たった今、目の前で自分が救ったはずなのに。


誰にも意識されず、いてもいなくても変わらない存在。


人々から忘れられた物が怪異となるのなら、私もいつか忘れられた時に、怪異となるのだろうか。

誰にも聞こえない願いを叫ぶだけの存在に。


「誰にも気づかれない人はいても、いなくてもいい人なんていないんだよ」


まるで私の心を見透かしたみたいに先輩が言う。


「シャー芯だってないと困るでしょ?」

「私はシャー芯みたいな存在ってことですか?」

「リラちゃんは私の大切な大切な後輩だよ~~~」

「鬱陶しいので離れてください」


そう言った私の声に力はなかった。

だからってわけでもないだろうけど、先輩も私に抱きついたまま離さなかった。


「人から大切にされてきたものって、なんだかロマンを感じない?

 そこに詰まった持ち主の思いとか、愛情とか、目には見えないけどそういったものは確かに残されていて、その子を守ってくれている。そんな気がするんだ」

「このポラロイドカメラも相当古いですよね」

「うん。おじいちゃんが遺してくれたんだ」


そう語る先輩は、どこか遠くを見ていた。

普段の鬱陶しくてうるさい先輩とはまるで別人みたいで。


先輩も、どこか安定しないような感じがある。

ふわふわと落ち着きがなくて、ふらっと部室にやってくる。

自分のクラスにいるときの先輩は、キラキラと輝いていて、私とは違う世界の住人みたいなのに、部室にいる時の先輩はくすんだ太陽のようにぼんやりと私の隣に存在している。

いるのかいないのか分からない蜃気楼のように……。


ふと先輩の写真を撮った。


バシャっと世界を切り取る音がして、薄く引き伸ばされた現実が吐き出される。

どんなに不確かな景色でも、写真の中では鮮明に映る。

曖昧なものは存在できない。

そこに写っていたのは……


「お? どうしたのリラちゃん。私を撮りたくなっちゃった?」

「なんとなくです」


夕暮れの教室を背景に、横を向いた無防備な表情の先輩が写っていた。


「……まあ、そうですよね」


何を考えていたんだろう。

もし先輩が写っていなかったら、なんて……


「うーん、やっぱ私って美少女だなあ。でも油断してる顔を取られるのはちょっと恥ずかしいなあ~」


写真の中の先輩は、どこか遠くをみていた。いつもの明るい先輩とは違う。

先輩はこんな顔もするんだ。


クラスにいる先輩。部室にいる先輩。明るく笑う先輩。寂しげに笑う先輩。

……私と話す時の先輩。


どれが本当の先輩なんだろう。

曖昧な存在は、同じように曖昧な存在でなければ見ることができない。

私が怪異を見れるように、先輩も怪異を見れるのは──


「リラちゃん、帰ろ」

「はい」


別にどうでもいいことだ。

先輩はここにいるんだから。




校舎を出ると、もう黄昏の時間は終わっていた。

曖昧な時間が終わり、夜の時間がやってくる。

なんだか怖くて、少し寂しい。そんなふうに思っていたら、先輩が手をつないできた。


「嫌だった?」

「別に、嫌とは……言ってないです……」

「ふふふ~、ツンデレさんだ~~~」

「……うっざ」

「あ~私のリラちゃんがツンデレ可愛いな~~~」

「うっっっっっざ!!」


そう言いながらも、優しい弱さでつなぐ先輩の手を、私は振りほどけない。


どうして先輩は私なんかに構うんだろう。

どうしてこんなに良くしてくれるんだろう。

どうして私は、こんなに先輩のことを……


自分の気持ちも、先輩の気持ちも、何もわからない。

何もかもが曖昧でわからないままだけど、つないだ手の温かさだけは本当で、だから少しだけ握る手のひらに力をこめる。


先輩は前を向いたままなにも言わずに、手のひらに込める力を少しだけ強くしてくれた。

そんなことで嬉しいと思ってしまう感情は、心のどこから来るんだろう。


なにもわからない。

世の中は曖昧な事ばかりだ。

写真のように切り取って確認できたら、少しは生きやすくなるんだろうか。


わからないまま、先輩と手をつないで家に帰る。

夕日はビルが作る地平線の向こうに沈み、もうすっかり夜の時間になっていた。


月が綺麗な夜だった。

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私と先輩とポラロイドカメラ ねこ鍋 @nekonnabe

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