第15話 結局は、惚れた方の負けなんだよな
それからと言うもの、黒崎くんはたまに屋上で顔を合わせたり、用事があってデスクの近くに寄る時など私に声を掛けてくるようになった。
初対面の印象は“最悪な男”だったけど、話してみると意外と気さくで、ごつい身体に似合わず笑顔は年相応で可愛げがあった。
有村ちゃんはあの一件があってから完全に黒崎くんに対して苦手意識を持ってしまったらしく、彼がデスクに寄るたびに顔を引き攣らせている。
私は部活動で精神を鍛え上げられたせいもあってか、多少きつく言われたくらいではもう何も感じない。
社会人生活の中で嫌なことが一度もなかったわけじゃないけれど、自分がどうすればストレスを溜め込まずに生活できるのかを知っている。それが大きなアドバンテージだった。
仕事に行きたくないと思う日こそ早く起きて、出勤前にひたすら走る。
黙々と身体を追い詰めるだけで、頭の中にある雑念はいとも簡単に追い出すことが出来た。
有村ちゃんは……青澤ちゃんのように根が温和でも、瀬野さんのような柔軟性を持っているわけでもないので、人との折衝はかなり苦手そうに見える。
強気な態度は弱さの裏返し。それに気付くことができたのは最近の話だ。
わかっていたはずだったのに、やっぱり今回の件は私の配慮不足だった。
山里マネージャーにもサポートを指示されていたのに私がそれを怠った。先輩社員としてもっと目を配るべきだったのに。
発端は彼女のミスだが、私にも原因がある。そう思うと――ほんの少しだけ苦さの残るような出来事だった。
瀬野さんが欠勤しだしてから数日後、制作部の新山くんが私たちのデスクに顔を出した。
「三ツ矢さん、お疲れ様。噂で瀬野さん休んでるって聞いたんだけど、体調悪いの?」
心配そうに、と言うよりはこれはチャンスとばかりに目を光らせている新山くんに苦笑いして左右に首を振る。
「いや……本人じゃなくて家族。心配しないでって言ってたから大丈夫だよ」
新山くんの顔を見ていると先日、瀬野さんに言われた言葉を思い出す。
――ねぇ、新山さんになんか言ったでしょ。
頸動脈に食い込んだ親指の感触。息が止まるほど強い力ではなかったけれど、流石の私も息を呑んだ。
あの時、瀬野さんは表情ひとつ変えなかったけれど、それが逆に彼女の内に燻る憤りを表していたような気がしてならない。
あれ、怒ってたよなぁ……多分。
「ちょっと連絡してみようかなぁ。迷惑かな、どう思う?」
「さあね、わかんない。自分で決めて。私のこと巻き込まないでよ」
「冷たいこと言わないでさ、応援してくれてもいいじゃん」
「……嫌だよ、仲を取り持つのとか私苦手だし」
彼が、探りを入れに来たということはわかっていた。おそらく連絡するための口実が欲しいのだろう。
新山くんも抜かりない男だ。いつの間に瀬野さんの連絡先を入手したのだろう。
最近まで青澤ちゃんに熱を上げていたくせに、相手にされないとわかればこれだ。
見た目さえ良ければいいのだろうか。内面なんて、何も知らないくせに。
あんなにも我の強い女、彼の手に負えるとはとても思えない。
連絡してみたら? なんて気軽に言ったらきっとそれをダシにされる。
それが瀬野さんに伝わってしまったらまた何て言われるかわからない。だから私は黙ってモニターに向き直った。
こういう時、どういう心構えでいたらいいのかわからない。
自分と関係のある相手がまさしく今目の前で口説かれようとしているのに、そんな状況下であっても私は何も口出しできない。
これ以上近づくことも、離れることもできない。
でも確かに私たちは繋がっている。少し引けば容易く千切れてしまいそうな、あまりにも頼りない糸で。
その事実がどうしようもないほどに私の胸を締め付ける。それこそ、息も出来なくなるほどに。
新山くんが去った後も、頭の片隅にいつだって存在している彼女が、目の前の仕事を押し除けて思考を占領してくる。
どんなに嫌なことだって、朝のひんやりとした空気を感じながら走り込むだけで、いつだって綺麗さっぱり忘れることができたはずだった。
そこが自分自身の気に入ってる「いいところ」だったのに。
憎たらしいけれど、あの女に関してだけはどうもそうは行かない。
負けを認めた方が楽になれるかと思った。でも実際は、もっと苦しくなった。
それでも何かを変えようと先に進めるほど、もう私は無鉄砲には生きられない。
顔が見たい。……声が聞きたい。
元気にしてるだろうか。今、彼女には頼れる相手はいるんだろうか。
「あー三ツ矢さん、忙しいところごめんね。山里さん、今どこにいるかな」
ぼうっとしていたところに突然声をかけられて慌てて振り向くと、人事部の浅野マネージャーが封筒片手に立っていた。
彼は四十代半ばの男性社員で、有村ちゃんがこの部にやってくる前にもしょっちゅう山里マネージャーと打ち合わせをしにうちの部に顔を出していた。
「山里マネージャーならうちの部長と打ち合わせ中ですけど、何かご用ですか?」
「瀬野さんに休暇の申請書類送るんだけど、せっかくだから何か一緒に送る物あるかなと思って」
「あ、それなら私から渡しておきますよ。あとで投函しときますんで」
そう言って手を差し出す。すると浅野マネージャーは笑って私に封筒を手渡した。
「そう? 悪いね。じゃあよろしく頼むよ」
そう言って足早に彼が立ち去った後、じっとその封筒の宛名を見つめる。そこに記されていた住所は、私がよく行く彼女のアパートのものではなかった。とすれば、実家の住所か。
「神奈川か……」
彼女の出身地すら私は知らなかった。住所を見ると、私が通っていた大学の直ぐ近くだ。ここからは少し離れているけれど、一時間ちょっとで行ける距離。
封筒をじっと見つめながらそんなことを思っていると、山里マネージャーが戻ってきた。
「あ、山里マネージャー。人事の浅野マネージャーが、瀬野さんに送る物、何かあるかって言ってたんですけど」
そう言って封筒をひらひらさせながら問いかける。すると山里マネージャーは少し考えるようにした後、
「今のところは何もないかなぁ」
なんて言ったから、私は笑って頷いて、「じゃあ、あとで投函しておきます」と言いつつバッグにこっそりと封筒を忍ばせた。
十八時に退勤を済ませて足早にオフィスを後にすると、もう一度バッグから封筒を取り出してスマホに住所を打ち込んだ。
予想通り、私が通っていた大学の直ぐ側に赤いピンが立ったので、家とは反対方向の電車に乗った。
チャットアプリを起動させて、「瀬野玲」を探す。チャットは、私が送った適当なスタンプで終わっていた。
――人事から書類預かったから、今からあんたの実家に届けに行くから。
本当はこんなの良くないとわかっている。個人情報の悪用だ。でも、こうでもしないと彼女の顔を見に行くことなんてできない。
我ながら情けないと思う。こんな風でしか、私は彼女の元に向かうこともできない。いちいち言い訳しなければ、心配もできないなんて。
電車に揺られている途中でメッセージが既読になった。
――今から? もう向かってるの?
――ついたら電話する。
断られるのが怖くてスマホの電源を切った。既読にさえしなければ、断られたことにはならない。
顔をみたらすぐに帰るつもりだった。ただ私が安心したいだけだ。
いつもみたいに笑ってくれればいい。なんでわざわざ来たのって、いっそ馬鹿にしてくれても構わない。
私の心の中、今まで誰もいなかったはずの場所に今は彼女がいる。
そこにいたはずの存在が突然離れただけで、私の心はたちまち不安定になる。
馬鹿みたいだ。
普段から連絡を取り合うような間柄でもない。
ただ戯れに身体を重ねて抱き合って、足りない何かを埋め合っているだけの関係性でしかないのに。
「結局は、惚れた方の負けなんだよな……」
今、私はこんなにも彼女を必要としている。
一体、どこで間違ったのだろう。
どこまで時間を巻き戻してやりなおせば、私たちは正しい関係性を築けた?
ほんの少しでも良いから、あんたも私を思ってくれていたら良いのに。——なんて、バカみたいなことを、真剣に考えている。
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