紅き環は語る、終わりなき夜を

 気だるげに、ヨノカは自分の身体を見つめる。

 巻かれた包帯の下――皮膚の下で何かが蠢いているような感覚があった。

 血管の中を何かが這いずり、肉がうごめくような……そんな気色悪い感覚。


 酷く、悍ましい気分になってくる。


 ずっと感じていた飢えが、まるでない。

 体の重さも、息苦しさも消え、むしろ心地よいほどだった。


 これは彼女の手料理のおかげで心が晴れやかになったから……なんて、そんな楽観的な事が言える程、ヨノカの人生は幸せな物ではなかった。


 ヨノカは包帯をそっとずらし、腕の傷を確認する。


 そこには大小様々な無数の小さな切り傷があった。

 ガラスの破片か何かで切った程度の、浅い傷口。


 ――その傷が、みるみるうちに消えていった。


 正直、自分の目を疑ってしまう。

 ヨノカの治癒力は普段なら昼間でも人間並み、夜ならむしろ人間より遅い程度の物でしかない。

 だというのに、今の治癒速度は――まるで吸血鬼の様だった。


 胃の底がひっくり返るような嫌悪感が襲う。

 これなら、虫が体内を這いずり回っていると思ってた方がまだマシだった。


 原因は、わからない。

 だが、自分の体が『何か』に変わってしまったことだけは確かだった。


 思い当たるフシがないわけではない。


 仮説その一――一度死んだことによる体質の変化。

 仮説その二――、最悪な兄弟喧嘩の末、その血を浴びて突然変異した。

 仮説その三――バックルが砕けたことによる副作用。


 どれも確証はない。

 だが、どれも『ありえない』とは言い切れない程度に怪しかった。


「……恩知らずになるけど、早く立ち去らないと」


 このままでは、まずい。

 もしも自分が無意識に吸血していたなら。

 もしも誰かを、あの忌々しい『使徒』に変えてしまっていたなら。


 ――考えたくもない。


 最初は最悪の妄想だったが、今となってはそれが現実になる事を否定出来ない。

 早く、この場を離れなければ。

 助けてくれたキャルを、この手で殺してしまう前に。


 ヨノカはベッドの縁に手をつき、立ち上がろうとする――が、


 「……ッ」


 足に力が入らない。


 膝は震え、関節は軋んで痛みが走る。

 それでも無理に立とうとしたら、体を支えきれず膝が折れた。


 立つだけ、そして歩くだけ、頑張って出来るだろう。

 だが、どこかに遠くに立ち去る程の余力は、今の自分にはなかった。


 「クソッ……」

 苛立ちからヨノカは拳を握る。


 ――忌々しい。


 渋々ベッドに戻り、目を閉じる。

 せめて少しでも早く動けるようにするために。

 幸か不幸か、これだけの重症を負っていても治癒の見通しが立つ身体であった。


 眠りに身を任せながら、ヨノカはただ、暗闇の中で己の血を呪った。




 夢を見た。


 人々の悲鳴とそれを嘲笑する様な高笑い。

 何かが壊れていく音と共に聞こえる、羽ばたきの音。

 焦げ臭い香りも、子供の鳴き声も、徐々に消えていく。

 その夢の中で、人々の命の音は、あまりにも儚かった。


 自分を聖人君子だと思った事は一度もない。


 だから、人間に対し恨みがないなどとは口が裂けても言えない。

 それでも……吸血鬼あいつらと同じ事はしたくない。

 あいつらを下劣と思う感性があるからこそ、人と呼ばれる事を喜んだ。


 無垢なる子供達の声が、聞こえた。

 ヨノカにとって人生の転機であり、そして死に方を決めた理由。


 結局、誰も救えなかった。

 けど……それでも、彼らは言ってくれたのだ。

『ありがとう』

 その言葉は、今でも胸に残っている。


 だからこそ、最後まで戦おうと決めた。

 あんな末路になる子供達を減らす為に。

 笑顔となる子供達を増やす為に。


 だから――。


 だったら……どうして俺は生きているんだ?

 最後まで生きて、戦った俺が生きている意味は、もうないだろう?


 そう言われたら、確かにそうだった。


 自分はどうして今、生きて――。


 はっと我に返り、ヨノカは目を覚ました。




 夢を見ていた。

 目覚めたから、今は現実のはずである。


 だというのに、夢の中と似た様な、空気が広がっていた。

 鼻腔を突く、焼けつくような鉄の匂い。

 それは――血の香りだった。


 悍ましい程に濃厚で、絶望にてより色濃く芳醇となる赤い液体。


 自分の中に流るる血と同類の香りと、つんざくような悲鳴。

 そして懐かしくもが外から感じられた。


 ヨノカは慌ててベッドから起き上がり部屋を飛び出した。

 日は完全に沈み、静寂の中に混じる悲鳴が、不気味なほど鮮明に響く。

 すっかり、あいつらの時間となっていた。




 外の世界は、見慣れぬ物だった。

 鋼鉄のゲートもなければ、機銃も配備されていない。

 ドローンが飛び回ることもなく、吸血鬼警報を知らせるアラートの音も聞こえない。

 こんな不用心な都市は、ヨノカの知る常識ではあり得ない。


 この『村』はヨノカの知る『都市』とは、あまりにもかけ離れていた。


 家はすべて木造。

 バリケードは申し訳程度に組まれた木の柵。

 頼りない石レンガの矢倉が、唯一の『防御設備』といったところか。


 だが、何よりあり得ないのは――夜空。


 月が違う。星座が違う。

 そんな細かいことはどうでもいい。


 問題は、その月の隣に浮かぶ『それ』だった。


 ――真紅の環。


 血のように朱く光る環が、月の隣に佇んでいる。

 まるで日蝕の様に、環だけが輝き浮いて見えるそれは、まるで虚空の月の様。


 それが何なのか、まるで分からない。

 だが、その環を見つめた瞬間、内臓を直接握られたような感覚が走った。


「……気持ち悪い」


 頭の奥がズキズキと痛む。

 血が逆流するような感覚。

 胸の奥に眠る『何か』が、押し上げられそうな嫌悪感。


 ようやく、理解する。

――ここは、自分の知る世界ではない。


 それでも、同じものもあった。


 炎。

 焼け焦げる木の匂い。

 崩れ落ちる家屋の音。

 助けを求める声と、それを掻き消す獣のような咆哮。


「……地獄だ」


 ここは異世界。

 だけど、元の世界と同じ様に、人類が吸血鬼の餌とされる地獄だった。


 ヨノカは、一際炎と騒音の激しい場所を目指し、駆けだした。




鮮血の環ケイル・リング

 この空に浮かぶの血の指輪こそが、この世界の支配構造を示す物。

 この世界が、吸血鬼に支配された証だった。


 流血の環の輝きは強い程吸血鬼の力を高める。

 今日の様な輝きの強い日は、吸血鬼達の活動が活性化される合図でもあった。


 とは言え、今日みたいな環が輝く程度なら、それほど珍しい事ではなく月一で訪れる。

 鮮血の環が真に輝く時は、夜の黒さえも赤で塗りつぶす。


『エクリプス・ナイト』

 今日の様な環の輝く夜を、そう呼ぶ。

 夜に赤が差す時間、赤に蝕された夜。

 この時間は吸血鬼達にとって微睡みに近い心地よさを与える。


 ただしその微睡みは、吸血鬼として確立した存在の場合である。

 なり立て、紛い物、そして下等な吸血鬼。

 吸血鬼として下の下に位置する奴らはこのエクリプス・ナイトにて自我を忘れ、暴れだす。

 つまるところ……夜に、酔うのだ。


 夜を支配する吸血鬼の癖に。


 この町に来た吸血鬼も、狂い酔った一匹であった。

「ききぃ……きぃやぁはははははは!」

 万能感に酔いしれ、恍惚とした表情で口元から血を垂らす。

 美形の多い吸血鬼らしくなく、ガリガリに細くイってしまっているその目はまるで薬中のジャンキーの様。


 だが、そんな酔いしれた最下級吸血鬼でさえ、人類にとっては絶対の脅威だった。


 ターン、ターンと、マスケット銃の音が響く。

 吸血鬼用の武装である安物の単発式長筒数丁。

 それだけが、この村の命綱であった。

 そんな最後の希望さえも、吸血鬼は目も向けずに避ける。


「遅い遅い遅い遅い! 雑魚過ぎる! もっと抵抗しろ! 狩りにならんではないか!」

 弾丸を避けながら発砲する男の目前に立ち――男の喉笛を描き切った。


 噴き出す血を浴び、更に酔いしれていく。

 まるで世界は自分を中心で回っているかの様に。


 そんな時だった。

 その男が、現れたのは。


 この村はそう大きな街ではない。

 だからそいつがキャルが面倒見ていた行き倒れだと村人は気付いた。


「あんた! すぐにここから逃げろ! 早く!」

「どこでも良い! ここを離れろ!」

「吸血鬼が居るんだぞ! 見てわからないのか!?」


 だけど男は村人達の叫びなど気にもせず、ゆっくりとこっちに歩いて来た。

 行き倒れらしく、力なくふらふらと。

 だけど……その歩き方は妙に迫力があった。


「こいつが吸血鬼? まあ、そうか。貴方達が言うのならそうなんだろう」

 良くわからない事を男は口にする。

 まるで、初めて吸血鬼を見たかの様だった。


 その男の様子があまりにも堂々としていたからだろう。

 吸血鬼はイキの良い獲物と考え男に狙いを定めた。

 町民達は慌ててマスケット銃を構え、男を助けようとするものの、一瞬で吸血鬼は男の傍に。

 そして吸血鬼は、その手を大きく振りかぶった。


 酔い狂った程度の吸血鬼とは言え、人間程度肉塊にする程度の力はある。

 人間が、その一撃を受ける事など出来る訳がない。


 だから皆遠くから銃や矢で攻撃を主体とし、近づかれたら死を覚悟し……助ける事も、助かる事も諦める。


 だからみんな、何時もの様に行き倒れを助ける事を諦めた。

 そもそも、この距離ならもう銃でも撃とうものなら確実に巻き込んでしまう。

 もう、出来る事は何もなかった。


 そうして彼らは、その行く末を見届ける。


 男に向かい吸血鬼の腕が振り抜かれ――気づけば、吸血鬼は仰向けで地面に倒れていた。

「はれ?」

 きょとんとなる吸血鬼を見下ろしながら、男は足で器用に傍に転がったマスケット銃を回収。

 そしてそのまま吸血鬼の口内に突っ込み、パァンと、乾いた音を披露した。


「ぎ、ぎぃいいいいいいいい!」

 銃口の所為で叫べず、悲鳴にならない悲鳴をあげる吸血鬼。

 だけど冷静に男は銃の側面に添えられた予備弾丸を装填し、二発、三発と次々に銃弾を叩きこんだ。


「すまない。吸血鬼というのはどうしたら殺せる? あいにく俺は記憶喪失らしくこいつらの事を知らないんだ」

 何故かわからないとてもバツの悪そうな顔で男は尋ねて来た。

 全くもって意味がわからない。


 もう誰が見ても嘘をついているとわかる仕草だし、一体どこに罪悪感を覚えているのかもわからない。

 わからないが……一つだけわかった事があった。


 絶望が、終わりを迎えたという事である。


 恐怖に駆られた吸血鬼の瞳が見開かれる。

 次の瞬間、肉体が崩れ、無数のコウモリへと姿を変える。

 これだけ痛い目に遭ったから、どうやら酔いも覚めてしまったらしい。


 コウモリはまるで悲鳴を上げるように羽ばたき、そして闇夜へ消えた。


「うわっ! そんな事も出来るのか。……すまん。逃がしてしまった……」

 そう、男は言った。


 自分がこの町を救ったという自覚がないらしく、男は今にも土下座をしそうな勢いだった。

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