捨てられた世界の片隅で
彼が覚えている幼少期の記憶は、そう多いものではない。
辛過ぎて忘れた……という事もない訳ではないのだが、もっと別の要因がある。
要するに、似た様な経験しかしていのだ。
簡単に言えば、迫害。
人間に嫌われ、恐れられ、そして追われるといった内容。
彼の過去は、うんざりする程同じ事の繰り返しであった。
そんな中でも思い出すのが、母親との大切な記憶。
それが自分が何歳の頃かは忘れたが、ある日自分は――母に首を絞められていた。
「お前なんかいなければ……お前の所為で……私は……私はっ……」
睨むというには弱弱しく、怒りというにはあまりに不条理な、そんな泣き顔だった。
父に捨てられ、自分の所為で二度と子も産めぬ体となった母の恨みはもっともなものだと思う。
だから、自分は抵抗しなかった。
なのに……何故かわからないけど、母は自分を殺さなかった。
その翌日の事だった。
母が、首を吊ったのは。
どうでも良い過去ばかりだが、この時の事だけは、今も後悔している。
あの時死んであげれたら良かったなと――。
ふと、目を覚ますと見知らぬベッドの上だった。
木の温もりを感じる、質素ながらも落ち着いた作りの内装。
当然見覚えなんかある訳ない場所で、何故か上品なベッドに横たわっていた。
更に自分の身体には丁寧に包帯が巻かれていた。
「……こ、これは……」
そんなはずがない。
そんなこと、あるはずがない。
だけど、他に説明がつかなかった。
誰かに……介抱された。
何度も頭の中で、それを否定しようとする。
期待する度に裏切られたヨノカにとって期待というのはどんな毒よりも苦しい物だからだ。
そうして必死に否定し他の可能性を模索してみるものの、他の可能性なんて、ある訳がなかった。
助けられるなんて、自分には縁のないことだった。
それなのに――。
経験した事のない状況に、ヨノカはただただ戸惑いを覚える。
胸の奥から、温かな気持ちが湧いてきて、苦しかった。
ガチャっと、扉が開く。
「おや、目覚めまし……あの、もしかして、どこか痛みますか?」
不意に聞こえた声に顔を上げると、部屋に入ってきた女性が、驚いたようにこちらを見つめていた。
それもそのはず、ヨノカは、静かに涙を流していた。
「いえ……ただ……温かくて……」
知らない感情に、ヨノカは困惑を覚える。
今だけはどうしても、この涙を止めることができなかった。
色々な意味で頭を心配された後、ヨノカは頭と体の包帯を変えられ、もう一度寝かされた。
本当の事を言えば、出て行きたい。
迷惑をかけないうちに、すぐにここを立ち去ろうとした。
自分なんかを庇っている事がバレたら、村八分では済まされない。
だけど、彼女は思ったよりも強情で、自分の怪我がもう少し良くなるまでは部屋から出さないとまで言われてしまった。
「とりあえず、何か食べ物を持ってくるわ。大したものはないけど、期待しないでね。それと……私の名前はキャル。あなたの名前を聞いてもいい?」
笑顔で自己紹介をする彼女に、ヨノカは信じられない物を見る様な目を向けた。
「……俺のことを、知らないのか?」
「え? もしかして有名な人なの?」
キャルは困ったような顔を見せる。
それは、驚きというより、まるで頭のおかしい人を見るような目だった。
「……ヴォイドと呼ばれている。」
それは、母がつけた忌み名。
いなくなれと、消えてしまえと、願った母からの贈り物。
それを戒めとして、人に名乗っていた。
「……知らないわ。そんな名前の人なんて……」
「そう……か。もう一つは、ヨノカだが……」
こちらはもっと有名である。
父がつけた名。
吸血鬼なのに、夜を生きられない自分に。
夜に亡骸となる者――『
吸血鬼からも人間からも知られた忌み名なのだが、キャルはこちらも知らないらしく首を横に振った。
(人類の敵として、指名手配されていたはずなのに)
ある意味世界で最も有名な存在だったという自負さえある位だ。
なにしろ人、吸血鬼両陣営から命を狙われていたのだから。
「貴方の事は知らないけど、ヨノカというのね。いい名前じゃない」
「そう言ってくれるなら……そう呼んでほしい」
「わかったわ、よろしくね、ヨノカ」
部屋を退出する前に、キャルは、ふと何かを思い出したような表情でヨノカに振り向いた。
「ああ、そうそう。あなたの持ち物、服以外はそっちに入れておいたわ。よくわからないものばかりだったけど……」
言われ、部屋の隅に置かれた袋を見て、ヨノカはベッドから立ち上がろうとする。
だがその前にキャルがさっと袋を拾い上げ、ベッドの上に置き、部屋を後にした。
「こんなに親切にされるなんて初めてだ。……今日は死んでも良い日だな。いや、彼女の為に死ぬ日だ。何か出来る事があれば良いんだが……」
じんわりと広がる温もりを噛みしめながら、ヨノカはそっと袋の中を覗き込んだ。
まず目に入ったのは、傷だらけの財布と電源の落ちたスマホ。
どちらも、今となっては何の役にも立たない。
まあコミュニティに属していないヨノカには元からさして役に立っていなかったが。
次に手に取ったのは、一丁の拳銃。
吸血鬼相手には大して役に立たず、ほとんど気休めでしかなかった代物である。
そんな気休めも、銃身には細かい亀裂が入り、マガジンすら失われ、お守りの価値さえもなくなっていた。
続いて金属製の水筒を取り出し、軽く振る。
中身は空で、蓋を開けるとわずかに血の匂いが残っていた。
電池の入っていない懐中電灯には大きく亀裂が走り、単なるガラクタに。
それと、袋の隅には血の染みついた使用済みの注射器が紛れていた。
それは、かつて吸血鬼を拷問するために使われた薬物の残骸だった。
そして袋の底に残った物は、最後の一つだけとなる。
《壊れたベルトのバックル》
ヴァングロームの邪悪な秘宝の一つ、『ブラッドルスト』。
吸血鬼の力を飛躍的に高める代わりに、血を吸い続ける呪われた装備。
血が尽きれば、襲い来るのは――枯渇衝動。
……本来ならば――だが。
ブラッドルストはその衝動により気が触れた吸血鬼が居て、邪悪な秘宝と呼ばれ死蔵されていた。
だけど、吸血鬼として不完全なヨノカには『吸血衝動』自体がない。
故に当然、枯渇衝動に襲われる事もない。
まあノーリスクという事はなく、 代わりに力を使うには寿命が削れていった。
しかも吸血鬼としては不完全だったが故に本来の効果である『飛躍的に高める』なんて事はなく、秘宝を使い寿命を削っても精々『並の吸血鬼』程度の力しか得る事は出来なかった。
それでも、この相棒には何度も助けられた。
ブラッドルストなしのヨノカは、ただの人間も同然だった。
だけど、その共に目的を達成した相棒ももう完全に壊れ切った。
こいつとは一緒に死ぬ運命だと思っていたが、自分だけ生き残ってしまった。
短い間だったが自分を支えてくれた相棒の壊れた姿に複雑な心境を抱きながら、その姿を見つめる。
意外なことに、その内部は機械で構築されていた。
「魔道具なのに……機械? オーパーツとか、そういう類のものか?」
ヨノカはそんな疑問を抱くが、、今更になってはもうどうでも事であった。
袋に荷物を仕舞い直し、ベッドに寝転ぶ。
冷静になって考えてみると、やはりおかしい。
どうして自分は生きているんだ?
あの時の負傷は、どう考えても致命傷だった。
……いや、それ以前の問題である。
そもそもの話だが、ヨノカの寿命はとうの昔に尽きていた。
吸血鬼として不完全故吸血機能を持たないという事。
それは常に飢えていたという事を意味する。
血に飢えたまま十数年……しかも途中からはブラッドルストを使い続けて。
幾ら自分が人間ベースであったとは言え、よくもまあ保ったもんだと感心する位だ。
とうに寿命を超え、飢餓を通り越し餓死寸前で、その上でセネリオの野郎から受けたのは致命傷。
だというのに、今、死んでいない。
いや、それだけじゃない。
不思議な事に、今ヨノカは全く『飢え』を感じていなかった。
吸血鬼としての本能が高まる夜が最も飢える時だが、そうでなくとも飢えの苦しみはヨノカにとって日常であったはずなのに。
これは一体どういうことなのか……。
最悪のケースが頭をよぎる。
――無意識の吸血。
もしも意識がない間に誰かを襲い、出来るはずのない吸血を成功させてしまったのだとしたら?
もしもそうだったなら――今すぐ、腹を搔っ捌かなければならない。
責任とか、贖罪とか、そういう類の問題だけではない。
自分が完全に人を捨て、悍ましき化物になり果ててしまったなんてとてもではないが耐えられない。
それに、自分には吸血の力こそないが人間を不完全ながら『眷属』にする力はある。
誰かを意図せず眷属にしてしまったとしたら……
想像するだけで、胃の奥がひっくり返るような嫌悪感がこみ上げてくる。
自分の血で誰かを汚すなど、考えただけで気が狂いそうだった。
「……やっぱり、死のう」
そう呟き、決意とともに立ち上がった――その瞬間。
「はい、おまたせー!」
弾むような声とともに、部屋の扉が開いた。
ふわりと広がる、食事の香り。
湯気の立つ、温かな匂いが鼻をくすぐる。
「…………」
当然だが、独りぼっちで生きて来たヨノカは誰かに料理を作って貰った事などある訳もない。
その暖かい手料理の香りに負け、ヨノカはベッドの隣でそっと正座をした。
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