第2話 痛みの始まり

 森の中には、優しい光が差し込んでいた。小鳥のさえずりが聞こえ、風が草をなでる音が心地よく耳に届く。


 だが、その美しい風景とは裏腹に、ユウトの胸中は混沌としていた。


「……クソ。マジで転生しやがった」


 金髪碧眼の少年の姿に生まれ変わった彼は、あまりにも現実離れした景色の中で、ひとり毒づいていた。


 小さな体。細い手足。服装は簡素で、麻布のようなシャツとズボン。どう見ても、裕福な家庭の子供ではない。


 腹が減っていた。頭がぼんやりし、手足は力が入らない。意識が戻った瞬間から、彼の全身を満たしていたのは“飢え”だった。


「償い……か。ふざけんな……」


 だが、苦しみに顔をしかめる彼の耳に、どこからか人の声が聞こえた。


「誰か倒れてるぞ!」

「子供だ! しっかりしろ!」


 複数の足音とともに、駆け寄る気配。次の瞬間、視界の隅に、大柄な男と年配の女性が飛び込んできた。


「……大丈夫か? 水を……」


 口元に当てられた皮袋から、水が流し込まれる。乾いた喉に染み渡り、ユウトの目が少しだけ開いた。


「……誰だ、お前ら……」


 かすれた声でそう問うと、男は驚いたように眉を上げた。


「しゃべった! よかった……。ここは“ミレナ村”だ。安心しな、もう危険はない」


 ミレナ村──聞き覚えのない地名だったが、少なくとも自分がいた東京とは別世界であることは確信できた。


「名前は? 家はどこだ?」


 男の質問に、ユウトは迷った。


(コウヤマ・ユウト、いや、違う)


 不意に脳裏に記憶が流れ込んできた。


 ──レオン。レオン=アルステッド。


 どうやら、この体の名前らしい。転生の際に“与えられた存在”なのか、それともかつてここにいた人物の残骸なのかはわからない。


「……レオン。俺の名前は、レオンだ」


 そう答えると、男と女は安堵の表情を浮かべた。


「よし、レオン。とりあえず村に連れて帰ろう。腹が減ってるんだろ?」


 そのまま、彼は村へと運ばれていった。馬車もなければ舗装された道もない。まるで中世のヨーロッパのような風景が広がる。


 ──それが、彼の新たな地獄の入り口だとは、まだ知る由もなかった。


 ◆ ◆ ◆


 村に連れられて数日、レオンは農夫の家に引き取られることになった。


 名前はガロン。無骨で筋肉質、だが情に厚い男で、妻のマーシャとともに質素だが心のこもった生活をしていた。


「お前は体も小さいし、すぐには働けん。まずは元気になることが先だ」


 ガロンの言葉に反して、村の現実は厳しかった。食事は一日二回、内容は硬いパンと薄いスープだけ。


 朝は日の出とともに起床し、水汲みや薪運び、畑の雑草取りが日課。休む暇などない。


 しかし──ユウトは笑っていた。


「……なるほどな。地獄よりマシってわけじゃねえんだ」


 飢え、痛み、孤独。罰としてはこれ以上ない環境だった。


 だが、それでもユウト──いや、レオンは少しずつ“何か”を感じ始めていた。


 それは、“誰かの役に立つ”という感覚だった。


「ありがとう、レオン。助かったよ」


 老女の背中をさすってやったとき、彼女が見せた笑顔は、かつて見たことのない種類のものだった。


 警察に追われ、人を殺し、恐れられ、憎まれてきた彼の人生にはなかったもの。


「……チッ。だから何だってんだ」


 照れ隠しに吐き捨てるが、心の奥底がわずかに温かくなるのを、否定できなかった。


 ◆ ◆ ◆


 ある夜、レオンはひとり、焚き火の前で空を見上げていた。


 星が瞬き、風が肌を撫でる。ガロンとマーシャはすでに眠っていた。


 そのとき、不意に声がした。


「やっぱり君は変わってるな、レオン」


 振り返ると、そこには同じ年頃の少年が立っていた。栗色の髪に、聡明そうな目。


「俺はカイル。隣の農場の息子さ」


「……ああ、見たことある」


「君ってさ、なんであんなに働くの? 誰に言われたわけでもないのに」


 問いに対し、レオンはしばし黙ったあと、ぽつりと答えた。


「……やらなきゃ、居場所がなくなる気がしてな」


 カイルは目を見開いたが、やがてにっこり笑った。


「変わってるけど、悪くないよ。俺、君のこと好きだ」


 言葉に戸惑いながらも、レオンは初めて「友」と呼べる存在を得た。


 その瞬間、ほんの少しだけ、過去の血塗られた自分が遠ざかっていく気がした。


 だが──それは同時に、“過去”が彼を追いかけてくる序章でもあった。

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