月詠 透音(つくよみ とーね)

 テレビの画面には、巨大な銀色のリボンのようなものが、ぐったりと砂浜に横たわっている。

 地方のニュース番組で、アナウンサーが抑揚の効いた声で言う。


「今朝早く、〇県〇市の海岸で体長およそ五メートルの『リュウグウノツカイ』が打ち上げられました。発見当時、すでに息はなかったとのことです——」


 その映像には、潮に濡れ、まだ僅かに陽の光を反射しているその体躯が、どこか人間的な『皮』のようなものを纏って映っていた。

 リポーターが解説するその魚の「特徴」は、むしろ形而上の何かを連想させるようだった。


「リュウグウノツカイは、深海に棲む魚で……長い触角を持ち、その生態は、未だ多くが謎に包まれています……」


 ——深海


 その響きだけで、胸の内がゾクリと湿っていく。

 どこまでも暗く、音のない世界。いっさいの光も届かぬ場所で、何かがうごめき、目を持たぬくせにこちらを見ている気がする。

 

 あの魚 ―― リュウグウノツカイ ――は、ほんの偶然のようにして海上に打ち上げられたが……それは本当に偶然だったのだろうか。


 * * *


 俺はアマチュアの作家だ。

 小説投稿サイトに、拙い物語をひっそりと投げ込んでいる。

 読者は、いない。

 いや、正確には、数少ない読者はいるのだが、俺の作品に反応してくれる者はいないに等しい。


 それでも、書くことはやめない。

 文章を書くことは、俺にとって「照らす」行為だ。

 自分の中の、暗く濁った底に、ちいさな光を差し込み照らす。

 日常という海の深遠なる暗黒の底、日本語としての名前すらもない感情の鱗片が、そこに息を潜めている事に気づける——そんな執筆の時間が、どうしようもなく好きだ。


 最近、サイトでは「魚」を題材にしたホラーが流行っているらしい。

 生臭く、ぬるぬるとした不気味な描写が並ぶと、自分の皮膚の下を這う感触までが伝わってくるようだ。

 幾つかを読んで、俺も何か書ける気がして……けれど、何も書けなかった。

 

 水、海、魚、深海——それらの言葉に触れるたび、決まってあの夢を思い出してしまうからだ。


 * * *


 テレビの画面に目を戻すと、まだリュウグウノツカイのニュースが続いていた。


「——古くからリュウグウノツカイは、地震や天変地異の前触れとして語られてきました……」


 そう言いながら、彼らはその長い身体を優雅にくねらせながらも、無造作に引きずっていく。


 * * *


 俺は子供のころから、同じ夢を繰り返し見てきた。

 

 ―― 母が、死ぬ夢だ


 幾度となく……と言っても、二〜三年に一度の頻度で——それは訪れた。


 最初にその夢を見たのは、まだ八歳か九歳のころだったと思う。

 母の顔が、棺のなかで、静かに、冷たく、触れたら割れてしまいそうなガラスのようになっていた。

 叫んでも声は届かず、母は目を閉じているのに、白い棺の中からじっと見つめ返されるような、そんな感覚だった。


 その時は、怖くて飛び起きた。

 一週間近くは、母が本当に死ぬのではないかと、本気で怯えていた。

 でも、大人になるにつれ、どうやらその夢は現実にはならないと理解していった。

 

 そしてある時から、その夢を見たときには素直に、母に電話をかけるようになった。


「母さんが死ぬ夢を見た、大丈夫かなと思って。体調とか、変わったところはない?」


 そんなことを言う俺に、毎度のこと母はちょっと困ったように笑い返した。


「まあ、また? 縁起でもないね。でも、夢を見たってことは、お前の中に、私が生きてる証拠だろうよ」


 洗濯物を干しながら、青空を見上げるようにして笑う母の顔。子供のころに見たあの顔が、今でもふとしたときに浮かぶ。



 俺はこれまでに、母が死ぬ夢を二十回近く見ている。

 それはつまり——母の死を、二十通り、味わったということだ。

 奇妙な話だろうか。


 海の底から、何かが静かに這い上がってくるように。あの夢は、いつも忘れたころにやって来る。

 それは、不吉でありながら、どこか美しく、しんとした悲しみを湛えていた。


 今日は……その中でも、とりわけはっきりと記憶に焼きついている、夢のことを話そうと思う。


* * *


 母が死ぬ夢の中でも、ことさらに印象の強い一本 ―― 何十年も前に見たのに、今も脳裏に焼き付き離れない。その夢は短く、ただ静かで、けれど妙に生々しい。


 実家はN県の片隅、名もない小さな港町にあった。曾祖父は漁師だったが、父はその道を選ばなかった。町を出て、サラリーマンとして戻ってきた父は、曾祖父の古びた網倉を壊して、その土地にささやかな一軒家を建てた。

 防波堤が家の裏手から歩いて五分ほど、海はいつも、濁っていた。隣町に食品加工工場が建ってからというもの、海藻は茶色に溶け、ときおり魚が裏返って浮かぶようになった。けれど、子どもだった俺には、かけがえのないもので、人間に汚されていようが海が好きだった。


 水平線を見るのが、好きだった……気持ちが静かになったのだ。あの、線のようになった空と海の境目。明瞭で、遠大で、どこまでも遠くへ意識を伸ばしていけた。

 俺が防波堤に一人で登るのを、母はよく叱った。


「落ちたら絶対に助からん」


 決まり文句のように言っていた。怒ってはいたけど、目元には少し笑みを含ませていたように思う。

 いや、それも今となっては夢の中で混ざってしまった記憶かもしれない。


 その夢を見たのは、俺が二十歳くらいの頃だった。夢の中での俺は、子どものままだった気もするし、青年だった気もする。季節は夏の終わりのようで、潮風に湿気が混じっていた。


 俺はいつも通り、防波堤に向かっていた。

 狭い路地を抜けて、潮の匂いが強まる。片側に傾いたブロック塀、苔に染まった網かけの柱、すれ違う漁師のじいさんたちの座って作業する姿。そういうものを抜けて、県道に出ると、防波堤の上 ―― そこに母がいた。


 白いワンピースを着て立っていた。

 今まで一度も見たことのないような、透けるほど薄くて、風に揺れる布。髪は長く、風に持ち上げられていた。俺の方を見ていた。けれども、そのときの母の顔は……どうしても思い出せないのだ。

 次の瞬間、母は後ろに倒れて――そのまま、海に沈んだ。


 音もなかった。叫び声もなかった。俺はなぜか動けず、ただその光景を見ていた。

 

 夢の中なのに、そこから数日が過ぎた。町中がざわついて、捜索隊が編成されて、町の男たちが総出で船を出し、潜水士の人たちが潜った。けれど母の姿、遺体は見つからなかった。


 俺は防波堤に座り続けた。あの、潮と腐った魚の混じった匂いが立ち上る場所に。

 ずっと、濁った水面を見つめていた。……何を待っていたのか、今でもわからない。


 やがて、水面が揺れた。泡立ち、沈殿した泥が巻き上がる。

 そこから、あれが浮かび上がってきた――。


 銀色の帯のような魚。

 リュウグウノツカイだった。


 図鑑でしか見たことがない、長く、うねりながら泳ぐ深海魚。どうしてこんな場所にいるのだ。目は黒く、ぎょろりと濡れていた。


 けれど、俺はすぐにその魚の異様さに気づいた。


 ――髪が、生えていたのだ。人間の髪。それも、長くて、黒くて、美しい……母の長い髪と、そっくりだった。

 けれど、それは不気味だった。美しいはずなのに、まったく美しいと感じられなかった。ぞっとしたのに、同時に……不思議と、何も感じなかったのだ。恐怖も、悲しみも、どこか遠いものだった。


 リュウグウノツカイは音もなく、ゆらりゆらり、ゆっくりと沖へ向かって泳ぎ去っていった。

 俺は、その背をずっと見ていた。



 ――夢は、そこで終わる


 

 俺はいまも、海を見るとき、長く大きな魚を見るたび、あの夢のことを思い出す。

 

 濁った海の底に、何かが眠っている。

 それが、ほんのすこしだけ身じろぎをする気配を感じることがある。

 俺自身が、遙かとおい陸の上にいてもだ。

 きっと、誰にもわからない……自身の表層の意識においても。


 ……けれど、『魚』を題材にした物語が、Web小説投稿サイトに溢れてきたのは……偶然だろうか。

 いや、そんなはずはない。あの『魚の群れ』は、

 

 たとえば、沈んだはずのものが、ふいに浮上してくる――そんな、物語の予兆のような。



 いや、「夢」ではない。

 あれはきっと、俺の中の海が見せた「深海」だったのだ。

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