🧵エピローグ|風の音を覚えている
この店を始めてから、何年になるのだろう。
最初の頃は、客が一人も来ない日もあった。
でも今では、毎日必ず、誰かがこのドアを開けてくれる。
風鈴が鳴って、「こんにちは」が届く。
みんな、少しだけ疲れた顔でやってくる。
けれど、帰るときには、ほんのすこし笑顔が混ざっている。
それを見るのが、私は好きだ。
このカウンターには、いろんな話が置かれていった。
泣きながら蜂蜜ラテを飲んだ青年。
自分の居場所を探して旅をしていた女性。
仕事に疲れて、ソーダの泡に安らぎを見つけた人。
夫との思い出をココアに重ねたおばあさん。
「さよなら」を言いに来た少女。
読書の合間に、言葉の意味を見つけた高校生。
犬を亡くして、風のゼリーで歩き出したあの人。
演奏前の朝にスコーンを食べた音楽家の卵。
風景を描き残した画家志望の青年。
そして、喧嘩してもドリンクを分け合った、あの若いふたり。
私は話しかけない。
無理に聞き出すこともしない。
けれど、カップを磨きながら、ずっとそばで味と心を見ている。
「ここに来た人の話を、
私がいちばん覚えてるのかもしれません」
ふと、そう思うことがある。
今日も、風が吹いている。
風鈴が鳴って、カランとドアが開く。
「いらっしゃいませ」
私はいつものように言う。
そして、そっとメニューを差し出す。
そこに書かれた最後の一行は、ずっと変わらない。
“やさしさがひとくち分、足りない日に。風鈴屋で会いましょう。”
あの日、誰かが残していったノートの最後のページに、こんな言葉があった。
「この音を、きっと私は忘れないと思う。
それが、やさしさっていう記憶の形だから」
今日もまた、誰かの記憶の中に、
この風の音がひとつ、加わっていく。
私は、それを見送る。
変わらないカウンターで、いつも通りのやさしさを添えて。
風鈴が鳴った。
🍯風鈴屋のひとことメニュー
本日の風の音:静かな午後の記憶
──甘さも、痛みも、きっと泡のようにすっと消えて、
それでも、心にふわりと残るものがある。
『風鈴屋で会いましょう』 Algo Lighter アルゴライター @Algo_Lighter
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