🧪第3話|ノート#3:蜜の森、杉山の声

町の外れ、杉山養蜂場。

春先のまだ若い緑がゆれる小道を抜けた先に、

低い蜂箱が点々と並ぶ小さな丘がある。


杉山は昔から寡黙で、不器用で、でも頑固なまでに「本物しか扱わない」人だった。


修二が訪ねていったときも、彼は目だけでうなずくと、黙って防護服を手渡した。


「……手伝え」


それだけ言って、蜜蜂の箱の方へ歩き出す。


春のアカシアの香りが、かすかに森の奥から漂っていた。


養蜂の作業は、静かだった。


ミツバチの羽音、杉山の足取り、そして

箱の蓋を開けるときの、木と蜜蝋の混ざった匂い。


修二は思った。

この作業は、“音を立てずにやる仕事”だと。


静けさの中、杉山がポツリと呟いた。


「……ミツバチは、季節の代弁者だ。

 おかしな気温、足りない花、風の匂い……ぜんぶ、蜂が先に気づく」


「……風の匂い、ですか?」


杉山はひとつ蜂箱の中から、蜜の詰まったフレームを取り出した。

そこにいた数百のミツバチが、羽音だけで抗議してくる。


「これは“栗”の蜜だ。花は地味だが、香りが強い。秋になったらまた来い。

 お前のビールに合うかもしれん」


「ビールって、言ってもらえるんですね」


杉山は黙ったまま、作業を続けていたが、やがてふと口を開いた。


「味は借りもんだ。

 風、土、雨、蜂、麦、人間——

 全部、どこかからの借り物だ。

 それを“自分の作品”だと威張る奴は、職人じゃない」


その言葉が、修二の胸に深く刺さった。


「……借りてるって、意識してなかったかもしれません」


杉山は軽く首を振った。


「借りてると知っていれば、扱いは自然と丁寧になる。

 丁寧さが、味になる」


その後も、蜂蜜の採取、フィルター作業、瓶詰めまで黙々と手伝った修二は、

気がつけば背中に汗をかき、指先が蜜で少しべたついているのに、

妙な清々しさを感じていた。


作業が終わった夕暮れ、杉山が最後に手渡してくれたのは、

今朝しぼったばかりのアカシアの蜜だった。


「混ぜるな。香りが飛ぶ。

 春の花は、春のまま閉じ込めろ」


修二は深くうなずいた。

自分の“手”が、今日から少し変わった気がしていた。


ノート記録:#3

「素材には命がある。

花の季節、蜂の気まぐれ、雨の日の湿度。

味は、人が作るものじゃない。

“借りている”と知ったとき、ようやく職人は素材に挨拶ができる。」


ビールを仕込む前に、

修二は瓶に詰めたばかりの蜜を一匙だけ、静かに味わった。


その甘さは、風の味がした。

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