🧪第2章|発酵という名の沈黙

🧪第2話|ノート#2:発酵の孤独

昼間の空気がまだ冷たく張りつく三月の終わり。

修二は一枚の紙を前に、ただ黙っていた。


【酒類製造免許 取得要件】

——発酵容量 6,000L以上の設備

——清潔な製造環境

——製造責任者の知識証明

——原材料・販売計画の提出


「……いきなり“無理”って言われるやつだな」


紙の角が少し折れているのは、すでに三度読み返した証だった。


自家製ビールは違法。

だから、商業用にビールを作るには、制度上の壁が山ほどある。

資金、設備、免許、そして知識。


だが修二は思った。


“それでも、この泡を、ちゃんと「酒」にしたい。”


町にある空き倉庫。

かつて父親が使っていた物置を、修二はひとりで片付け始めた。

ほこりをかぶった木製の棚、錆びついた工具、古い瓶詰め器。


「これで何ができるってんだよ……」


けれど、その手は止まらなかった。


片隅に置いてあった、使われていない金属タンク。

かつて漬物用に使われていたそれを、修二は磨き上げた。


“まずは、小さくても“発酵”を始める場所がいる。”


パソコンには、クラフトビールの文献と仕込み工程が何十も開かれていた。

温度、糖度、酵母の種類、初期比重、エールとラガーの違い。


けれど——理屈を詰めても、泡は生まれない。


最初の仕込み。

使ったのはアカシアの蜂蜜と、地元でとれた麦芽、そして市販のドライ酵母。


タンクのふたを閉じて、温度管理装置を稼働させる。


沈黙。

室内の空気だけが静かに揺れていた。


一日、二日、三日目。

酵母は眠っていた。

泡は立たない。香りも生まれない。


「……なんで動かない」


仕込みの記録ノートには、日付と温度だけが並んでいた。

言葉が続かない。

修二は、タンクの前に椅子を出し、ただ“見て”いた。


夜、明かりを消しても、タンクの表面の冷たさが心を冷やした。

目を閉じると、都会のビルの喧騒や、かつての職場の空気すら遠く感じた。


ここには自分しかいない。

酵母の声も聞こえない。

ただ、沈黙だけが発酵していくようだった。


四日目の夜、

ふと、タンクの表面に微かな“泡の縁”が浮かんだ。


「……動いた」


ほんのわずかに、液面に揺らぎがある。

酵母が、やっと“何か”を始めた。


修二は静かに、息をのんだ。

タンクの前にしゃがみこみ、そのわずかな変化を凝視した。


「お前も、迷ってたのか」


自分と似ていた。

言葉のないまま、沈黙の中で何かを生み出そうとしていた。


ノート記録:#2

「発酵とは、沈黙に向き合う行為だ。

理屈で動くものじゃない。

待って、感じて、気配を読む。

酵母は“対話”の相手だと知った夜。」


修二は、その夜、初めて工房の隅に置いたノートに、

迷いをそのまま記し始めた。


それは、職人としての再出発ではなかった。

まだ名もない泡と、ただ静かに呼吸を合わせた、

始まりの一歩だった。

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