第41話ーもう一つの名前ー

「…シンシア殿?聞いてる、か?」


「ぇ…、ぁ、ごめんなさい、ボーッとしてました。何でしたっけ?」


エリオットの言葉に、シンシアは慌てて意識をそちらに向ける。


「貴女の従者の話だ。あの後部屋に戻しただけで、縛って牢にぶち込んだりとか、拷問したりとか、そんな手荒なマネはしていない」


「…縛ったり、拷問———、」


不意に彼の口から飛び出してくる恐ろしい言葉の数々を、ボソッと反復するシンシア。


相手が要人の関係者だからしないだけで、普段ならそうしてたってこと———?


思わずキュッとシンシアは自分の腕を抱える。


でも良かった。昨日、光影さんが言ってくれていた通りだ…。フィーゼは何もされていない。無事にいてくれているようだ。


シンシアはエリオットの言葉にホッと胸を撫で下ろすそして、一度敵と見なされたモノに対するジェヘラルトの容赦ない扱いの怖さを改めて思い知らされる。


「勝手ながら謹慎という形で、部屋から出ることや、貴女に会うのは、控えてもらっている」


その言葉には、そうですか…と、目を伏せるシンシア。


…やっぱり、すぐにはフィーゼに会えない、んだ。


半ば監禁状態の罰を受ける従者を思ってか、切なそうに胸の辺りをキュッと握るのだった。


「改めて聞くが、身体はもう平気なのか?」


「はい!おかげさまでもう大丈夫です」


柔らかく答えるその人を見て、


そうか、なら、良かった…とエリオットはホッと胸を撫で下ろす。


「…ありがとう、貴女だけでも戻って来てくれて。意識が戻って本当によかった」


「…っ、」


多分ただの貧血かなんかで倒れただけだろうに、そこまで…?と、大分大袈裟に聞こえる言葉に、シンシアは反応に困ってしまった。


「———そうだ、シンシア殿、この後、少し私に付き合ってはくれないだろうか?」


突然の彼の提案に、シンシアは、ぇ?と首をかしげる。


今日は貴方の誕生祭で準備が大変だと仰っていなかったっけ?


…って、そうだ。その前に———、


シンシアはハッと何か思い出したように慌ててエリオットの方を向いた。



「お誕生日おめでとうございます、エリオット様!」



シンシアはそう言って、お祝い申し上げますと、目の前の彼にお辞儀をした。


唐突な彼女に、…あ、あぁ、あり、がとう。と、戸惑いながら返すエリオット。


「24歳になられる…、あ、なられたんですよね…?」


少し自信なさげに紡がれたその言葉に、少しの時間差ながら、


「…ぁ、あぁ、うん、そう。5つ上だったから、そう、だな」


と言いつつ、うんうんと頷くエリオット。


「5つ上…?私とは、7つ違いでは?」


シンシアはポツリと零しながら首をかしげる。


「あ、いや、こっちの話だ。き、気にしないでくれ…」


終始ぎこちないエリオットの反応に、シンシアは目を瞬かせつつも、いつものようにそれ以上詳しく聞くことはやめておいた。


「———そういえば、今年は貴女が一番だ」


ポツリとそう言って、その人はどこか嬉しそうに小さく笑う。


「いつもはその日の夜、宴の席で、家族や臣下からその言葉がある。こんな朝一で言われたのは、生まれて初めてかもしれない」


「っ…、そ、そうでしたか」


意外な言葉に、シンシアはポツリと呟いた。


ま、まさか、宴の席以外では言ってはいけない決まりでもあるのだろうか?!だとしたらどうしよう。私、とても空気が読めなことを———。


シンシアは密かにうなだれる。


自分の場合は、誕生日になったらいつも朝一にフィーゼが言ってくれるから、誕生日というものはそんなものだと思っていたのだ。


そんな時にふと、毎年の誕生日の朝のことが頭の中に甦ってきた。


シンシア自身、自分の誕生日を忘れてしまいがちなのだが、その日は朝の挨拶よりもまず先に、フィーゼが必ず誕生日のお祝いの言葉を口にする。


その日のテーブルは、クロスも、花瓶の花も、並べられるティーセットの食器も、茶葉も、お菓子も、いつものそれとは違った物が出される。


その日がいつもとは違う特別な日であることを、フィーゼなりにシンシアに演出してやるのだ。


例えシンシアが忘れてしまっても、フィーゼだけは決して忘れたことはなかった。


「っ…、」


そうか。私よりもフィーゼが、私の誕生日を大事にしてくれていたから、私も自分の生まれた日を思い出せていたんだ…。


シンシアはふと胸に手を添えると、胸の中に、温かいものがじんわりと広がっていくのを感じるのだった。


「すみません、私、フライングしてしまいましたか?宴の席で、皆様揃って言う決まりだったとか———」


「フフッ、いや、そんなものは特にない。いつ言ってもいいし、別に言わなければならない決まりもない。私以外からしてみれば、何の変哲もないただの1日に過ぎないのだから」


そう言って力なく笑って見せるエリオット。


そんな言い方しないでください…、と言いたいところだが、よくよく考えてみれば自分も全く同じ考えなのだ。


フィーゼがちゃんと思い出させてくれるから、意識できるだけのことであって、自分一人だったら、きっといつもと変わらない1日を、そのまま送ることになるのだろう。


シンシアは心の中で呟いて苦笑いする。



「———そうだ、伝えそびれていたが、実は、今日の宴は中止となった」



突然のエリオットの言葉にシンシアは、ぇ?!と目を丸くする。


「今日の宴は、私の誕生祭もさておきながら、我が国の貴族達へ、私の婚約者である貴女をお披露目する場も兼ねていたんだ。貴女もやっと成人され、晴れて正式に結婚できる歳となったわけだからな。


しかしながら、貴女の体調を一番に考えておられる公王陛下のご配慮のもと、今日はそれもなくなった」


「…っ、」


その言葉に、シンシアは不謹慎ながらも内心ホッとしていた。


「少しは安心したか?」


エリオットのその言葉に、シンシアは肩をビクッと一つ跳ねさせる。


「何となく、貴女の表情が和らいだように見えたから」


「…ぁ、いぇ、すみません」


シンシアはそう言いながら慌てて取り繕う。


あ〜、顔に出ちゃってた…。と、わたわたと顔を伏せるのだった。


「別に謝ることでもない。実は俺もホッとしてる」


エリオットはそう言って、フワッと微笑むのだった。


そんな彼にふと目をやるシンシア。


あれ、今、“ 俺 ” って…?


彼からは珍しい一人称に耳が反応したのだ。


だが、それよりも惹かれるものがあった。



———貴方はそんな顔もされるんですね…。



シンシアはその穏やかな顔に吸い込まれるようだった。


それから2人は食事をすませて、部屋を出た。





外に出た二人。エリオットの後ろをシンシアはただただ付いて歩く。


幸い雨は降っておらず、珍しく雲の隙間から青空も見える。


「そういえばシンシア殿は———」


しばらくしてふと後ろを振り返ったエリオットは、ようやく足を止めて、あれ?と首をかしげる。


すぐ後ろにいると思っていたシンシアは、彼の予想より遥か遠い位置にいた。


「っ…?」


———嗚呼、やってしまった…。今ここに姉上たちがいなくて本当に良かった。もし見られてたら絶対に怒られるやつだ。


やっと足を止めたエリオットは、心の中でそっと胸を撫で下ろすとともに、シンシアが小走りで自分に追いつくのを待っていた。


「すみません、私、歩くのが遅くて…」


少し息を切らしながら苦笑いのシンシア。


そっか。いつもはフィーゼが私に合わせてくれてるから…。


こんな時に、従者のさりげない気遣いに気づかされる。


「こちらこそすまない。貴女の方へ意識が向いていなかったようだ。呼び止めてくれれば私だって止まったのに」


「すみません。何度かお呼びしたんですが、気付かれなかったようで…」


「…っ?そう、だったのか。重ね重ねすまない」


エリオットはバツが悪そうに顔をしかめる。


やはり代償のせいか。彼女の声や足音、小さい音はほぼ聞こえていなかった…。


雷の加護を授かるために支払ってしまった聴力たいう代償を、エリオットは恨めしく思うのだった。


「カムイ、さま…」


「え?!」


突然、シンシアの口から、普段聞き慣れた名前を呼ばれて驚くエリオット。


「やはりエリオット様より、こちらの名前の方がしっくりきますか?昨日も皆様、貴方様のことをそう呼んでおられたようでしたので。呼ばれ慣れている方が反応しやすいのかと」


シンシアの言葉に、…そう、だな、と頷きながら、


「ではそっちの名前で、呼んでもらえるか?」


と彼女を振り返った。


「…っ、はい、神威様!」


シンシアがそう呼ぶと、あぁ、いや、やっぱりそうではなく…、と言い淀む彼。


シンシアは少し首を傾げながらその人の次の言葉を待っていると、



「神瑠…」



エリオットはポツリとそう言い直した。


あれ、発音を間違えたのだろうか?とシンシアは懸命に昨日の彼の姉たちの会話を思い返す。


私の、聞き間違い?でも確かに昨日は皆、カムイ様って…、


シンシアは途端に困惑した表情を見せる。


「…ぁ、いや、戸惑わせたな。神威で合ってる。変なこと言って悪かった」


そう言って、エリオットは力なく笑って見せた。そのなんともぎこちない、そして、寂しげな表情を、シンシアは見逃せなかったのだった。


すこし間をおいて、



「…カムル、様?」



恐る恐るポツリと小声でその名を口にしたシンシアに、エリオットはパッと彼女の方を見るのだった。


———なぜだろう。小さい音や声はもぅ、私のこの耳では拾えないはずなのに。


貴女に呼ばれたその名前だけは、こんなにもはっきりと鮮明に、心地よく耳に響く…。


シンシアの優しい声が、エリオット改め、神瑠の鼓膜を、心を、静かに震わせていく。彼はそれを、そっと目を閉じて静かに噛み締めていたのだった。


「あ、違ってました?やっぱりカムイ———」


「いいや、合っている。…ただし、その名前は、っ、」


少し言葉に詰まる神瑠。


「ぇと———っ、そう、愛称のようなものなんだ。だから、その名前はどうか、私と2人の時だけに」


その言葉から、何かを察したシンシアは、


「っ…、はい、わかりました、神瑠様」


そう言って微笑んで一つ頷いた。


そんな彼女の顔は、神瑠には他の誰よりも優しく輝いて見えたのだった。


それから神瑠はシンシアにそっと手を差し出した。


突然のことにシンシアはそれを不思議そうに見つめる。


「…手、よかったら。今度こそ、貴女を置いて行かないように」


「…っ、ありがとう、ございます」


シンシアはその言葉に、そっと自分の手を重ねるのだった。


それからまた二人は歩き出す。


今度はシンシアの歩く速さに神瑠がそっと寄り添う。


「どちらへ向かわれてるのか、お聞きしても?」


「…きっと、貴女が気に入ってくれる場所。———だといいと、思っている」


その言葉に、私が?…どこだろう?とシンシアが首をかしげているところへ、


「っ、雨…?」


ポツリポツリと空から弱々しく雫が降り注いできたのだった。


「っ、もぅ降ってきたか。雨の国よろしく、やはりやみ間も短いな。…シンシア殿、目的地はすぐそこだから、このまま少し走る」


「は、はい」


神瑠はシンシアにそう言って声をかけると、着ていた上着を脱ぎだした。そしてそれを二人の頭の上にフワッとかける。


「神瑠、さま…?」


彼が一体何をしているのか、その行動をうまく理解できないシンシア。


「貴女はそっちの端を持ってくれ。私はこっちを持つから」


言われるままにシンシアは頭にかけてもらった上着の端をキュッと握った。


「…よし、行こう」


そう言って、シンシアと神瑠は即席の雨除けを頭に被せ、肩を寄せ合いながら雨の中を駆け出していくのだった。


こんなことはまるで初めてで、初めこそドキドキと戸惑いの表情をしていたシンシアだったが、それは次第に楽しそうな顔に変わっていった。


それから少し走った先に現れた建物の前で、二人は足を止めた。


「はぁ、はぁ…。着いた、ココだ」


「この中に、何が…?」


シンシアは神瑠から雨除けに使った上着を託され肘にかけながらそっと彼の様子を見守る。


神瑠は持って来ていた鍵で開錠し、目の前に大きくそびえ立つ扉を開くのだった。


扉の先に見えた建物の中は、沢山の本棚が所狭しと並んでいるようだ。


「書庫、ですか…?」


本好きのシンシアはその光景に思わず表情がパッと明るくなる。


それを確認した神瑠もホッとした顔を見せて、さぁ中へ、と、シンシアを建物の中へと導くのだった。


その途端、屋根を打つ雨の音が少し大きくなった。


「…っ、雨が、」


「激しくなって来たみたいだな。ちょうどよかった、まだ降り初めの時で。さぁ、これで拭いて?」


「…ありがとうございます」


シンシアは神瑠からハンカチを受け取り、髪や服を拭いていく。


そして、神瑠様も…、少し濡れていて申し訳ありませんが…と言いながら、彼の肩やらをそっと拭いてやるのだった。


「———、ぁ、ありがとう」


改めて呼ばれた名前と彼女の行為に、神瑠はどこか照れ臭そうな反応を見せるのだった。


「ここでしばらく、“雨宿り”、ですね」


少しカタコトになりながも一生懸命にシンシアの口から紡がれたその言葉に、神瑠は可愛らしく思いながら、フフッ、そうだな…と小さく笑って頷くのだった。


「…あ、あれ?こういう使い方じゃ———」


「大丈夫、それで合っている」


「…っ、なんだ、よかった」


その言葉に、シンシアはホッと胸を撫で下ろした。


それからふと、あることに気づく。


「…っ、なんだろう?この匂い」


ポツリと呟くシンシア。


部屋に漂う独特な香りがシンシアの鼻をくすぐる。


「きっと墨の匂いだ」


「スミ…?」


また聞き慣れない言葉に首をかしげるシンシア。


「書き物をする時に使う。…クリミナードそちらでは確か、インク…とか言ったか?」


「あぁっ!」


神瑠が上手に言い換えてくれて、シンシアはうんうん、と納得する。


「とても良い香りですね。

私、インクよりこちらの匂いの方が好きかもです!」


「…気に入ってくれたなら良かった。さぁ、こちらの席へ」


神瑠はそう言って部屋の奥に設けられていた席にシンシアを手引きするのだった。




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