第19章ー従者の不在ー

第39話ーいや、これは事故で…ー

 大きな物音に慌てて部屋に飛び込んできたエリオットはこの状況に絶句し、動けなくなっていた。


 無理もない。彼の目に一番に飛び込んできたのは、あたかもシンシアがフィーゼを床に押し倒しているかのような光景だったのだから。



「…すまない、失礼した」



「ぇ、エリオット様!?」


「おぃ、ちょ、待———」


 スッと冷静に踵を返すエリオットに、シンシアもフィーゼも慌てて声を上げる。


 するとエリオットはまた2人の方に振り返ると、軽蔑するような眼差しで


「貴女たちはよその国に来てまで一体何をしているんだ?」


 と、冷淡に言い放ったのだった。


 朝日が昇ったとは言えど、カーテンが敷かれた部屋は薄暗く、顔もろくに認識できないほどだ。


 しかし雷の加護を使えるエリオットの目には、まるで真昼の空の元のように、ことの一部始終が包み隠さずくっきりと見えていた。


「ち、違っ…これは事故で———、」


「ご、誤解です!エリオット様。私たちは何も———」



「当たり前だ!」



 エリオットが言い放った一言にその場の全員が口を閉じる。


「ハッ、私たち、か。いつまでそうしているつもりだ?!さっさと “ 我が妻 ” から離れろ、この痴れ者が!」


「っ———、」


 エリオットによって吐き捨てられた言葉が、今自分の上に乗っかっているシンシアとは比べ物にならないほどに重く、フィーゼの身にのしかかる。


「お嬢、ごめんけど、早く、下りてくれ」


「ぁ、うん、ごめん…」


 シンシアは先ほどのエリオットの言葉にかなり動揺しながら、フラフラとフィーゼから離れる。


「光影はシンシア殿を」


「…はぃ、若。


 ———公女殿下、こちらへ」


 光影に庇われながら、フィーゼから距離を取らされるシンシア。


「私が許したのは、あくまでお前の主の介抱のためだ。彼女に危害を加えてしまったのは私のせいだから、お前の意を汲んで仕方なく2人きりにしてやった、ただそれだけのこと。


 …それがまさか、目を離した隙にこれとは」


「っ、違っ、本当にさっきのは事故で———」


「黙れと言っているのが聞こえないのか?!」


 もんの凄い形相でエリオットに怒鳴りつけられるフィーゼは、まるで蛇に睨まれた蛙だった。


 返す言葉などどこにも見当たらない。


 無理もなかった。これはフィーゼに言われているのと同時に、シンシアの品格をも地に落としているも同然の惨事なのだから…。


 正気を取り戻したものの、まだまだ酔ってふわふわとしていたフィーゼの頭が、金槌にでも殴られて、一瞬の内に現実に叩き戻された瞬間だった。


「エリオット様、聞いてください。我が従者の言葉は本当です。全くの誤解、さっきのは事故だったのです!」


 シンシアも慌ててフィーゼに代わって言葉を投げかけるが、


「貴女は黙っていてくれ、シンシア殿」


 と、エリオットは聞く耳を持たない。


「今回の件で貴女には恩がある。あまり事を荒立てたくはない」


「エリオット、様…」


 彼の言葉に、うまく次の言葉が浮かんでこない。


 自分が彼の命を救ったとは一体どういうことなのだろうか?



「———まさか、貴女に裏切られるなんてな」



 聞こえるか聞こえないかくらいの声でポツリと溢されたエリオットの声に、シンシアはなす術もなく目を伏せる。


「他の誰よりもおしとやかで穏やかで、心優しく、とても温かい方なのだと思っていた…。けれどそれも、所詮手紙の上でのこと。現実は真っ赤なでたらめだったようだ」


「…っ、」


 どこか寂しそうに紡がれるエリオットの言葉に、シンシアは苦しそうに胸の辺りを抑えて俯く。


 食事の前にエリオットが部屋に迎えに来てくれる時、自分が一番憂いていたことがこのような形で結果として現れてしまったことに、ひどく心を痛めていた。



「全く、貴女は目に見えるもの、見えないものを問わず、男に気を持たせるのが、大層お上手なようだ」



「———っ?!」


 エリオットからこぼれ落ちた言葉に、シンシアは愕然とし、動けなくなった。


「公子殿下、本当にこれは———」


 主の居た堪れない姿を目に、フィーゼは慌てて口を出したが、シンシアはスッと小さく手を上げてフィーゼを制した。


「エリオット様、信じがたいとは思いますが、私が目覚めて、起き上がろうとした所、身体に力が入らなくて、バランスを崩してしまったんです」


 シンシアは震える声でぽつりぽつりと懸命に言葉を紡ぐ。


「ベッドから落ちかけた私を、フィーゼ…、我が従者が支えようとしてくれたんですが、彼もバランスを崩してしまって、先ほどのように…」


 そう言いながら恐る恐るエリオットを見るが、彼もまたシンシアとは目を合わせようとはしない。


 それどころか、ハッ、ここまできて言い訳とは———。と、苦笑いだ。


 挙句の果てには、



「貴女が誘ったのでは?」



「っ———!?」


 そんな冷たく突き放す一言を吐き捨てたのだった。


「違っ、なんてことっ?!我が主はそんなことしな———」


 何も言えなくなったシンシアに代わってフィーゼが慌てて否定するが、


「お前はいい加減身の程をわきまえろ、従者!」


 そんな言葉が返ってきては、もうそれ以上は何も言えなかった。


「口の利き方からなにまで、私が何も思っていないとでも?婚約者の従者だからこんなに譲歩してやっているというのに、まだ気づかないのか?」


「…っ、も、申し訳、ありません」


 フィーゼはエリオットの圧にグッと押し黙り、力なく俯く。


「まぁ、もともとこの婚約は、私たちの意思に即したものではない。言ってしまえば政治的な目的だ。


 シンシア殿、貴女は名義上、私の妻になるだけのこと。それはわかってはいる。心まで望むなんて、そんな酷なことはしない。


 だがさすがにこれは夫として見過ごせない。私を侮辱する行為だ。


 残念だが、貴女には失望したよ、シンシア殿」


「エリオット、様…、」


 気まずそうに俯くシンシアを尻目に、


「———誰か!」


 と、エリオットが部屋の外へ呼びかけた。


 その声に、お呼びでしょうか?殿下!と、すぐさま外に控えていた兵士が入ってくるのだった。


「この者をへぶち込んでおけ」


「かしこまりました」


 主の言葉に二つ返事で頷く兵士はガシッとフィーゼを取り押さえるのだった。


「おいっ、ちょっと、待てって!」


「フィーゼ!?」


 フィーゼはみるみる腕を後ろに縛られて連行されていく。シンシアは思わず止めに入ろうとするが、光影にそれを阻まれてしまう。


「エリオット様、違うんです、本当に私たちは何も———」


「何かあってからでは困るんだ。貴女が正式に私の妻になる前に、一線を越えられるようなことは決して許されないし、私が許さない」


「エリオット様、」


「これはその予防線だ。安心してくれ。これでも要人の従者だ。殺すような手荒なマネはしない」


 彼からポロッと飛び出した恐ろしい言葉に、思わずシンシアは生唾を呑む。


 ———そうだ、忘れていた。ジェヘラルト公国ここが、裏社会で暗躍する組織や諜報員を世界中に配する、血生臭い、恐ろしい国だということを。


 シンシアは先ほどまで見ていたエリオットとは打って変わった冷たい姿に、ゾクっと背筋が凍りついていた。


「それで、貴女の具合は?…まぁ、それだけ動けるなら、わざわざ聞くまでもない、か」


「勘違いされるようなことをしてしまい、深くお詫び申し上げます、エリオット公子殿下。ですからどうか、従者をお放しください。お願い申し上げます」


 シンシアはスッと床に手をついて深々とひれ伏す。


「今日は貴女のお披露目も兼ねての、私の誕生祭が執り行われる。


 王位継承権第一位の私にとっても、この国にとっても重要な祭典だ。貴女も準備に抜かりなきよう、呼びに来るまでこの姉上の部屋でゆっくりと休まれよ」


 まるでシンシアの言葉など初めからなかったかのように、エリオットはそれだけ言うと、いまだ床にひれ伏す彼女の隣りをスッと通り過ぎて行く。


 部屋には、そのまま動かないシンシアと、まだ光影が残っていた。


「公女殿下、どうぞ姿勢をお直しください。もう若は…、我が主は部屋を出られましたゆえ」


「…。」


 エリオットが去ってもなお姿勢を崩さないシンシアが心配になってか、光影は彼女の傍で膝をつくと、


「申し訳ございませんが、少しだけお身体に触れてしまう無礼をお許しください…」


 そう言って、エリオットも誰も見ていないことをキョロキョロと確認し、シンシアの肩をそっと抱き上げて、床にぺたんと座らせたのだった。


「———まだ貴女様の前では名乗っていませんでしたね。我が名は光影。エリオット様の、皇 神威 様の従者です。」


「…。」


 シンシアは半ば放心状態でそのまま俯いていて、光影を一向に見ようとしない。


「公女殿下はあの従者と本当に仲がよろしいのですね」


「…。」



「———私はお2人が羨ましいです」



 その言葉にはシンシアはピクッと反応を示す。


「私は、主にそこまで心を許していただいたことはありませんから」


「…光影、さん?」


 ふと顔を上げたシンシアの目に映った光影は、どこか寂しそうに微笑んだ。


 と、その時、


「光影、何をしている?早く来い」


 外から主の声が聞こえ、はい、ただいま!と、慌てて返事をする光影。


「我が主から聞いたかもしれませんが、あの方は生まれてからこれまでの貴女様の素性をよくご存知です。家族構成から、家族との関わり、どのようにしてこれまで生きてこられたのかも」


 その言葉に、どこか不安そうに光影を見るシンシア。


「 “ 貴女様を救いたい ”。


“ 貴女様をあの屋敷から自由にして差し上げたい ”。


 我が主は誰よりもそう願われています」


「っ———、」


 シンシアはその言葉にハッと目を見張る。


「…フフッ、ここだけの内緒ですが、我が主は、貴女様から届くお手紙をいつも、それはそれは楽しみに、心待ちにしておられるのですよ」


「…っ、」


 その言葉に、シンシアはそっと目を逸らすのまった。


【———まさか、貴女に裏切られるなんてな】


【おしとやかで、穏やかで、心優しくて、とても温かい方なのだと思っていた…。けどそれも、所詮手紙の上でのこと。現実は真っ赤なでたらめだったようだ】


 先ほどエリオットから浴びせられた言葉が、頭の中でこだまするように鳴り響いていた。


 ———勘違いとはいえ、あれ程までに彼を怒らせて…、いや、傷つけてしまったのだ。


 思えばたくさんの準備をしてくれていた。


 私が一人だけ西の、別の国の民族衣装を着て気まずい思いをしないように、あんなに美しいドレスを用意してくださったり、食事の好みだって、きっと手紙であらかじめ私が書いたものに合わせてくれていた。


 一歩も自国を出たことがないこんな小娘の、一人他国へ赴く私の不安を汲み取って殿下なりの真心で懸命に取り除こうとご配慮くださっていた。


 妹想いで、家族想いで、とてもとてもお優しい方…。


 なのに私は、そんな彼の心を、想いを———。


 キュッと拳を握りながら、やるせなくそっと息をつくシンシア。


「昨夜の晩餐会ですでにおわかりでしょう?我が主をはじめ、すめらぎの人々は、皆、貴女様を心から、家族として迎え入れたいとお思いなのです。それだけはくれぐれもお忘れなく」


「家族…、」


 シンシアは自分に一番馴染みのない言葉を、ポツリと呟いた。


 …と、


「光影!」


「っ、はい、今行きます!!」


 外から聞こえる主からの催促に、光影は慌てて返事をする。


「光影さん、私には、家族というものがよくわかりません…。でも、フィーゼは、我が従者は、私の家族よりも大切な存在です!」


「公女殿下…。落ち着いてください、主もおっしゃっていたでしょう?手荒なマネはしないと。


 貴女様の従者殿はきっと、牢ではなく、与えられた部屋に戻されたのだと思います」


「本当、ですか…?」


 光影の言葉に今までガチガチに強張っていたシンシアの表情がやっと少しだけ綻ぶ。


「ただ、すぐに会えるかというと、わかりませんが」


「…っ。本当に事故だったんです。私と彼の間に、そんな情はありません」


 シンシアはやるせなく首を横に振りながらそう言った。


 その姿をただ心配そうに見つめる光影。


 貴女の言葉を信じたいが、そんな顔をされては、少し自信が揺らいでしまう…。


 それに、貴女は気づいていないのですか?あの白い従者が貴女にどんな視線を送っているのか。


 光影は心配で押しつぶされそうなシンシアの顔に、一つ息をついたのだった。


「我が主には、貴女が従者と主従の関係以上の情を抱いてはいないことは改めて申し伝えます。


 きっと、あの方もわかってはいると思います。…けど、【はい、そうですか】で、簡単に許してしまうわけにも立場上いかないのです。ご理解ください」


「…っ。もしかしてそれを、わざわざ言うために?」


 何かを察したシンシアはハッと光影を見るが、当のその人は、さて、なんのことでしょう?とどこかおどけながら首をかしげるだけだった。


「ぁ、いぇ。引き止めてすみません。早くエリオット様の元へ戻ってください」


「…では、私はこれで失礼します」


 光影は一礼して足早に部屋を後にしたのだった。


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