第36話ー夢に降る雨ー

 ———その頃、やっと主と2人きりになれた部屋で、フィーゼはベッドに横たわるシンシアの柔らかい髪に手を伸ばしかけて、そっと手を下ろした。


 ったく、これじゃモントレーでの二の舞じゃないか。


 どうしてあの時、貴女を一人で行かせてしまったのだろう?


 どうして貴女のそばを離れてしまったのだろう?


 悔やんでも悔やみきれない後悔の念が引っ切り無しに押し寄せてくる。


 医者の話では、身体のどこにも傷は受けていない。だから、命に別状はない、とのこと。あとは目覚めるのを待つだけ。つっても、それは一体いつまでなんだ———?


「俺にもお嬢やファルーテみたいな浄化や癒しの力があれば…」


 フィーゼは当てもなく宙に手をかざす。その手の周りには自然と氷や雪の結晶が集まってくる。どうやら空気上の水分が彼の冷気に晒されて瞬時に凍ってしまったようだ。


「この怖い力を、貴女を救う優しい力に変えることができたらいいのに…」


 ため息混じりに言葉を零す。


 ったく、願ってどうこうなっちまうんなら、はなから神様なんていらねーんだが…、


 そもそも神なんて、今となってはこれっぽっちも縋ろうだなんて思わんが、こればっかりは話が別だ。


 お嬢といる間は、俺だって多少なりとも見返りのない人助け…、慈悲ってやつを施してきたはずだ。


 神様にはなんでもお見通し、って、誰が言ってたっけか?


 …なぁ、全部見てたんだろう?


 この際、風の神イェティスでも、俺を封印しやがった地の神スディンペルでもなんでもいい。


 巡り巡ってその借りを今ここで返してみせろ!


 どうかこの子を、


 俺の主を、救ってみせやがれってんだ!!


 フィーゼはまるで藁をも掴む思いで懸命に心の中で願い、祈り続けるのだった。


 生まれてこのかた、誰かのために祈るとか、願いを請うとか、考えたこともなかった。


 そんな当時の自分が、たかが人間の小娘一匹のために、全力でそうしてしまっている今の自分を見たら、一体なんと言うだろうか…。


 ———ハッ、きっと大爆笑だな。


 そんなことを思いながらも、それでもいいと、そこまで自分を変えてしまった人間の少女の手を握りながら、フィーゼは目を瞑って必死で祈るのだった。


 そんな中、フィーゼの耳飾りとシンシアが首から下げている氷翠石の笛がまるで共鳴し合うかのようにターコイズブルーの美しい光を放ちだしたことにも気づかずに…。



 ♢



 ———その頃、エリオットと光影は、宮殿の外れに設けられた“明麓殿”という、とある住まいを訪れていた。


「公子殿下、いかがされました?こんな時間に…」


「見舞いに来ただけだ。中へ通せ」


 突然の訪問客に入り口に控えていた女官は目を丸くする。


「…しかしながら殿下、今は先客がおらせられます。恐れ入りますが日を改めてくださいませ」


「急ぎの用ゆえ、それはできかねる」


「そう申されましても…、」


「もういい。どけ」


「っ、あぁ、ちょっ、お待ちくださいませ、殿下…!」


 話していてもらちがあかないと判断したエリオットは女官を押し除け、明麓殿の奥へと足を進めたのだった。


 奥の間へとやってきたエリオットはそこに控えていた女官が再び同じように止めるのもよそに、扉を開けた。


「神威?!」


「二の姉様…、」


 部屋の中の人物と対面し、お互いは目を丸くする。先ほど女官が先客といっていたその人は、第二公女の羅神だったのだ。


「そろそろ来る頃かと思っていたわ…」


「お加減は、いかがですか?」


 エリオットの言葉に、羅神は力なく首を横に振る。その様子に、彼は小さく息をつく。


「私ではダメみたい…。あとは貴方に任せるわ」


 羅神は弟にそう言いつつ、その後ろ側にも目を向けながらその場を立ち上がり、そのまま部屋を後にした。エリオットは彼女と入れ替わるように、先ほど彼女がいた場所に座す。


 とは言っても、私の言葉一つでどうこうなるものでもないが…と、ため息混じりに目の前にいるベッドの上に横たわるその人の手をとった。


「ご無沙汰しております。こんな時しかここを尋ねない無礼をお許しください」


「…。」


「もうご存知かと思いますが、あの方がアレに触れてしまいました。あの時のあなたのように———」


 ポツリと呟くエリオットの手は、今なおずっと小刻みに震えている。


 入口の方に控えている光影はやるせなく彼の様子を見守るばかりだ。


「お願いです。あなたの力でどうかあの方を救ってください!代償は全て私が…、この僕が払います。耳…は、もうないから、それ以外の…、目でも腕でも、脚でも、足りなければ足りるだけのものをなんだって差し出します。だから、どうか、」


 あの子まで連れて行かないでくれ———。


 ベッドで眠るその人の手を両の手でキュッと包み込みながら、そこに縋るように額を寄せて、必死に懇願するエリオット。


 見兼ねた光影が、若…、と声をかけたが、その後にエリオットが続けて零す言葉の一つ一つに、光影はそっとまた口を閉じた。


「まだお怒りなのですか?僕が貴方の全てを取り上げてしまったから。奪ってしまったから…」


「…。」


「王位継承権も、第一公子という地位も、そして光影…、その上 “ あの子 ” までも…」


「…。」


「わかっています。僕には過ぎたものばかりですから。“ 持たざる側 ” である僕には、何もかもが手に余る…」


「…。」


「今こそ全てお返しします。かつては貴方のものだった、全てを…。


 だから、どうかお願いです。お助けください、“ 兄上 ”!


 どうか、どうかこの通りです…」


 エリオットはベッドで眠るその人に向けて、ただただ願うことしかできなかった。



 ♢



 ———そんな中シンシアはというと、いまだ意識は暗闇に囚われたままとなっていた。


〈助けて———〉


 暗闇の中、誰かがシンシアに語りかけてくる。


 誰…?遠くで誰かが泣いている声が聞こえる。子どもの声?


 助けてって…、一体何があったのだろう?


 声は暗闇の中から数多聞こえてくる。しかし、同時に沢山聞こえてくるせいでうまく拾えない。そしてその声の主が一体誰なのか、まるで姿も見えない。


〈早く私たちを天界に帰して———〉


 天界に帰す?一体なんの話だろうか。


〈そもそも、全てはお前たちのせいだ〉


〈お前たち人間どもがあんなことするから、みんな、みんな帰れなくなっちゃったんだ!〉


 私たちのせい?私たちが一体何を?


 いわれのないことを姿も見えない者どもに詰め寄られ、まごつくシンシア。


 一体どうすれば…?と困惑する彼女の傍で、耳飾りが密かに一つ煌めいた。


 その時だった。


 ———雨?


 突如、その場にハラハラと、雨というにはか弱い、霧雨が降ってきたのだ。


 夢の中で雨が降るなんて、今まであっただろうか?


 シンシアはそんなことを思いながら、真っ暗闇の天を仰ぐ。


 すると、これまた不思議なことが起きた。今まで聞こえていた耳をつんざく全ての声がミュートされたかのように、世界は一瞬で静まり返ったのだ。


 今は雨が降る音だけが、心地よく鼓膜を撫でる。


 まるで、雨が両耳を塞いでくれているようだ。


 ———嗚呼、この雨の音、とっても落ち着く。


 シンシアはやっとホッと息を一つついた。


「そうか、これが、夢雨…?」


 シンシアはその時、ふと、エリオットとの話を思い出していた。


【エリオットという名は、 “ 梦雨ムンユー ” 、夢雨ゆめさめの意だ】


 ここが雨多きジェヘラルト水の国だからだろうか。思いもよらない不思議なことばかりが起こる…。


 シンシアは生まれて初めての体験にフッと笑った。


 そんな中、不意に正面を向くと、そこには一人の青年が傘もささずに、手の平を上に向けてボーッと雨空を仰いでいた。


 まるで先ほどの自分のように。


 ———ダレ?さっき聞こえていた声…?いや、それならこの人だと年齢が高過ぎる。さっきの声は確か子どもだったはずだ。


 …それよりも、どうしてだろう?辺り一面真っ暗闇だというのに、その人の姿だけははっきりと見えるのだ。


 まるでその人自身が光っているとでも言いたいように。


「貴方は…、っ、エリオット、さま?」


「…っ、」


 シンシアの声に気づいたその人は、彼女を見るとにっこりと微笑んだ。


 肯定も否定もしないその様子に、シンシアは首を傾げる。


 なぜエリオット様が私の夢に…。


 ———っ、貴方は、夢雨、だから…?


 この雨は貴方が降らせたと言うのですか?


 …いや、待って。この人は本当にエリオット様?よく見てみると似ているようで、違う人のようにも見える。


 シンシアは目の前のその人にちょっとした違和感を持っていた。


 目の前のその人は漢服に似た東の民族衣装に、頭には暖帽ヌァンマォに似た帽子を被っていた。


 だがその瞳の色は、シンシアの耳飾りと同じ色、コバルトブルーの美しい色をしているのだ。


 そこだけが今まで見ていたエリオットとは大きく違っていた。彼の瞳の色は、紫藍石の、夜空に近い青をしていたから。


 それに心なしか、今まで見ていた彼よりももう少し髪が伸びて、大人びた雰囲気を纏っているのだ。


 シンシアは自分でも気づかない間にその人に釘付けとなっていた。


「こちらにいらしたのですね。随分探しましたよ」


 急にその人が声を発したものだから、シンシアはビクッと反応する。


「そうか、こんな暗闇でも君が見えたのは、その可愛らしい光たちのおかげか」


 顔も声も何もかもよく似ているはずなのに、この人の口調には、どこか柔さを感じた。


「ヒカリ、たち…?」


「おや、気づきませんでしたか?…その左の耳飾りと服の内側にしまってある、ペンダント?かな。青と緑に綺麗に光って、遠くからでもよく見えました」


 その言葉に、シンシアの視線は氷翠石の笛がある胸元に向けられる。


 この人にはコレが光って見えるのか…。


 残念ながら自分の目ではそこまでは確認できなかった。


「さて、お喋りはこれくらいにして、そろそろ行きましょう。君はこれ以上、コチラ側にいてはいけない。君のようなか弱き光でも、アレはすぐに集まってきてしまうから」


「アレ、って…?」


 その人はシンシアに手を差し伸べるが、彼女はその手をなかなかとらなかった。


「待ってください。あなたは一体誰で、どうして私を探していたのですか?」


「君を助けてほしいと頼まれたのです。きっと暗い場所で迷子になっているだろうからって」


「私を助け———っ、それじゃ、私なんかよりも先に助けてほしい人たちがいるんです」


 シンシアは思い出したように話し出すと、こっちです!と言いながら、ガシッとその人の手を取って歩き出したのだ。


「うぇっ!?ちょっと…、」


 意外にも積極的な彼女に、その人は初めこそ目を丸くしたものの、次第にその顔には笑みがこぼれ出した。どうやらこの状況を楽しんでいるようだ。


「おやおや、何処の馬の骨ともわからぬ初対面の男を、どこへ連れて行こうというのかな?お嬢さん」


「あなたにも聞こえませんでしたか?雨が降ってくるまでは聞こえてたんです。数名の子どもたちの声が。暗闇の中でずっと叫んでるんです。助けてって、帰りたいって…。私じゃ、どうすることもできなくて…」


 声は確か、向こうの方から聞こえて…と必死に訴えるシンシアに、今は冗談も通じないか、と、その人は困ったように笑った。


 ———全く、君という人は…。自分が今どんな状況かわかっているのだろうか。


「ご自分よりまず他人の心配ですか?…さすがはお母上に似て、君も大層慈悲の心に満ち溢れたお方のようだ」


「———っ、母のことを知ってるんですか?」


 シンシアは改めてその人を見るが、…いや、それよりまず子どもたちを。とても辛そうな声だったからと、逸れそうになった話をもとに戻す。


 足までは止めないシンシアに、その人は小さく息をつく。


「あの子たちなら大丈夫。私がなんとかしている最中だから」


 そう話すと、え…?と、シンシアはやっとピタっと足を止めた。


 それがあまりに突然過ぎて、手を引かれていたその人はうぉっと…、と、つんのめりながら慌ててそれに合わせて静止する。


「…といっても、君も聞いててわかったと思うが、どうにも数が多くてね。結構時間を要しているんだ。けど、



 ———必ずみんな助ける」



「…っ、」


 なんとも力強い言葉で言ってのけたその人の笑顔は、シンシアの目にはとても輝きに満ちて見えた。


 この人に任せておけば、全てをいい方向へと導いてくれる。そんなふうに思えた。


「君だって例外じゃない。さぁ行こう。私があるべき場所へ還してあげる」


「…っ、はい」


 そう一つ頷いたシンシアは、改めてその人の手をとった、その瞬間だった———。


「…っ!?」


 今まであんなに真っ暗で何も見えなかった黒い世界に、まるで雲が晴れたかのように雨は止み、突然満点の星空が現れたのだ。


 うわぁ…と、シンシアは思わず目が奪われる。


 これは、一体———?


 パッとその人を見ると、彼も天を仰いでいた。急に変わり果てた世界に、同じように目を奪われて、同じように息を漏らしていた。


「そうか、これが君の心の中の世界…。何と美しいことか…」


「…ぇ?」


 私の、世界———?と、シンシア首をかしげながら、少し背の高いその人を見上げる。


「私では、こんな美しい景色はそうそう見られない。


 君はきっと、沢山のものに愛され、護られてきたのだろうね」


 感嘆する彼だが、その言葉の意味はシンシアには届かず、彼女はうまく反応できない。


「君は自分の力だけでなく、何かの力をも借りて、より一層光り輝ける人なのだろう。まるで太陽の力を借りてより美しく輝く、あの月のように」


 その人が指差す先には、星々に囲まれながら、まん丸の満月が光り輝いていた。


 まさにその名にふさわしいな、とその人は穏やかに囁いた。


「太陽はその強過ぎる光ゆえに、時に皆を疲弊させてしまう。


 ———私も君のような、月のように優しい光を携えていたなら、皆、目が眩むこともなかったのだろうか…」


 その人は遠い目をしながらポツリと言葉を漏らした。


 その顔は確かに笑っているにもかかわらず、なぜだかとても寂しそうに見えた。


 しかしながら、やはり彼の言葉の意味はシンシアにはうまく理解できなかった。

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