グレープフルーツ

夜桜くらは

グレープフルーツ

「うわ、グレープフルーツ入ってた……」

「ん、もらうよ」

「ごめん、ありがと」

「うん」


 私は光輝こうきのタルトから、グレープフルーツだけをフォークでとって口へ運ぶ。果肉が舌の上で弾けて、爽やかな香りが鼻腔びくうに抜ける。


「いつもごめん、れい

「いいよ、気にしないで」


 眉尻まゆじりを下げて謝る光輝に、私はなんでもないように笑顔を返す。このやり取りも、もう何度目になるだろう。

 光輝は、大の甘党だ。生クリームがたっぷり乗ったケーキ、チョコレートソースのかかったクレープ、ハチミツをふんだんに使ったハニートースト……。とにかく、甘いものならなんでも好きだ。

 そんな光輝に対して、私は甘いものが得意じゃなかった。それこそ、光輝の好きな生クリームたっぷりのケーキなんて、一口で胸焼けしてしまう。

 だから、私たちはフルーツタルトの美味しいカフェを、デート先としてよく選ぶ。私はフルーツの甘さなら好きだし、光輝も苦手なグレープフルーツを私にゆずれるから。


「ダメなんだよな、どうしても。なるべく入ってないやつを選ぼうって意識はあるんだけど」

「まあ、仕方ないよ。でも私、グレープフルーツ好きだから、むしろ嬉しい。それに、光輝には食べたいと思ったものを食べてほしいし」

「……そっか。ありがとう」


 光輝はまた眉尻を下げて、でも今度は少し嬉しそうに笑った。そして、再びフォークをタルトに伸ばす。

 こんな、好みが正反対な私と光輝が付き合うことになったのは、本当に偶然だった。光輝の言葉を借りれば、『運命の出会い』というやつだ。


 一年前。私がバイトしていたカフェに、光輝は数人の友達と一緒にやってきた。そして、カウンターに立つ私を見て、一目で恋に落ちたらしい。

 それから光輝は、カフェに足繁あししげく通ってくれて、私のシフトの合間をって、一生懸命声をかけ続けてくれた。

 私は最初こそ、光輝のアプローチに戸惑った。出会ったばかりなのに、どうしてそこまで私を想ってくれるのか、理解できなかった。


 けれど、光輝の想いは真剣で、真っ直ぐだった。何度も会って、話しているうちに、彼の人柄の良さや、優しさに惹かれていった。

 友達とおしゃべりしているときの、屈託のない笑顔。

 カフェの新作スイーツを試食したときの、幸せそうな顔。

 そして、私を見つめるときの、優しい眼差し。

 そのどれもが、私をときめかせた。


 光輝の想いに応えたい。私も、光輝のことが好きだ。そう自覚した私は、光輝に「よろしくお願いします」と返事をしたのだ。

 まだ寒さの残る三月の夕方。カフェに差し込む夕陽ゆうひが、光輝の笑顔をオレンジ色に照らしていた。その顔を、私は一生忘れないだろう。


 それから私たちは、順調に交際を続けてきた。お互いに大学二年生になった今も、それは変わらない。


「伶、どうかした?」

「ううん、なんでもない」


 光輝の笑顔に見とれていた、なんて恥ずかしくて言えない。私は慌てて視線をらす。

 すると、光輝は何を思ったのか、私の口元にフォークを差し出してきた。そこには、一口大に切られたタルトが刺さっている。


「はい。一口あげる」

「いや、いいよ。自分のがあるし」

「いいから、ほら」


 光輝は、フォークをさらに私の口元に近づける。私は仕方なく、そのタルトを口に入れた。


「どう?」

「……甘い」

「はははっ! そりゃそうだよ」


 光輝はおかしそうに笑った。私は恥ずかしさを誤魔化すように、タルトを飲み込む。


「……もう、光輝のグレープフルーツ食べてあげない」

「えっ、ごめん。許して、伶」


 私のちょっとした意地悪に、光輝は大袈裟おおげさに慌てた。ここまで素直に反応されると、私の怒りも長続きしない。


「……ふふ、冗談だよ」

「なんだ、よかった」


 光輝は安心したように笑った。そんな光輝につられて、私もつい笑ってしまう。

 光輝と過ごす時間は、本当に楽しい。これからも、光輝と一緒にたくさんの思い出を作っていきたい。


 ……そう、思っていたのに。

 光輝は、私を置いて突然旅立ってしまった。


 一月のある寒い日、光輝は交通事故で亡くなった。飲酒運転をしていたトラックが、赤信号を無視して交差点に突っ込んできて、そこにたまたま居合わせた光輝をねたそうだ。

 私たちの関係を知る友達から、その連絡があったとき、私は嘘だと思った。何かの間違いだと思った。

 けれど、遺体安置所で対面した光輝は、青白い顔をして横たわっていた。もう息をしていない彼の姿を見てもなお、私はこれが現実だと受け入れることができなかった。


 どうして。なんで光輝が。こんなことになるなら、もっとたくさんデートに付き合ってもらえばよかった。もっと二人でいろんなところに行きたかった。もっともっと、光輝と一緒にいたかった。


 光輝の葬儀を終えてからも、私は現実を受け止められずに呆然ぼうぜんとしていた。その間のことは、よく覚えていない。親元を離れての大学生活だったから、気にかけてくれていた友達がいなかったらどうなっていたかわからない。それほどまでに、私の心は壊れてしまっていた。


 それから一月ほど経って、私はようやく現実と向き合うことができるようになった。葬儀のときに、光輝のお母さんから連絡先をもらっていたので、私は線香をあげさせてほしいと頼み込んだ。

『もちろんよ。いつでも会いにきてあげて』と言ってくれた言葉に甘えて、私は光輝のお墓があるお寺を訪ねることにした。


 そして今、私は光輝の眠る墓石の前に立っている。

 線香の煙と、冬の冷たい風が私の髪を揺らした。


「光輝」


 私は彼の名前を呟く。もちろん、返事はない。


「光輝、私ね」


 私は墓石に向かって語りかける。


「……光輝のいない世界が、怖い」


 そう、私は怖いんだ。


「もう、光輝の笑顔が見られないなんて……信じたくないよ……」


 光輝が旅立ってから一月も経つというのに。私の中では、まだ彼が生きているような気がしている。

 でも、光輝はもういない。私の隣にはいない。その事実を受け止めるたびに、胸が張り裂けそうになる。

 それでも、私は光輝を想い続ける。彼が愛してくれた私でいられるように、私はこれからも生きていく。


「光輝、大好きだよ」


 私は墓石に向かって言う。私の言葉は風に乗って、すぐに冷たい空気に溶けて消えてしまった。それでもいいと思った。この言葉は、私だけのものだから。


「……また来るね」


 私はそれだけ言い残して、墓石に背を向けた。そして、ゆっくりと歩き出す。

 何気なくコートのポケットに手を突っ込むと、何かにれた。取り出すとそれは、飴の小袋だった。グレープフルーツ味の、飴。


「これ……」


 光輝が、いつも飴を舐めていたことを思い出す。飴の袋を携帯していたことも。


『伶、これあげる』


 光輝の声が聞こえた気がして、私は思わず振り返る。けれど、そこには誰もいない。


「……光輝」


 私はもう一度、愛しい彼の名前を呼ぶ。そして、飴の袋をそっと開いた。甘いグレープフルーツの香りが、ふわりと私の鼻腔をくすぐる。

 私は飴玉を口の中に放り込む。そして、その味を確かめるようにゆっくりと舌で転がす。

 私の好きな、グレープフルーツの味。爽やかで、甘酸っぱくて、ほんのり苦い。

 その苦みが、今日はなんだか切なくて。鼻の奥がツンとした。


「……またね」


 私は小さく呟いて、お墓を後にした。

 もう泣かないと決めたけれど、今日はダメみたいだ。視界がじわりとにじんでいくのを感じた私は、空を見上げた。

 冬の冷たい空気を吸い込んで、ゆっくりと息を吐く。白い息がふわりと広がって、すぐに消えた。


「光輝、私……頑張るから」


 そう呟くと、私の目からはこらえきれなかった涙がぽろぽろとこぼれてきた。でも、もう大丈夫。この涙はきっと、悲しみの涙じゃないから。


「光輝、大好きだよ」


 袖口そでぐちで涙をぬぐって、私はもう一度、愛しい彼の名前を呼んだ。そして、一歩ずつ前へ歩き出す。

 冬の風は冷たかったけれど、なんだか少し優しくなったような気がした。

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