海月と陽花

年末年始は今までと変わらず平和に過ごした。


一月七日から。そこが地獄で、今学期中にまわりきろうとする華日に振り回される毎日だった。陽花について思い出せて嬉しくなれるようなことも多かったけど、やっぱり外出が辛い。予定があると嘘をついてみたりしたが、すぐに予定がないことを看破され、圧の強い笑みで追及された時には、陽花の方がまだ優しかったんだなぁと身に染みて感じた。結局、手を引っ張って無理くり外に連れ出されたのは多分今年一のエネルギー消費になるだろう。


『春休みもあるんだからいいだろ! 今日くらいゆっくりさせてくれ‼』


『その時には望さんもう立派な受験生ですよね? 私だって連れ出すの心が痛まないこともないんですから、冬休み中に終わらせましょうよ!』


『心が痛むんだったら今遠慮してくれよ!』


『どうせめんどくさいっていう理由だけなの知ってますから! 中学生だってこんなにごねませんよ‼』


『高校生はなぁ、ごねどころを選ぶんだよ‼ 普段はごねずとも、ごねるべきところはごねる‼ そしてそれが今だ‼』


『ぜったい違うでしょ‼ 今日行かなかったら明日もいかないの知ってますから‼ 今日はぜったい退きませんよ‼』


うん。持久走より疲れたよね。


なんでここまで華日が姉の思い出巡りに固執するかも、何で僕がそれを断らないかもほとほと謎だ。


いや、後者は違うな。


本気で断った方が面倒だからだ。


というわけで、今日は水族館。


不本意ながら僕の人生史上最も活動的な冬休みとなっている。


二月の冷たく乾いた風にも慣れてきて、僕は少しものさみしく感じた。


家と一心同体になっていた理想的な冬はもう、二年も過ごせていないらしい。


「こんにちは。今日はやけに気分がよさそうですね、望さん」


ベージュのトレンチコートに身を包んで、華日がやってきた。


「そうか? 逆に少し寂しげになってたと思うんだけど」


「わたしが来なくて寂しがってたんですか?」


「冗談が姉とかぶってるぞ」


「え、ほんとですか?似てますか?」


「いや。笑顔とか特に全然似てない」


「そうですか…」


華日は何故かがっかりしたようだ。姉と似ていると言われたいのだろうか?


…まあいいや。


「それじゃ、行くか?」


僕が聞くと、華日はこくんとうなずいた。


星見ヶ丘水族館はこぢんまりとした、古めの水族館だ。


小さめと言っても一通りの定番は揃えているし、イルカだっている。


地元からの人気が根強い、ローカル水族館といったところだ。


地元の高校生の間で有名なのは、「星は見えないから気をつけろ」というものだ。


星見ヶ丘というのは、まず丘ではない。平坦な地で、海に近い。


そして星などほとんど見えない。都会と言えば都会だけれど、別にそこまで発展してるわけでもないよね…という微妙な感じの土地なくせして、街灯はしっかりと整備されており、どんなに真夜中で空が澄んでいても一等星くらいしか見えない。


カップルがその名前につられて、水族館からの星空というロマンチックな流れを期待して来ては、星空が見えなくてがっかりするというのがお約束らしい(ざまあみろ)。


ただ、僕は今回も前回も、星空を見に来たわけではない。


前回同様、お目当ては————


「一般入場と合わせてクラゲの特別展覧会のチケットもください」


というわけだ。


クラゲを見るのは、僕もとても楽しみだ。


気分がよさそうと言われたのは、それが原因だったかもしれない。


地方を感じさせる有人カウンターを通って、僕たちは水族館の中へ入っていった。


————


『わたし、海洋恐怖症に対する配慮もする』


『何言ってんの』


完全に出オチだ。


ここ最近の学校でのかかわりで、陽花の発言の二割は出オチだということがわかってきた。


そして残りの六割が冗談、二割が独り言だ。


『海洋恐怖症に水族館を無理やり勧めない。水族館ハラスメント、スイハラはしない』


『なんだそのスイーツ食べ放題サービスを提供してそうなハラスメントは』


『それはスイパラ。…実際に、スイーツ・ハラスメントもあるけど』


『あるんだ……』


『ちなみに、アスハラもある』


『なんだそのベーコンで巻くとうまそうなハラスメントは!』


『それはアスパラ。アストロロジー……、占星術ハラスメントのこと』


『聞いても何かわかんねえよ…』


僕は若干引く。何でもかんでもハラスメントにしやがって。


しりとりのら攻めで無敵なんじゃないか。


『ていうか、海洋恐怖症に対する配慮ってのもなかなかやりすぎだろ。


ごくごく少数なんだから、そんなことまで配慮してたら日が暮れる』


『君はいつも動かない理由ばかり思いつく。少しでも前に進もうとか思わない?』


上目遣いなんてされても困るだけだ。


『苦労して前に進むより、苦労しない方がいいだろ』


すると、陽花はその言葉を待っていたみたいに無邪気に笑った。


『だからわたしは君を苦労させるんだよ』


————


「そういえば、なんでお姉ちゃんと水族館に来ることになったんですか?」


名前も知らない熱帯魚を見ながら、華日が尋ねてきた。


「僕がクラゲを見たいって言ったんだよ」


「そんな気軽に水族館に行く関係性だったんですか⁉」


水族館なのに割と大声で華日が驚く。


こいつ、絶対また思春期脳が働いてやがるな。


「いや…、家を訪ねてからなんかそういう流れになっただけ……」


あれ?


何でそういう流れになったんだっけ。


他の記憶から見ても、名前の呼び方も、距離感もある時点でいきなり変わっているのは一目瞭然だ。


ただ、その理由となる出来事がわからない。その前後が靄に包まれている。


やっぱり、家で話したこと周りがまったく思い出せないんだ。


一体、どうして……。


「望さん?」


顔を上げると、華日が不思議そうにこちらを覗き込んでいた。


「大丈夫ですか?」


「あぁ…、うん」


頼りなく返事をする。


ここさえ思い出せれば、華日の思い出巡りから抜けることができるだろうに……。肝心なところが思い出せなくて、自分にも華日にも申し訳なかった。


「思い出せないなら大丈夫ですから。……また何で寂しそうな顔してるんですか」


そんな顔をしていただろうか? そうだとしたら、少し恥ずかしい。


「早く、次のところ見に行きましょう」


華日は気にしない調子で笑って言った。


年下に助けられてばかりで、情けないな。


僕は少し目を逸らしながら、早足で彼女について行った。






————


『わたしは金持ち』


イルカを見ながら、ふと思い出したかのように陽花は言った。


『知ってるけど。果てしなくうざいな』


『正確に言うと、わたしの両親が金持ちなんだけど』


『それでも十分うざいな』


『金持ちは会食したがる』


『ほん』


目の前のイルカに何の反応もしない。


だけどそれをいちいち突っ込んでいては話が進まないのが水浦陽花クオリティだ。


『金持ちは子供を会食に連れたがる』


『そろそろ偏見だってそこら辺の金持ちに怒られても仕方がないぞ』


『わたしの家はそうだった』


『それにしてはいままでの主語があまりに巨大すぎたな』


『会食は地獄』


『それも主語でかだよね?』


『歯に衣着せぬ、っていうけど、会食だとみんな歯に衣着せまくる』


せめて僕の言葉に少しは反応しろや。相変わらず会話を知らない非人類過ぎる。


陽花の目は僕を見ていても、どこか遠くを見ているような気がしてならない。


『言葉に色をつける。感情を無理につけて、本心のない建前の会話が始まる』


『最早、集団圧力みたい。わたしもその無理やり付けられた色が本当の色だって改変しなきゃいけない。それにあった色を付けなきゃいけない』


『最低の気分』


陽花は真顔でそう言った。


僕も実際もしそうだったら、クソみたいな気分になるとは思う。


けれど、ここはあくまで反対の立場をとってみようと思った。


『まぁ、社会で暮らしていく上で多少の建前を受け入れなきゃいけないのは仕方ない。それに慣れるってことも、大人になるってことの一つなんだろ?』


すると、陽花は怒ったような目でこちらを見上げてきた。


『望君、わたしが正論を聞きたいと思う?』


ご所望なら同情の芝居くらいしようかと、僕は悲しみに顔を歪ませた。


『あぁ水浦さん、なんて可哀想なんだぁ……。この悲劇を後世まで語り継がなきゃ…』


『それは励ましでも慰めでもなくて皮肉』


『あれ、陽花はお肉好きじゃなかったっけ』


『それは皮肉じゃなくて挑発? 殴って欲しいなら今すぐそう言えばいいのに』


『ピアノを弾く手が傷つくぞ』


『それは挑発じゃなくて暴言。言葉のナイフ』


『つい言いたくなっちゃって』


『私は君には色を付けた言葉を使わない、なんて言ってあげようとしたのに』


『言葉に本当に色がつかないのは小学生低学年以下だけだ』


『ロリコン?』


『それは暴言に入れていい?』


『正論かな』


『ごもっとも』


————


イルカは相変わらず輝く太陽のもと、元気にボールをついていた。


「お姉ちゃんは、そんなに辛かったんですね…。気付けなかったのが悔しいです」


華日が呟く。僕はそれを聞いて少し呆れた。


あんな茶番みたいなやり取りをしたのに、そこじゃなくて最初の方に注目するとは。


どうせ陽花の冗談の内に決まってる。


「いや、あいつがそんな奴なわけないだろ。狂ってるやつなんだから」


「行動も言動も理由がわからない。本当に人なのか?って感じだ」


笑いながらそう言った。すると、変な間が空いた。


横を見ると、華日が小さくうつむきながら黙っていた。


ちょっと言いすぎただろうか?


「…そうだといいですね」


華日は少し無理したように笑った。


僕は心がきゅっとなって、それが何でかわからなかった。


華日を見たくなかったので、下を向いて考え込むふりをした。


…考える必要はない。


「それはそれとして、砦さん、ロリコンなんですか?」


華日は僕が困惑するほどの爆速で気まずく落ち込んだ空気から切り替えて、話した記憶の汚点を逃がすまいとつついてきた。


この突拍子もなさはやっぱり姉妹なんだろうか。


「…別に。アニメでは低身長で幼げなキャラが好きなだけだよ」


「最近近づいてたと思った心の距離が今一気に開きました」


「中学生は守備範囲外だから華日は安心していいぞ」


「なおさら犯罪味が増してます……」


「三次元は守備範囲外だ」


「それを先に言えばよかったのに、何で先に気持ち悪い方を言ったんですか」


「……」


「黙らないでください⁉ より怖くなるじゃないですか!」


「いや、三次元も完全に守備範囲外とは言い難くて……」


「もしもし~お巡りさん?」


「もしもしポリスメンをするな。冗談だよ、冗談。社会的規範が守れる理性を保ちながらやってくさ」


そう弁明しても、華日はまだ軽蔑の目をこちらに向けてきている。


僕は一つため息をついて、鑑賞席から立ち上がった。


「次はいよいよクラゲ展だし、早く行こう」


視線を無視しながら、すたすたと歩き始める。


華日がその後も少し距離をあけながらついてきたのは、まあ、仕方がないことだ。






『神秘的なクラゲ空間』と銘打たれたその部屋はネーミングセンスこそ微妙だけれど、確かに神秘的だ。去年と大きく変わっていないようで、僕はがっかりすることがないことに安心した。


薄暗い空間に、水槽のクラゲがほのかに浮き上がる。


ゆらゆらと揺られているクラゲを見ると、なんだか心が落ち着いて、眠くすらなってくる。


「これは綺麗ですね…」


華日もどこか見惚れている。


自分が面食いだとは思わないけど、その横顔は綺麗だと思った。


確か、前に来た時にもこんな風に思ったことがあったはずだ。


————


『クラゲは好き?』


唐突にそう聞かれて、僕はちょっと考えた。


『好きかな』


『こいつらには脳がないらしいから。考えなくても感じなくても生きていけるのは、羨ましい』


陽花はいつも通りふふっと笑う。


『じゃあ、ヒトデもナマコもイソギンチャクも、みんな好きなの?』


『ぱっと思いついた適当な理由だよ』


『わたしの前では言葉に気をつけて』


『ご忠告どうも』


ふわふわ漂うクラゲは他にはない神秘的な綺麗さを持っていて、僕はどうもそれに惹かれただけのような気がする。


他にはない、神秘的で不思議な————。


『どうかした?』


言われて、はっと我に戻った。


陽花が首をかしげている。


どうやら、陽花の方をじっと見ていたらしい。


『陽花は、クラゲに似てるな』


つい、思ったことが口からこぼれた。


さっきの発言と合わせると、第三者的に見ても変な風に聞こえてしまう。


まずい。


『陽花、今のは————』


『そう?』


僕が弁解しようとしたとき、陽花は素っ気なくそう返事した。


まるで何も気づいていないみたいに。


『クラゲは、風が強いときには簡単に波に流される。砂浜に打ち上げられて、簡単に一生を終える』


僕は陽花の話し方に慣れてきたので、何も言わず耳を傾けた。


『だから、君の言っているように何も考えず生きていけるのは、ほんの一握り』


陽花は、今まで見せたことのない表情になった。


『君と私はよく似ているよね』


『君は、もし波に打たれて死ぬようなクラゲでも、好きだと言える?』


僕は、質問の意味を考えようとする。


その瞬間、心がきゅっとしたのを感じて、それを緩めようと努力した。


『わからない』


結果、僕はよく考えずに答えた。


すると陽花は、またいつもの顔を緩めた笑みを浮かべて、


『そっか』


と呟いた。


…違和感が残る。


僕はその後の雰囲気を、クラゲと戯れてやり過ごした。


————


それを話した時の華日の表情は、今までのものとは全く違った。


いつもは少し和むような、暖かな視線で遠くを見つめている。


でも今は、途中から目の奥に明らかな困惑を交えて僕を見つめていた。


その理由などわかりようもなかった。


「ど、どうした? 腹でも下ったか?」


僕は動揺して、つい冗談を言ってしまう。


そんなはずがないということは、目を見ればわかるのに。


「望さんは、お姉ちゃんをどう思ってたんですか?」


状況も相まって、まともに物が考えられなかった。


結果、本当のことを何も答えられなかった。


「いや、別に好きでも嫌いでもなかったよ…。うん、ただ、仕事仲間って感じで…、」


どこからか、鼻をすする音がした。


そりゃあ、もう二月だし。


「わからないんですか、望さん」


「お姉ちゃんのあの言葉は——」


「波に打たれて死んだクラゲは、お姉ちゃんじゃないですか」


泣きそうな声が、僕の耳に届く。


怒りを、悲しみを、やるせなさを、押さえている声がする。


「お姉ちゃんは何で、あなたと一緒にいたんでしょうか」


「何で私に、助けを求めずに、あなたに……!」


華日は必死にそう吐き捨てて、走り去っていった。


突然の出来事に、言葉も出ない。


……言葉を出す気がないわけではない。


何だ、何が華日の地雷を踏んだんだ。


僕はやっぱり何かを忘れたままだ。何か、ピースが足りない。


情報量に身が揺らいで、僕は近くの椅子に腰かける。


どうせ追いかけても、もっと混乱するだけだ。


ゆっくりと目を閉じて、頭の中だけの作業に没頭しようと試みた。


クラゲの比喩。


僕は陽花がクラゲに似ていると言った。


陽花は僕と陽花が似ていると言った。


なら華日の言う通り、波に打ち上げられたクラゲは陽花のことなんだろう。


ただ、どうして?


どうして陽花が、そんな弱気なことを言ったんだ?

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