第一章

「暇だ……」

 病室のベッドで、僕は外を見ながらぼやいていた。

 家で倒れ、栄養失調とストレスに低血糖(詳しいことはあまり聞いていなかったから忘れてしまったけど、大体こんな感じだったはず)ということで二週間の入院が言い渡された僕は慣れない環境で絶賛暇を満喫していた。

 何をするでもなく、何かを考えるでもなく、点滴バッグから僕の腕まで伸びた管を眺め、また腕から点滴袋まで眺めて、滴下する液をぼうっと眺める。

 一滴、また一滴。一秒よりも若干遅く、落ち続けている。

 「これが僕の命の期限ならいいのにな……」

 なんて。

 そしてまた、管を眺め、僕の体に無遠慮に入り続ける液体を見るでもなく見ていた。

「そういえば、屋上に行けるんだっけ……。行ってみるか」

 数分も眺めれば飽きてきて、僕はまた独りつぶやく。

 僕は人付き合いが苦手で、友達と呼べる存在もいない。見舞いに来るのは家族くらいだから、別に病室を空けても問題はない。

 少しふらつく体を点滴台で支えながら、共にエレベータまで歩く。

 この二日間ベッドで横になっていただけで、脚の筋肉は衰えたようで、しばらくまっすぐと歩けずふらふらと廊下を歩いた。

 途中看護師に「付いていきましょうか?」と声を掛けられたが、「大丈夫です」と断った。何となく恥ずかしいのと、変なプライドのせいだ。

 今は病人で彼らがいないと何もできないのに。

 ほどなくしてエレベータ前に着く。近頃は防犯の為か、カードキーが必須になっており、僕も同じように首からカードキーをぶら下げていた。

 それをボタンの下にあるICカードケース大の大きさの範囲に翳して、ボタンを押すとエレベータが僕を迎えに来る。

 開いた扉を抜け、振り返りRのボタンを押す。閉ボタンを押し、扉が閉まる様を眺める。

 身体が下に押し付けられるような感覚に身を任せる。

「落ちたら痛いだろうなあ。痛いのは嫌だ」なんて考えながら、最後に独特な重力を感じて動きが止まる。

 エレベータのドアが開き、そのまま僕はエレベータホールの自動ドアへ向かって歩く。

 そして自動ドアを抜け、屋上テラスへ着いた僕は――。

 ――彼女を見つけた。

 長い黒髪に、華奢な身体。ピンクの病衣に包まれた白い肌がやけに眩しく見えて、僕は歩いている途中の恰好のまま、なんとも間抜けな恰好でほうけていた。

 彼女は風に靡く髪をそのままに、フェンスに指を絡め、どこか遠くを見つめていた。

 風に吹かれて消えてしまいそうな危うげな雰囲気があって、単純に綺麗で、目が離せなかった。

 風の流れるように時が過ぎ、ふと彼女が僕に気付く。

 目が合う。同い年くらいに見える。流麗な目元に、全てを見通すような力強い瞳。すっとした鼻に小さな口が、調和の取れたバランスで置かれていた。

 言うなれば、彼女は神がゆっくりと時間を掛けて造ったと言われたら納得できるような、それくらいには綺麗だった。

 単純に僕に異性への耐性がないだけかも知れないけれど。

 しばらくお互いに目が合ったまま、何度か風が過ぎていった。

 ふと我に返って、何か話さなければ、と僕は口を動かす。

「こんにちは」

「……」

「ここ、いいですね」

「……」

「あの……」

「……」

 沈黙が耳に痛い。唯一の救いは、風が吹いてくれて沈黙をある程度搔き消してくれることか。

 ふと、彼女が口を開く。

「ごめんなさい。私、知らない人と話したらダメだって、お母さんに言われているの」

 何も言えなくなる。

「僕も、言われた……」

 昔の話。

 それから、しばらく。彼女は僕を見る。

「ふふっ」

 唐突に笑い出す。

「あっははは。おかしい。あなた、真面目ね」

「え、ごめん……」

「どうして謝るの? 真面目なのはいいことよ」

 そうして彼女はまた笑いだす。

 お腹を押さえながらひとしきり笑って、目元に浮かんだ涙を指で拭う。

「ごめんなさい。楽しかったわ。あなた、名前は?」

「僕は春樹。二和春樹にわはるき。君は?」

「春樹……? あ、ごめんなさい。私は、花凪。冬樹花凪ふゆきかな。よろしくね」

 そう言って彼女は微笑んだ。


 次の日、朝食と朝の検診を終えた僕は屋上テラスへと向かった。

 彼女――冬樹花凪がいることを期待して。

 あの日、あの後すぐに花凪は「もうすぐ検査の時間だから」と病室に戻ってしまった。

 僕はしばらく冬樹花凪の見ていた方を、フェンスに指を絡めながら見ていた。

 エレベータで屋上へ上がり、エレベータホールからテラスへ出る。

 果たして、そこに冬樹花凪の姿はなかった。

 少し落胆しながら、それでも相変わらず景色はいい屋上テラスで、風に吹かれるままフェンスに指をかける。

 あの時の彼女のように。

「こんにちは」

 ドキッとした。

 背後から突然声を掛けられたこともそうだが、その声にまず驚いてしまった。

「花凪、さん……」

「はい、花凪さんです。ふふ」

 そう言って、彼女は柔らかく笑う。

「もしかして、私を待ってた?」

 柔らかい笑みから小悪魔的な、悪戯な笑みとなる。

「期待はしてた」

 待ってた、と言ったようなものだ。

「ここ、良い景色でしょ。私のお気に入り」

 そういい、横に並んで景色を眺める。

「私ね、ここが好き。まるで、私だけこの町から隔離されたみたいで」

 遠くを見つめて言う。

「それって、寂しくない?」

「そうね、少し。でもね、見て。ここから見ていると、まるで街全てを俯瞰して見ている神様にでもなったみたいじゃない?」

 得意気に、彼女は腕を広げて言う。

「だから、私好きなの。存在しない隔離じゃなくて、私が、頂点にいて、お前らを観ているんだぞ、って気になれるから」

 そういった彼女の顔は、どこか虚ろであったように感じた。


  ***


「退院おめでとう」

「ありがとう。少し、寂しいけど」

「私に会えないから?」

「そう」

「ふふ。うれしい。本当よ」

「別に、疑ってないよ」

 僕が退院してから、最初の、彼女への訪問だった。

 少し緊張もしたが、いつも通りの彼女に安堵し、緊張は知らぬうちに消えていた。

「春樹は、もう学校は行っているの? それとも、まだ休んでる?」

「まだ、休んでるよ。来週いっぱいまで、休み」

「そう。早く、戻りたいでしょ」

「うーん、どうだろ」

「私と会えないから?」

 笑いながら彼女は言う。

「そう。好きな人もいないから」

 努めて、さらりと返す。

「……そう」

 予想外の返答にそらした顔を戻すと、髪を持って口元を隠している。顔が、耳まで真っ赤だ。

 その様子に、こちらまで顔が熱くなる。

 しばらくふたりで沈黙を奏でていると、ふと、旋律にノイズが割り込んでくる。

「冬樹さん、血圧と採決を――、あら、春樹くん、お見舞い?」

 顔なじみの看護師。

「はい。僕も、暇なので」

「課題とか、溜まってるんじゃないの? ちょっとごめんなさいね、失礼」

 笑いながら、テキパキと準備を進める。

「少し、外しておくね」

「え、あ、わかった」

 少し残念そうな彼女の返答を聞きながら、病室を後にする。

 談話室の自動販売機でコーヒーを買い、外を眺める。

 屋上とは大きく違う同じ景色。

「君がいたからかな」

「それって、私のこと?」

 飲んでいたコーヒーが気管に入り込み、大きく咽る。

「わ、だ、大丈夫?!」

「大丈夫」と言おうとしても、止まらない咳に阻まれる。

 どうやら、しっかりと入り込んだようだ。止まる気配がしない。

 力む腹筋、呼応して成される咳、痛む喉、狭まる視界。

 どうにか手のひらを向け、「大丈夫」の意を伝えようとする。

 と、その手を強く握られる。

 驚いて、咽る。

 しばらく咽た後、彼女の方を見ると、その眼には湖が成っていた。

 今にも決壊しそうなそれを見て、ギョッとする。

「ごめん、大丈夫だから、ね?」

「うん、でも、凄い心配した」

 そうだ。彼女はずっとこの病院にいると言っていた。

 そして、そんな彼女が咽ただけで不安になるのは、少し、わかる気がした。

「ごめん。泣かないで。大丈夫だから」

「うん」

 彼女は手の甲で湖を枯らすと、その奥には綺麗な瞳が覗く。

「本当に心配した」

「ごめん」

「ごめんなさい」

 突然、彼女が頭を下げる。

 混乱しながら「大丈夫だから」と肩を掴み顔を上げさせる。

 掴んだ肩は、存在が怪しくなるほど細く、小さかった。

 弱弱しく、少し力を籠めたら崩れてしまいそうな危うさを感じて、すぐに手を離す。

 大切な彼女を、壊してしまわないように――。

 それから僕たちはどちらからともなく手を繋ぎ、彼女の病室へ戻っていった。

 そして、病室でふたり。取り留めもない会話をした。

「そろそろ行くよ。あまり長居してもだしね」

「むしろ、もう一度入院してくれてもいいのよ」

「おい」

「ふふ、嘘。ごめんなさい。悪い冗談よ。ただの、冗談――。」

「まったく」

「ふふ。――嘘よ。また、ね」

 そういう彼女は、何か、どこか、鈴の音のように見えた。

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