私を忘れないで

日向風

私を忘れないで

 満開の桜の下で、クーラーバッグを開けた。

 中から出てきたのは、一本のブルゴーニュ。ラベルはかすれていたが、年は読み取れた。——妻と結婚した年だ。


「もうこの一本で最後か。」

 隣には誰もいない。けれど、桜の花びらがそっと肩に舞い落ちる。


 毎年、結婚記念日の時に同じヴィンテージを開けていた。

 コルクを抜いて、グラスに注ぐ。

 煉瓦がかった赤茶色。香りは閉じていた。


 ポツリと頬を一滴の水滴が濡らした。

 慌ててボトルとグラスを手に東屋に駆け込んだ。


 サーっと音を立てて雨が降る。


 春雨の降るは涙か桜花

 散るを惜しまぬ人しなければ


 思わず口に出た。

 しばらくして雨は上がり、

 慌てて顔を出した日の光が水溜まりに落ちた花びらを照らす。


 気を取り直して桜の木の下のベンチに行き、シートを敷いて腰を下ろした。


 見上げるとまだまだ雨には負けぬとばかり桜が咲き誇っていた。


 グラスに目をやると色は明るいルビーに変わり、香りがはじけるのを今か今かと溜め込んでいた。


 そういえばこのワインの国での桜の花言葉は——“Nem’ oubliez pas.”




「待った?」

「いや、ちょうどいい頃だよ。」


 もう一つグラスを取り出して、注いだ。




(了)

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私を忘れないで 日向風 @kailuka

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