忘れたはずの心拍数

@kasumion

忘れたはずの心拍

「結衣、この間のノート、ありがとな」

声に心臓が跳ねる。振り返ると、少し照れたように笑う湊(みなと)がいた。事故に遭う前と同じ、優しい笑顔。――私に関する記憶以外は。


「う、ううん。気にしないで」

できるだけ自然に、友人として。それが、湊が事故で私のことだけを忘れてから決めた「新しい関係」。本当は「思い出して」って泣き叫びたいけど、それはできない。


湊が私の記憶を失って三ヶ月。お医者さんは、思い出す可能性は低いと言った。でも、湊が無事だっただけで奇跡なんだって、自分に言い聞かせている。


「でも、助かったよ。結衣って、頼りになるよな」

「そんなことないって」

湊は、よくそう言って私の頭を撫でてくれた。今の彼は、私を見る目に時々、何かを探るような色が浮かぶ。気のせいかもしれないけど。


帰り道、偶然を装って隣を歩く。事故前は毎日手を繋いで帰った道なのに。


「なあ、結衣」

「ん?」

「俺たちってさ、事故前、結構仲良かったのか?」

「え……? うん、まあ、クラスも一緒だったしね」

胸が痛む。嘘じゃないけど、本当のことも言えない。隣を歩く湊の横顔は、大好きだった頃と変わらない。記憶を失っても、湊は湊だ。そして私も……まだ彼のことが好きなんだと思う。


「そっか。……なんかさ、結衣と一緒にいると、変な感じなんだ」

「変な感じ?」

「うん。初めて話す感じがしないっていうか……心臓が、うるさい」

どきん、と大きく心臓が鳴る。湊が私をじっと見つめてくる。思わず視線を逸らした。期待しちゃだめだって、分かってるのに。


数日後、湊の家で勉強会をすることになった。彼の部屋に入るのは事故以来初めてだ。部屋は変わらない。ただ、私との思い出の品…ペアのマグカップや写真は、もうどこにもなかった。


「ごめん、散らかってるかも」

「ううん」

湊が机の引き出しからノートを出そうとして、手が滑り、中身が少し散らばった。慌てて拾う私の目に、一枚の写真が飛び込んできた。去年の夏祭り、浴衣で撮ったプリクラ。湊が照れながら私の肩を抱いてくれている、大切な一枚。


「あ……」

湊も写真に気づき、手に取った。不思議そうに、写真の中の「私」と目の前の私を見比べる。

「これ……結衣だよな? 隣は、俺……?」

「……うん」

「俺たち……こんな風に笑ってたんだ。すごく、楽しそうだ」

湊の指が、写真の中の私の笑顔をそっと撫でる。涙が溢れそうになるのを必死で堪えた。


「なあ、結衣」

湊が真剣な顔で私に向き直る。

「俺たちって……本当は、どんな関係だったんだ? ただのクラスメイトじゃ、なかったんだろ?」

その問いに、もう嘘はつけなかった。


「……恋人、だったよ。一年間、付き合ってた」

「……やっぱり、そうか」

湊は小さく頷いた。そして、少し悲しそうな、でも優しい目で私を見つめて、静かに尋ねた。


「……そっか。……なあ、結衣」

「……なに?」

「記憶、ないんだけど……それでも、聞いていいか?」

「……うん」

湊は一度息を吸って、言った。

「きみは……俺といて、幸せでしたか?」


その真っ直ぐな問いに、堪えていた涙が溢れ出した。事故のこと、記憶喪失、友人として過ごした三ヶ月の切なさ、それでも変わらない想い。全部が込み上げてきて、声にならない。


「……っ、うん……!」

しゃくりあげながら、必死で言葉を紡ぐ。

「……幸せ、だったよ……! すごく、すごく……幸せだった……!」

湊と過ごした一年間は、キラキラした宝物みたいな時間だったから。


湊は困ったように眉を寄せ、そっとハンカチを差し出してくれた。その優しさは昔と変わらない。

「……そっか。良かった」

湊は安心したように微笑んだ。そして、私の涙が少し落ち着くのを待って、震える私の手を、彼の手でそっと包み込んだ。


「ごめんな、結衣。何も覚えてなくて」

「ううん……」

「でもさ」

湊は私の目を真っ直ぐに見つめて言った。瞳には確かな決意の色が宿っていた。

「記憶がなくても、今の俺は……たぶん、また結衣のこと、好きになってるんだと思う」

「え……?」

「だから……もう一度、俺と始めてくれませんか? 記憶がない俺だけど……それでも、結衣のことを、ちゃんと好きになりたい」


ゼロからの告白。記憶はなくても、心は憶えていたのかもしれない。どうしようもなく惹かれてしまう、この気持ちを。


私は、まだ涙で濡れた瞳で、でも、今度は嬉し涙で、大きく頷いた。

「……うん……! よろしくお願いします……!」


失われた記憶は戻らないかもしれない。また傷つくことがあるかもしれない。それでも、湊の隣にいられるなら。もう一度、この温かい手に触れられるなら。

差し込む西日が、ゼロから始まる私たちの未来を、優しく照らしているような気がした。

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