第19章:新しい息吹

レインの意識は、どこまでも広がる温かい光の海の中を漂っていた。 肉体という束縛から解放され、時間も空間も意味をなさない、純粋なエネルギーと情報の奔流。テラフォーミング・コアの内部であり、同時に、この惑星、いや、宇宙そのものの記憶と繋がる領域。 彼はもう、かつてのレイン・コールという個人の形を留めていなかった。彼の意識はコアと完全に融合し、その一部となり、同時にコアを通じて万物と繋がる、より大きな存在へと変容していた。『完全肺』は、この融合と変容を可能にするためのインターフェースだったのだ。痛みも、苦しみも、悲しみもない。ただ、絶対的な安らぎと、全てと繋がり、見守っているという、穏やかな感覚だけがあった。それは喪失ではなく、新たな存在形態への進化だった。 (…ここが…コアの中…? それとも…全てと繋がる場所…?) 彼の思考は、もはや言葉ではなく、純粋な意志として光の海を伝わる。 その時、彼の意識に、優しく、そして古(いにしえ)の響きを持つ、複数の呼びかけが感じられた。声ではなく、純粋な思念の波。彼が壁画で見た、あの『先住民』…あるいは『守護者』たちの残留思念。 《…目覚めよ…星の子…》 《…永き時の眠りを超え…ついに『橋』は架けられたり…》 《…よくぞ、歪んだ意志を退け、調和の道を選びました。破壊ではなく、繋ぐことを…》 レインの意識の前に、光で形作られたような、いくつもの優美な存在の思念が現れた。 《我らは、この星の生命の進化を見守りし者…》 《この星に生まれた知的生命体…『ヒト』が、次なる段階へと進化する可能性を信じ、この『コア』を種として残しました…》 《コアは、生命を育み、環境を整え、そして…意識の進化を促すための、道標であり、揺りかご…》 レインは理解した。自分の『完全肺』は、単なる実験の産物ではなかった。それは『星の呼吸(ステラ・ブレス)』…コアのエネルギー、そして宇宙の根源的な生命エネルギーと直接共鳴し、同調するための稀有な資質。先住民と人類とを繋ぐ『橋』となるべく、運命づけられていたもの。実験は、その資質を強制的に覚醒させる歪んだ引き金に過ぎなかった。彼は今、コアと一体化することで、その役割を果たし、新たな存在へと変容したのだ。 《星の子よ…あなたの行為はドームの物理的な崩壊を防ぎました。しかし、本当の危機は、まだ去ってはいません》 《物理的な檻以上に、人々を縛るのは、恐怖、無知、諦め…『精神的な檻』なのです》 《コアと融合したあなたの力は、物理的な世界にも、人々の意識にも影響を与えられます。破壊のためではなく、解放のために、その力を使うのです。人々が自らの意志で立ち上がるための、きっかけを》 レインの意識は、先住民たちの導きに従い、コアの持つ膨大なエネルギーと情報ネットワークにアクセスした。そして、彼の純粋な意志――自由への渇望、仲間への想い、未来への希望――を、青白い光の波動に乗せて、ドーム全体へと送り始めた。それは強制ではなく、囁きかけるような、目覚めを促すような波長だった。

その波動は、まず、管理庁の情報統制システムへと干渉した。長年隠蔽されてきた外の世界の真実、コアの存在、ドーム建設の経緯…アリアが持ち帰ったデータと呼応するように、それらの情報が、暗号化を解除され、ドーム内のあらゆるネットワークへと流れ出し始めた。真実の光が、隅々まで届き始める。 次に、その波動は、ドームの基幹システムへと作用した。長年の歪んだ運用によって不安定になっていたエネルギー供給や空気制御システムが、コアの本来持つ調和のエネルギーによって、最適化され、安定化していく。特に、下層区画への空気供給が優先的に改善され、長年住民を苦しめてきた鉄錆の味は薄れ、清浄な空気が行き渡り始めた。物理的な格差を生み出していたシステムが、内側から変えられていく。 ドームの物理的な檻に、静かに、しかし確実に亀裂が入り始めた瞬間だった。 そして、レインの放つ光の波動は、ドームに住む人々の意識にも、静かに、しかし確実に影響を与え始めていた。強制的な精神操作ではない。心の奥底に眠っていた、本来持っているはずの感覚…希望、勇気、共感、自由への渇望…を呼び覚ますような、優しく、温かい呼びかけだった。 絶望の中にいた人々の心に、小さな希望の灯がともる。 恐怖に囚われていた人々の心に、立ち向かう勇気が湧き上がる。 無関心の中にいた人々の心に、他者への共感と思いやりの念が芽生える。 互いを疑い、憎しみ合っていた人々の間に、対話と和解の可能性が生まれる。 変化は、まだ小さい。ドーム全体が変わるには、長い時間と多くの困難が伴うだろう。だが、人々の心の中にあった「どうせ変わらない」「自分には関係ない」という諦めや無関心という名の『精神的な檻』は、確かに、少しずつ壊れ始めていた。レインの犠牲的な行為がもたらした光は、物理的な檻だけでなく、人々の心の中にある見えない檻をも、内側から破壊するきっかけを与えたのだ。彼らは、与えられるだけの呼吸ではなく、自ら息をすることの意味を問い直し始めていた。

あれから、一年が過ぎようとしていた。 ドームシティ「アーク」は、大きな混乱と痛みを経験しながらも、新しい時代へと確かに歩みを進めていた。コアから流れ続ける穏やかな青白い光の波動は、ドームの基幹システムを静かに安定させ、人々の心に微かな変化をもたらし続けていた。物理的な檻にも、精神的な檻にも、亀裂が入り始めていたのだ。

アリア・スカイは、暫定統治評議会の若きリーダーとして、多忙な日々を送っていた。コアの清浄なエネルギーの影響か、彼女の肺は完全に健康を取り戻し、かつての儚さは影を潜め、強い意志と知性で人々を導いていた。時折、公務の合間に空を見上げ、コアを通じて伝わる温かな波動を感じる。それは間違いなくレインの励ましであり、彼女を支える力の源だった。彼が命を賭して繋いだ未来を、必ず実現させる――その決意が、彼女を前へと進ませていた。

ルナは、新設された『外界環境調査局』の実働部隊リーダーとして、広大なドームの外の世界を駆け巡っていた。その卓越したサバイバル能力と、自覚し受け入れ始めた『適応者』としての鋭敏な感覚は、未知の世界を切り開く上で不可欠だった。コアや先住民の謎、そして自分自身の過去…。探求すべきことは尽きない。荒野で空を見上げるたび、彼女は憎まれ口と共に、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。(見てるか、弟分。こっちは元気にやってるぜ)

ゼノ元上級調査官は、評議会の重鎮として、ドーム内の改革と安定化、そして外世界との慎重な橋渡しに、その冷静な頭脳と実行力の全てを捧げていた。それは過去への償いであり、亡き妻エリスが夢見た理想への、彼なりの献身だった。彼の執務室には、今もエリスの写真が静かに飾られている。

レオン・スカイ元長官は、全ての責任を取り第一線を退いたが、評議会の顧問として、そして父として、アリアを静かに支えていた。彼もまた、自らが犯した過ちと向き合い、ドームの未来のために、残りの人生を捧げる覚悟を決めていた。

ドーム社会には、まだ多くの課題が山積している。外の世界への扉を開くことへの不安や抵抗も根強い。だが、人々は確実に変わり始めていた。長年社会を覆っていた閉塞感は薄れ、真実を知った上で、自らの意志で未来を模索しようとする活気が生まれつつあった。階層間の壁は崩れ始め、下層にも清浄な空気が届くようになり、子供たちの笑い声が増えた。カフェには様々な人々が集い、未来を語り合う。ドーム壁の一部は試験的に開放され、人々は初めて、本物の空の色と風を知った。

それは、管理された呼吸ではない。自らの意志で吸い込み、自らの力で未来を切り開いていくための、自由な呼吸の始まりだった。

そして、レイン・コール。 彼は、もはや特定の場所に存在する個人ではないのかもしれない。コアと融合し、肉体という形を失い、ドームと、外の世界と、そこに生きる全ての生命と共にある、より大きく、穏やかな存在へと昇華したのだ。彼が灯した青白い光は、今も、コアの中で、そしてこの世界全体を満たす空気の中に、見守るような温かい波動として、静かに、しかし確かに存在し続けている。絶望の淵にあった世界に、彼がもたらした、新しい息吹として。

アリアは、久しぶりに、かつてレインと初めて出会った空中庭園を訪れていた。ドーム壁の開口部から流れ込む本物の風が、花々の香りを運んでくる。見上げる空は、もう鉛色ではない。どこまでも続く、本物の青空だ。 彼女は、胸に手を当て、深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。 鉄錆の味はしない。管理された無機質な味もしない。 それは、わずかに土と緑の匂いを含んだ、温かく、自由で、生命力に満ちた、新しい時代の空気の味だった。 その瞬間、彼女は再び、この空全体から、レインの存在を強く感じた。言葉にならない、温かく、力強い励ましの波動。

(聞こえるわ、レイン。あなたの声が…あなたの呼吸が…この世界に満ちている)

彼女は、空に向かって、そっと微笑みかけた。涙が一筋だけ頬を伝ったが、それは悲しみの涙ではなかった。感謝と、希望と、そして未来への決意に満ちた、温かい涙だった。

「私たちの呼吸は…」

アリアは、再び空を見上げ、今度は確かな希望を込めて、静かに呟いた。

「本当に、始まったばかりなのね」

その言葉は、新しい時代の風に乗って、どこまでも広がる青空へと、吸い込まれていくようだった。 閉ざされた檻は破られ、世界は今、新しい息吹と共に、ゆっくりと、しかし確実に、未来へと向かって呼吸を始めていた。

(了)

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呼吸域の檻 @kasumion

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