第一章「陸軍省にて会う」
昭和九年の春、東京の空は薄く霞んでいた。
私は陸軍省に呼び出されていた。
正式な命令ではなかった。だが、それが“命運を決する一日”になることは、胸のどこかで感じ取っていた。
廊下の空気は乾いていた。階級章に見合わぬ若さゆえか、軍務局の将校たちが私を一瞥し、目だけで「何の用だ?」と問うてくる。私は無言で敬礼し、受付の将校に名を告げた。
「辻政信中尉、参りました」
やがて、ひとりの年配の将校が迎えにきた。言葉少なに私を案内しながら、何度もネクタイを直す仕草をする。
「杉山閣下の執務室だ」
杉山――
参謀次長、杉山元(すぎやま・げん)。
当時、将校の間では「何を考えているかわからない男」と囁かれていた。
九州小倉の出身、愛想も威厳もなく、どこか“人間らしさ”に欠けた、機械のような参謀――そんな噂が独り歩きしていた。
重たいドアをノックすると、中から「入れ」と一言。
それが、私と杉山元の最初の会話だった。
部屋は質素だった。
執務机の上には無駄な装飾もなく、壁には古い戦役地図が一枚。
その中心に、杉山元は静かに座っていた。柔らかな物腰、背筋は伸びていたが威圧感はなかった。書類を見ながら、私の顔を見ようともしない。
「辻中尉。君、ガダルカナルに行ったことはあるか?」
いきなりだった。
私は少し間を置いて答えた。
「ありません。地図でしか見たことがありません」
杉山は目を上げ、私を初めて見た。
その眼差しは、計測していた。私の経歴でも、答えでもなく――“私という存在”そのものを、だ。
沈黙が三秒、いや、もっと続いただろうか。
「あそこは、数年後に、君のような男が死にかける島だ」
意味が分からなかった。
だが、杉山はすぐに話を変えた。
「君は作戦に向いている。戦術家ではない。――よく言えば、大局観がある」
私は驚いた。私はまだ中尉で、作戦会議の末席にも座ったことがない。
だがこの男は、私を“読んで”いる。初対面で、数語交わしただけで。
その日、私が杉山の参謀班に異動になることが決まった。
異例の抜擢。理由は誰も教えてくれなかったが、私は悟っていた。
――杉山は、自分の戦略を理解する者が、まだ少なすぎると感じていた。
その日の帰路、私は雨に打たれながら考えていた。
「あの男は、何を見ている? 何年先を考えている?」
私はこれまで多くの将校と接してきた。
情熱家、野心家、改革者、俗物――だが、杉山元という男は、そのどれにも当てはまらない。
ただ、一つだけは確信できた。
――杉山元は、“勝つ戦争”ではなく、“歴史を変える戦争”を考えている。
このとき私はまだ知らなかった。
この瞬間から、私は“杉山構想”の中心に足を踏み入れたのだということを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます