便所の扉

@kesao

プロローグ『影に立つ男』

1961年、バンコク。雨季の空は重く、天井のファンは生温い風しか運んでこない。


ノートの表紙に、彼は静かに日付を書き記す。

「昭和三十六年 六月十七日」。


その筆跡は、震えてはいない。ただ、どこか――覚悟を宿していた。


――杉山元。あの人の名を、私は誰にも語らなかった。

私にとって、あの人は“扉”だった。開かれぬまま、すべてを知り、そして沈黙を貫いた扉。


便所の扉にでもなってやる、と笑ったあの日。

軍靴の音の背後で、ひとりの将軍が何を考えていたか、誰も知らなかった。


私は参謀として戦争を戦った。

あの戦争が、“どうやって始まり、どうやって終わったか”を、最も近くで見ていたつもりだった。


だが、終戦から十六年が経ち、私はようやく気づきはじめている。


あの戦争は、“敗けるための戦争”だったのではないか?

杉山元は、最初から「戦後」を設計していたのではないか?


答えを知りたくて、私はここまで来た。

東南アジアの熱気のなかで、最後の欠片を探す。


だが、もしこれが“知ってはならぬ真実”であったなら――

私もまた、沈黙の中へと消えねばならぬのだろう。


ペンを置く。外では、バイクのクラクションが鳴っている。

このノートを読む者が現れるなら、伝えたい。


――杉山元とは、歴史の中心で、最も語られなかった男である。

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